*** 学士と領主の話 *** ぼくのご主人様は素晴らしいお方ですので、同じように素晴らしきご身分、ご思想、ご容貌などをおもちの方々が、よくよく訪ねてらっしゃいます。ぼくのような者がおもてなしするにはいささか勇気がいるので、気を揉みすぎてそのうち胃に潰瘍でもできるのではなかろうか、と常々思っております。 とはいえ、さすがにご主人様の親しいお知り合いなだけあって、そうした素晴らしいものを誇張して他を謗るような方には今まで会ったこともなく、それどころか、ぼくのような凡庸な小間使いを気にかけてくださる方ばかり。恐れ多いことです。 そういえば、二日前にご主人様をお訪ねになった方の、あの見事な光輝く金の髪。右目が深い紫がかった色をしていたのが印象的なのですが、あの容姿は、どこかでお見かけしたことがあるような。……いえ、気のせいでしょう。ご主人様に拾ってもらえるまでは卑しい路上の民の一人でしかなかったぼくが、まさかあのような素晴らしきお方、目にする機会など得たことのあるはずがないのですから。 お庭の手入れをしていたところ、先日お訪ねになられたあの方が、ローダはおるか、と大声で屋敷の正門をくぐって参りましたので、その鋭い目がぼくを捉えるよりも前に、ぼくは屋敷の中に入りご主人様をお呼びしました。 「おお、ローダ、おったな! 知恵を貸せ!」 何やら焦った様子のお客人とご主人様はお二人でお部屋に籠られ、ぼくはお邪魔になりそうでしたので、お茶と簡単な菓子などをお出ししてすぐ、庭の手入れに戻っておりました。するとまもなく、ご主人様の声が聞こえましたので、何用でしょうか、と尋ねたところ、 「少し出掛けることになった。お主も支度なさい」 そう仰りました。ぼくは留守番では、と一応問うてみましたが、ご主人様はぼくを残していくつもりはないようです。その背を追ってやって来ましたお客人が、 「すまん。急であるが、一刻を争うのだ」 そうぼくを見つめるので、ぼくはそれ以上の質問を避け、すぐに支度いたしますので玄関にて少々お待ちください、と礼をし、屋敷の自分の部屋に入りました。そして、いつでもすぐ出かけられるようにとまとめてあった荷物を手に、ご主人様のお部屋に参り、同じくぼくがまとめておいたご主人様の分の荷物も持ち、すぐさま玄関へ向かいました。二人分の荷物を手に現れたぼくを見てお客人は、随分と早かったな、と目を丸くなされます。様々な予想を立て、準備は前々から行っておくもの。お客人をお待たせしなかったことに安堵の笑みが浮かびました。ご主人様の分の荷物をお渡しすれば、さすがティリス、気の利くことよ、とご主人様は褒めてくださいました。 そうしてご主人様とぼくは、お客人の土地へと招かれたのでした。 お客人はアラード様と名乗られ、治める地で暴動が起きかけている、と説明されました。暴動の理由は己にある、とも仰られました。ご主人様はその理由を知っておられるようです。ぼく一人が話が読めずきょとんとしていると、この御仁をよおくご覧、お主ならば想像くらいつくであろう、とご主人様はそう言われます。ぼくは小首を傾げつつアラード様を、失礼ながら見つめさせていただいて、しばらく後、ああそういうことかと気付きました。 「アラード様は、王族の血筋のお方なのですね。……とすると今回の暴動は、言い方は悪いですが、そのような高貴な方がこのような辺鄙な土地の領主になられている理由と、何か関わりがあると、そう思われますが」 いかがでしょうか、と問えば、アラードは一瞬目を丸くし、それから苦笑しました。 「……さすが、ローダの弟子なだけはあるな。その通りだ」 弟子ではありませんが恐れ入ります、と頭を下げつつ、ぼくは納得しました。何故、見かけたことがあると思ったのか。ぼくはアラード様とは初対面でしたが、アラード様に近しい血筋のお方を遠目に拝見したことがあったのです。 アラード様はその後、詳しい説明をなさってくれました。