楽しい時間の旅を



 手にした時計は、なんの飾りもないけれど、わずかな光にも鈍く輝きを返す。そんなものだった。

 私は子供ではなかったけれど、自他共に認める夢見人で、なんの因果か今自分の手の平にあるこの時計には、不思議な力があるに違いない、あるはずだ、と思って願った。それは実は本当のことで、ある日、それは訪れた。

 数分進んでしまった長針を現在の時刻ぴったりに合わせる。すると周りの光景が、戻った。たった数分・・・たいした変化も感じないそれだったが、私は、見ていた。窓の外、散っていく落ち葉が、下から上へ昇っていくのを。

 これは、魔法の時計だ、と心の底から感嘆して、頬ずりまでしてみせた。それから私は、この時計で遊び始める。躊躇もなく、時計の針を一日分戻す。周囲は驚くほどの静寂に満ちたまま、目に見える全てが逆に進んでいった。丸一日戻ったその時、私は窓の外に、帰ってくる自分を見た。その時に存在するのは自分でなくその時にそこにいた自分なのだろう。気付くと同時に、ちょっとした遊び心が首をもたげる。

 一日進んで、明日へ行ってみよう。そこにいるのは、明日の自分のはずだ。

 そうして、一日分・・・正確には、昨日から合わせて二日分、時計の針を進めた。

 自分がたたずむその場所に、明日の自分はいなかった。外に出て探してみると、わりとよく行くレストランで、綺麗な女性と食事をしていた。話した覚えはないが、顔はよく知っている。他の男子達が狙っていることを小耳に挟んでいる。しかし、自分は全く興味がなかった。今笑っている自分の顔も、どこか作り物めいている。

 そこまで見て、時間を戻した。

 次の日、なぜ彼女と食事をしていたのかがわかる。それは罰ゲームで、今日返るテストの点が一番低い者が声をかけてみようというものだった。点数は予想するまでもなく自分が最下位で、しょうがないな、といった様子で彼女を誘ってみる。いいわよ、と脈のある返事。OKらしいと合図を送ると、落胆したような男子が半分ほど。自分が断られた瞬間に近付いていって、貴方のような美しい人にはコイツより俺の方が似合いますよ、なんて言うつもりだったのかもしれない。もしくは、ただバイパスをつなぐだけでも。・・・そして夕刻、彼女と食事をとっている。

 それは時計の針を回して見た光景と、同じだった。昨日から見た、明日の自分だった。

 私は、そんな小さなことに満足はしなかった。この時計で、時を渡る。ずっとずっと先の未来が知りたい。数え切れないほど何回も、針を未来に向けて回した。

 ・・・そして、見た。

 髪に白髪が混じり、腰がわずかに曲がっている。顔にはしわが浮かび、服装は裕福ではないけれど、貧乏にも見えない。見たことのない家から出てきて、道を歩いていた。初老の自分。

 年をとった自分には、特に感想もなかった。生きていれば年齢を重ねていくことは、わかっていた。それは実にすんなりと受け入れられた。

 初老の自分が、歩道を歩いている。それを見つつ、目に入った別のものに、あ、と声を上げる。背後に猛スピードの車が一台、迫っていた。次の瞬間はまるでスローモーションのように訪れて、その車は、間違いなく未来の自分を・・・轢いていった。

 血が、流れる。腕が、足が、おかしな方向に折れ曲がっている。私は、それが間違いなく自分だと、集まる野次馬の一員になって確かめた。

 信じられない、と思考だけは否定しようとする。目で入る映像の中、おびただしい量の血が地面の上を赤黒い川となって流れて、助からないな、と漠然と思う。・・・ただ未来を見たいだけだったのに、なぜ、自分の死を見なければならないのだろう? いつか人は死ぬ。だけど、死ぬまでに何かあるはずじゃないのか?

 いやだ、と思った。恐かった。時計の針を、逆に回す。元の時間に戻るため、自分がいるべきなのは、今この時じゃない。

 けれど・・・失念していたのだ。元々何回、針を回していたのか。ここが、何年後の未来なのか。

 針を過去へ回す。けれどいくら回しても、自分がいた時には戻れなかった。

 そしてついには・・・時計が止まった。

 

 それは、二度と戻れない、時間の旅となってしまった。




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