それは大方予想通りで、ああやはりそうでしたか、とぼくは深く相槌を打ちました。 ――アラード様は、現王の従弟に当たられる血筋の方だそうです。このような辺鄙な土地の領主などなさっているのは、ひとえにアラード様自身のご希望からだそうですが、王族の血筋として正統に近しいお方がこのような土地を治めていることを、一部の領民や貴族……アラード様贔屓のお方々は気に入らないということで、本来あるべきご身分に戻そうと暴動を起こし、王に訴え、あわよくばアラード様を新王に据えてしまおうと、そういうご事情のようです。 「私は望んでこの地におると、そう何度申しても聞かぬ」 現王が、その地位を安寧のものとするために、目の上のたんこぶであるアラード様を遠くの地へと飛ばしたのだ、とそう言い張って聞かないようです。それは恐らく、 「その者達にはその者達の打算が、あるのでしょうな」 ……そう、その通り。ご主人様がぼくの思いを代弁なさってくれました。 アラード様を王に担ぎ暴動を起こす。それはやがて覇権争いという戦争へ陥るのでしょう。 「ほんに、ひとの欲望とは果てのないことよ」 本当にそうだと、ぼくはため息をつきました。 アラード様とご主人様は、暴動を収めに出掛けるといいます。ぼくはその間、アラード様のお屋敷で、結局留守番していることになりました。外見中身ともに、ぼくは子どもです。子どもの力など、所詮小さなものですので、仕方のないことでしょう。 「ここは安全だろうから、ゆっくりしているといい。すまんな」 「ティリス。……安心して、お主の好きにせよ」 ご主人様の笑顔が、ぼくに語りかけます。……好きにして、よろしいんですね。ならば、好きにさせていただきます。 「いってらっしゃいませ、ローダ様。アラード様」 お二人を見送ってから、ぼくは、さて、と息をつきます。 ご主人様がくださった行動の自由です。せいぜい、有効に使おうと思います。まずは、王城へ飛びましょうか。今回の暴動は、ご主人様がわざわざいらしたのですから、いずれ収まります。ならばぼくは、その後の策を弄しましょう。ここ最近はすっかりご無沙汰しておりましたが、それでもぼくは、こちらが本職です。ご主人様の下で働くようになり、新しい術も色々と覚えました。また、自己流で不安定だった術に関しても、しっかりした定理を覚え直しました。これもひとえにご主人様のお陰。ぼくは、ぼくにできることをしましょう。 目当てのお方を目指して真っ直ぐに転移いたしましたところ、声すら上がらないほど驚かれました。やはり、不作法でしたね。黙って頭を下げます。 「ぼくは、学士ローダの小間使いでございます。不躾な方法で御前に現れましたこと、まこと、申し訳ございません」 何かしらお言葉が出るまで、低く頭を下げ続けます。高貴なお方はしばらく躊躇う様子を見せた後、衛兵を呼ぶこともなく、何用だ、と寛容にも発言を許してくださいました。ぼくはなお頭を下げたまま、 「はい。本日は、陛下の臣であらせられるお一人、ミロの土地を治められているアラード様のことで、助言をお一つ、お持ちしました。……直言をお許しくださいますか?」 そう問いましたところ、許す、面を上げよ、と短くお言葉をいただきました。命じられるがまま頭を上げ、控え目に直視します。アラード様によく似た面立ち、暗闇でも輝く金の髪に、両目ともが王家の血筋を表す濃い紫の瞳をなさっています。やや吊り上がった眼差しには、ひとの上に立つ者としての気迫がこもっております。 「アラードとな。……ミロの地では、今暴動が起きておるというではないか。その解決法でも持参したか」 そう言われ、ぼくはゆるりと頭を横に振ります。暴動はまもなく鎮圧されることでしょう、と前置き、ぼくは早速案を掲示します。 「王よ。貴方の従弟にあられるアラード様を、彼の地よりお呼び戻しください」 ――彼の地にアラード様がおられる限り、覇権争いの火は、それを喜ぶ他人の手で何度でも起こることでしょう。それならばいっそ、アラード様を王の下へと呼び戻し、そのすぐ足元で管理なさった方が賢明です。 「何より、仲良くなされればよろしいかと思います。そうした争いなど起きても揺るがぬほどの情を互いに持つことがあれば、いずれ、他の者達も諦めることでしょう」 無駄だと思えば、それ以上ちょっかいをかけるのは愚かです。……そう見せかければ、アラード様を上に担ごうなどとは思わぬはずです。 王はしばらく口を閉ざされたまま、ぼくを見つめます。ぼくはその視線を見返し、逆に王様の目に浮かぶ感情を観察しました。 「……その言、よくよく考えてみよう」 王がそう仰って、ぼくはほっとしました。ありがとうございますと頭を下げると、その上から、どこか困惑したような声が降ってきました。 「お前……学士ローダの、小間使いといったか」 はいと頷きます。そして、弟子ではないのかと言われ、もう一度頷きます。そうか、と訝しむ様子の王は、名は何という、と問います。ぼくは微笑み、名乗ります。 「ティリス、と申します」 王は、そうか、とゆっくり頷きました。 ――暴動が収まってしばらくの後、アラード様は、王の下へと呼び戻されました。そして、然るべき地位が与えられ王の管理下に置かれるとともに、なかなかに仲のよろしい従兄弟らしいと、噂に聞きました。 「ティリス、ご苦労だったね」 「いいえ、ローダ様。今、お茶をお淹れしますね」 頼んだよ、と鷹揚に頷くご主人様に、温かく芳しい紅茶をお出しします。庭で育ったハーブを入れたクッキーをお茶うけに出せば、ご主人様は喜んで召し上がってくださいます。美味しいね、お前は何でも上手に作れて羨ましいものだ、とそう笑われます。喜んでいただけたことが嬉しくて、ぼくも笑います。 今日も、何かと平和です。 *** 学士と王の話 *** 先日、王に、まことに不作法な方法にて面会いたしました。その際ぼくは、学士ローダの小間使いと名乗りました。それをしっかり覚えていらっしゃった王は、落ち着いてから改めてご主人様の下に使いをやり、助言の礼をしたいので城に参るように、と命じられました。元より、ご主人は誰にもどこにも属さない中立の身。しかしこの機会に、王の配下にされてしまうのではないかと、ぼくは責任を感じました。そのようなことになったらこの身をもってしても王に逆らおうと心に決め、ぼくはご主人様と二人、王都へと招かれました。 現在の王は御名を、アルハンド様と仰います。馬車で二週間ほどかけて城に着いたご主人様とぼくを、アラード様が出迎えてくれました。その節は世話になった、とご主人様に頭を下げた元ミロの土地の領主様は、今は王の下で平穏に暮らしている旨を簡潔に報告されて、 「お主が王に忠言してくれたお陰で、私の身もこのように落ち着いた。もう私を次の王に担ごうなどという者は、おらぬであろうよ」 ぼくに向けて、そう晴れやかに笑いました。それは大変よろしかったです、とぼくも笑みを返しました。 さて、和やかでとりとめもない会話をしつつ廊下を進めば、いつの間にやら王の居室へと辿り着いていました。ノックを二回、名を名乗ったアラード様を、アルハンド様は手ずから扉を開いて迎えました。そして、その背に続くご主人様とぼくを見て、よく来たな、と微笑まれます。 「長旅御苦労であった。茶でも淹れよう、適当に座っていてくれ」 そして茶を淹れようとなさるので、慌ててお止めしました。それは使用人の仕事、王様にそのようなことをさせるわけにはいきませんので。ぼくがお淹れいたしますと申し出れば、アルハンド様は苦笑して、では頼もうと仰りました。 「私はそれほど、茶を淹れるのがうまくはないのでな」 理由がどうであれ、簡単に諦めていただけてよかったです。 ティーポットに茶葉を入れ、保温用ポットから湯を適量注ぎ、やや蒸します。そして出過ぎないうちにアルハンド様とご主人様、アラード様へお出しします。皆様から礼を言われ、目礼で答えます。 「あの、お邪魔でしたら、ぼくは別室へ控えておりますが」 そしてそう問えば、皆様揃って首を横へ振られました。 「何を言っている」 「王は、ローダでなくお前に、用があるのだぞ」 書面でもそうしたためただろうと不思議そうに言われ、ぼくは驚いてご主人様をうかがいます。笑っています、にこにこと。 「実は、二枚目があったのだよ」 ……故意に隠されましたね、ご主人様。恨めしげな目で見れば、ご主人様はからからとお笑いになり、 「もし、王の用事はお主にあると素直に言ったとしたら。ティリス、お前はちゃんとここへ来おったか?」 そのような事情ならば確かに、来なかったかもしれません。そう思えば、ぼくの思うところを見越して行動をなさったご主人様のことを、責められるはずもありません。恨めしくは、ありますが……。 「怒るでないよ、ティリス」 しょうがなく、ぼくはため息をつきます。そして、アルハンド様とアラード様に、説明を求めました。 アルハンド様とアラード様は、あの折のことを詳しく話し合ううちに、いくつかの違和感に気付かれたそうです。 一つ、ご主人様とぼくには話し合う時間すらなかったのに、ぼくがご主人様の言葉を王様に伝えたということ。 一つ、王都とミロはほんの数時間で行き来できるほど近い場所ではないのに、そこにぼくが現れたこと。 一つ、ぼくの告げた言葉が、学士ローダのものにしては穴だらけで幼稚だということ。 「……」 全て真実なので何も言うことはありませんが、特に三つ目のお言葉はぐさりと来ます。 「ほれ、落ち込むでないよ、ティリス。お主はまだ若いのだから」 若いというより、子どもというべきでしょう。できうるならば、ぼくは早く大人になりたいです。勿論、ご主人様のような素晴らしい大人に。 「それで、どうなのだ?」 主語がありませんが、何を訊かれているのかはわかります。ぼくは頷きました。 「はい。ぼくはご主人様の小間使いであり、魔術師であり、先日の提案は全てぼくの判断でございました。出過ぎた真似を、いたしました」 今回ぼくが呼ばれた理由はうっすら予想が付き始めていました。非を認めつつ、予想が当たった時の断りを頭の中で反駁させます。できるだけ失礼にならないように、けれど納得していただけるように。丁寧に、無礼がないように、断らなけれ 「それはいい。今日呼んだのは、お前を我が下に召し」 「王様、申し訳ありませんが、それはお断りいたします!」 ……ああいけない、思わず遮ってしまいました。 「何……?」 王様の目が剣呑に細められます。ぼくは唾を飲み込んで、その目を見つめます。お言葉を遮り、逆らったせいでしょう。怒ってらっしゃいます。 「あ……あの」 「……」 「も、申し訳ありません、その、ぼくは……」 「……」 「あ、の……」 怒らせてしまったからには、どんな処罰も覚悟しなければなりません。言い訳を口にするのも憚られて、ただ頭を深く下げるのみです。 すると王様が、ため息をつくのがわかりました。頭を上げよと言われ、そろそろと頭を上げます。直角が四十五度になる程度まで。 「王。子どもをいじめるな」 つむじに注がれ続ける視線に体を硬くしていたところ、アラード様がそう間に割ってくださいました。王は怒ってなどいないから頭を上げろと命じられ、背を伸ばします。王様は確かに、すでに怒りを収めておりました。代わりに困惑したような目をしていらして、 「ティリスといったか。……理由を述べよ」 寛大にも、ぼくに弁明の機会を与えてくださいます。お優しい方だと感謝し、些細ながらぼくにとってはないがしろにできない理由を、口の端に上らせました。 ぼくは物心つく頃にはもう路上の民でした。その日その日を生きるのに必死で、口にするのもおぞましいようなことも幾度かいたしました。魔術を身に付けたのは幼い時分で、かつてはそれなりに地位もあった仲間の魔術師が、戯れに教えてくれたのです。 魔術の才能があることは、自分でもすぐわかりました。けれど、ぼくはずっと路上の民であると、疑うことすら、その時にはなかったのです。そして日々をひとから奪い暮らしていて、体で稼ぐことを知識として知った直後の、夜のことでした。 その日は、冷え込みました。薄い毛布一枚ではとても足りず、暖を取るにもものがなく、ぼくは初めて体を売ろうと決意しました。建物の中ならば寒気は耐えられ、金も、下手すれば食事も貰えます。とても寒くて……その誘惑を退ける、理由もなく。 ――そんな時です。ご主人様に出会ったのは。 寒さに震えあてどなく歩むぼくに、ご主人様は声をかけてくれました。そして、寒気の入らない部屋、美味しい食事、新しいまっさらな服に、透明で温かな湯、お日様の匂いがするベッドを用意してくれました。そうして、ぼくを受け入れてくださったのです。 ……ぼくはだから、ご主人様以外の誰にも、お仕えするつもりはありません。ぼくは一生をかけて、ご主人様の恩に報いるのです。 ぼくの話を聞かれた王様とアラード様は、沈黙なされました。どうしようもなく、面白いお話ではありませんでした。 「王様。ですからぼくは、王様にお仕えすることは……。申し訳ありません」 勝手な言い分です。しかし、ぼくは誰よりもご主人様に恩があります。不敬かもしれませんが、それこそ、王様よりも、です。 王様はしばらく口を閉ざしておられました。ぼくの意を汲もうとしてくださっているのは、その目を見ればわかります。しかし王様は、相当ぼくを気に入ってくださったようです。名残惜しそうな口惜しそうな、そんな表情をなさります。 王、とアラード様が呼ばれました。諦めろ、と言外に申されています。けれど王様はなかなか言葉を発しようとしません。審判を待つぼくも痺れを切らせて、口をききかけたところ、 「王よ。この子がいなくなりましたら、私も寂しいものでございます」 ご主人様が、そう口添えしてくださいました。そして、こう続けます。 「どうぞ、この子は私の下へ置いてくださいませ。何、哀しむことはありません。私もティリスも、貴方に呼ばれれば、いつだってすぐに馳せ参じましょう」 ご主人様の言葉に、ぼくは大きく頷きます。ご主人様と離されてしまうのは困りますが、王様の召喚に応じぬほど、恐れ知らずではありません。それに、寂しいのは悲しいことですから、ぼくでよろしければ、時にはお側におりましょう。 王様は苦笑して、承知した、とご主人様とぼくの案を受け入れてくださいました。 それから、王様とアラード様は、ご主人様とぼくをたびたびお呼びになられます。どうしても忙しい時や他のご来客があった時などは、召喚に応じられないこともありますが、王様はそのような無礼も苦笑で許してくださいます。 元より、ご主人様は中立。王に膝を屈せず、民に混じらず、賤しき者の手を取られる存在です。 ぼくはそのようなご主人様を尊敬しつつ、今日も美味しい紅茶の研究をします。 香り高く、色良く、味わいを殺すことなく。……それはどこか、ご主人様そのものに、似ているような気もします。 「ティリス、二人分、お茶をお願いできるかい」 今すぐにと答え、ぼくはポットと茶器を盆に載せ、声のした方へ向かいました。 *** 学士と弟子と運び屋の話 *** ご主人様は、魔術を使うことができません。あれほど出来たお方ですが、魔術というのは先天的な才能が大きく、使えない者はどう足掻いても使えないものだといいます。そのため、魔術師資格を有する者は、才ある者を見つけ次第教え導くという義務を課せられております。 そんな理由でぼくは、時折お二人の師に魔術を教えていただいております。お一人はご主人様のお弟子であり、端整なお顔立ちをなさった優しいフェルラート様。もうお一方はご主人様のご友人で、運び屋をなさっている明朗快活なドウワ様です。ご迷惑をおかけすることはとても心苦しいですが、お二人はともに義務を正しく果たそうとなさる方々なので、ぼくはただ、精一杯その教えを吸収するのが、最良の恩返しなのです。 今日は、午前中にフェルラート様が参られました。そして、夕刻前、ドウワ様もいらっしゃいました。お二人は親しい間柄で、しばらくぶりの挨拶を交わした後、夕食前の空き時間で魔術を教えよう、とぼくに提案してくださいました。ありがたいことでございます。 お二人同時に教えていただくのは初めてのことですので、とても、楽しみです。 「さて、ティリス。あの癖はしっかり直っているかな」 フェルラート様はそうにっこり微笑まれて、ぼくの一番得意な……そして一番不安定な、転移の魔術を使ってみるようにと仰りました。 「時間がかかっても構わない。完璧に、やってみな」 ドウワ様はフェルラート様に続けてそう仰られ、ぼくは頷きます。たっぷりの時間と落ち着いて取り組める場所さえあれば、もう危険で無様な転移などしない自信はあります。 まず、転移する範囲を陣で囲みます。その中には当然僕が含まれており、地面と上空は含みません。この範囲の中のもの……ぼくと周囲の空気を大気中の魔力の流れに乗せ、望む場所に運びます。陣は範囲指定とともに個の境界の役割も果たすので、念入りに描き、間違いがないかを必ず確認しておきます。陣さえしっかりと描ければ、魔力の流れに呑まれることはありません。安全性を高めるならば転移先に目印となる陣をもう一つ描いておくことですが、これはあまり汎用性がないので師のどちらもさほど強く勧めません。 完璧な陣を描き、癖を出すことなく転移を成功させたぼくを、お二人は褒めてくださいました。ぼくとしてはまだまだだと思いますが、よくやったと言われるのはとても嬉しいことです。 夕食の支度をしなければならないのであまり時間が取れず、ぼくへの教えはほんの少しの助言と訂正点の指摘のみとなりました。ゆめゆめ忘れず、次に活かしていこうと思います。 フェルラート様が、夕食のお手伝いをなさってくださるということです。お客様ですので断ろうと思いましたが、ぼくがここへ来るまでの数年間、フェルラート様はご主人様に毎食を作って差し上げていたというお話をうかがったことがあったのを思い出し、きっとご主人様もフェルラート様ご自身もお喜びになられると思ったので、ありがたく手伝っていただくことにしました。 今夜の夕食はとても素晴らしいものとなるに違いありません。 フェルラート様は野菜を豊富に使ったある異国の料理が得意だということです。ぼくはそのレシピを、お手伝いしつつ覚えることにしました。 用意する材料は、ジャガイモ、玉ねぎ、人参、豚肉、バターや諸々の香辛料などです。まず、ジャガイモ、玉ねぎ、人参を適当な大きさに切ります。肉は適度な大きさに解しておきます。初めにバターと油で肉を炒めますが、臭み消しに摩り下ろした生姜を少々使うとよろしいようです。軽く肉を炒めた後、野菜を合わせてさらに炒めます。油が全体に回ったら、湯を注ぎ香りのよい乾燥させた葉を数枚入れ火にかけ、沸騰したら弱火でことことと煮て、じゃがいもが柔らかくなった辺りで一度火を止めます。異国の調味料、すでに固形に固めてあるそれを適量溶かし、さらに煮込めば緩いとろみがつき、良い匂いの茶黄色をしたスープが出来上がります。これを、白米にかけて食べるそうです。味見をしたところ、ぴりりと辛い、体の温まる料理でした。 雑談しつつスープを作っていたフェルラート様は、次にレタスの葉を千切ってサラダを作り始めましたが、その手をふと止めると、ぼくをじっとご覧になり、 「君は自分で自分を卑下するけれど、実際、常人より一芸に秀でていることは、理解しているだろう?」 出し抜けにそう仰りました。確かに、ぼくの魔術に関しては、その認識を否定する要素がありません。はいと頷きましたところ、フェルラート様は困ったような、呆れたような顔をなされます。 「それならば。何故、それほどに“小間使い”であることを、頑なに望むのかな」 その質問の意図するものが、よくわかりません。困って眉尻を下げ首を傾げれば、フェルラート様はしばらく険しい表情でぼくを見抜いていらっしゃいましたが、やがてため息を一つつかれ、しょうがないなと苦笑いをお浮かべになりました。 「ティリス。私は、君がどれほど否定しようと、君は先生の弟子で私の弟のようなものだと、そう思っているよ。いつか……その想いを知ってもらえる日が来ると、願っている」 何をどう答えたらよろしいのか、ぼくはただ目を逸らします。フェルラート様の願いに答えられる日などきっと訪れないだろうことを、とても、申し訳なく思いました。 出来上がった夕食を四人で囲み、和やかに食事を終えました。その後洗い物をしていたところに、ドウワ様がいらっしゃいました。なお、フェルラート様につきましては、片付けの手伝いもしようと仰ってくださったのですが、さすがにそれは申し訳ないので、丁重にお断りさせていただきました。 「よう、ティリス」 「はい、ドウワ様。何か?」 エプロンで手を拭き近くに寄れば、ドウワ様はにっとお笑いになり、手伝うぜと大股にぼくの横を通り過ぎ、洗い途中の皿に手を伸ばされます。 「あ、いえ、大丈夫です。どうぞ、お気になさらず……」 慌てるぼくを半ば無視し、ドウワ様は鼻歌交じりに泡を立たせます。こうなってはどれだけお止めしようと無駄ということくらいわかっておりますので、ぼくは小さくため息をついて、お気の済むまでお手伝いしていただくことにします。 「そういえばよ」 油汚れを手際よくこすり落としながら、ドウワ様がお声を上げます。洗い終えた皿を布巾で拭きながら、ぼくははいと答えます。 「随分、魔術がうまくなった。頑張ってるな」 まだまだです、と首を横に振ります。ドウワ様はそんなぼくを横目に見て、 「まあ、そう謙遜するな。たまには素直に認めてみろ」 そう仰られます。……時々、ドウワ様にどう対応すればいいのかわからなくなります。今の場合、頑張ってますと言い直すべきなのでしょうか。でも本当にまだまだだと思っているのに、嘘をつくのはどうなのでしょう。 「あー……。まあ、頑張るのも、ほどほどにな」 考え込んだぼくに、ドウワ様は逃げ道を与えてくださいました。ほっとして頷けば、ふとドウワ様は真面目な顔をなさって、 「なあ、ティリス。お前、転移術の癖……実は、直せてないだろう」 厳しい声音で断言なさりました。ぼくは一瞬、手に持った皿を落としそうになりました。さすがに、鋭いお方です。 「……申し訳、ありません。あれだけ丁寧に、厳しく、教えていただいているのに」 見抜かれた以上、言い逃れる理由も術も、ありません。確かにぼくは、転移時の困った癖を、いまだに直せずにいます。 それは、転移陣の作用に関係しています。個の境界……ぼくは、これを疎かにする傾向にあります。自己流で習得した転移は、魔力に乗るのではなく、その流れに溶け込むという形式を取っていました。この方法だと、己を失ったが最後、流れの中から戻れなくなるやもしれません。魔力の流れが一瞬でも乱れたら、どこに転移するともしれません。 「謝る必要は、ないけどよ」 水を止め、タオルで手を拭いて、ドウワ様はしゃがんでぼくと目線を合わせます。 「ティリス。……俺は、お前が心配だよ」 ご心配をおかけしていることが、あまりに情けなくて、その真っ直ぐな目を見つめ返すことが出来ませんでした。 フェルラート様、ドウワ様ともに、お忙しい身の上です。次の日、太陽が中点に昇る前に、お二人はそれぞれのお仕事に戻っていかれました。 たった一日でしたが、お二人が来られると、このお屋敷がとても賑やかしくなります。なので、いなくなられると、何だかやけに静かです。 空では鳥が鳴きます。地では小さな虫が羽音を響かせます。風が優しく葉を揺らし、太陽の光が音楽のようにぼくへと注ぎます。 「今日はいい天気よの、ティリス」 はいと答えたぼくにご主人様は、庭の手入れでもしようかね、と提案なされます。そうですねと頷き、ぼくはご主人様と並んで歩き始めます。 穏やかで緩やかな、昔は想像一つすることのなかった、平和な日々。 ご主人様と二人、変わりのないような、けれど何もかも毎日違うこんな日々を、ぼくは、いつまで過ごしていくでしょうか。 *** 学士と民の話 *** ご主人様は時折、自ら街へ足をお伸ばしになられます。そして、貧しき者に施しの手を、富みし者に諫言を、授けられるのです。かくいうぼくも、そうして施しを受けた者の一人です。施しどころか、住処と仕事、正しき魔術まで授かったのですが。 「ああ、ローダ様。こんなところに、また……」 「ありがとうございます……ありがとうございます」 痩せた子どもを抱きご主人様に縋りつく女性と、その病弱な妹。この家族は、働けない妹と育ち盛りの子どもを、彼女とその母親二人で支えています。粗末ながらもまだ家があり路上の民に比べればよほどましですが、生活には困窮しています。 この国では格差が肥大しています。ご主人様が依然こう仰っておりました。善き王や領主が努力をしても、一部の者達が弱きを罪と見なすのだ、と。 ご主人様は、必要以上の施しをなさいません。施しを受けるのに慣れたら、施しがなければ生きていけなくなっていくからだといいます。そして、ご主人様がいつまでも施しを続け、貧しき者全てを養っていくことは、できないからです。 学士は、国を越えた存在。何事か長けたものによって、誰にも縛られず必要な時、その力を行使する者です。ご主人様は知略に長けた学士で、善良な人柄がよく語られております。ぼくが知る限り学士と呼ばれる方は後三人いて、それぞれ魔術、剣術、薬学に長けておられるそうです。 ご主人様の背を追って歩けば、成されてきた行為の尊さを知ることができます。道が清潔で明るくなり、役人が民と親しげに話し、人々は微笑んでおります。 どれほど貧しくつらくとも、誰もが微笑んでいられるならば、それは善い社会であることでしょう。 夜も深くなり。空には月がわずか光り、星が小さく瞬きます。 家無しの路上の民に、ご主人様が話しかけます。野良猫のような警戒心でご主人様を睨みつけているその者は、ぼくと同じくらいの年の子どもで、弟らしき痩せた少年を背後に庇うようにして立っています。 ご主人様は無理に近付かず、二人の少年の前にお土産として買った焼き立てパンと果物を置いて、何も言わずに去りました。 「……のう、ティリス」 その足で屋敷への道を辿る間に、ご主人様はぼくに話しかけます。何でしょうかと返事をしますと、 「あの子達は、凍えておらぬかな」 そう問われますので、即答いたします。 「大丈夫ですよ。今日はきっと、昨日より少し……温かくいられます」 経験として知っています。彼らが兄弟であっても、そうでなくとも、一人でなければ大丈夫なのです。ましてや、ご主人様がしたように、誰かに気にかけてもらえたならば。 「……そうか。それは、良かった」 どこかほっとしたように仰られるご主人様を見て、ぼくは少し微笑みました。 ぼくはあの路上に、あの日以来、帰っておりません。路上の民であった頃、決して不幸ではありませんでしたのに、今こうして人並みの生活を送っておりますと、あの時分が何故か、とても不運で悲惨であったように思えてきます。 寒い夜。冷たい食事。未来はなくともどうにか笑い合っていようと、同じ路上で生きる者同士、体を寄せ語り合いました。……きっと、今のぼくを見たら、彼らは喜んでくれるでしょう。良かったな、と。貧しくとも、とても優しかった彼らならば。 ――ぼくは間違いなく、幸せを手に入れたのでしょう。 けれど、この幸せを得るのはぼくでなくても良かったのだということは、重々、承知しております。 *** 学士と友の話 *** 気を逸らしてはいけないとあれほど注意されていましたのに。 迂闊なことに、ぼくは、転移魔術の練習中に、完全に気を逸らしてしまいました。何故それほど気が逸れたかは定かではありませんが……何か、食器が大量に割れたような、凄まじい音がした気がします。それでも、その程度で気を逸らすなんて、まだまだ未熟な証拠です。 咄嗟に癖が出てしまったらしく、体中が痺れるように痛みます。たった一度でこれほど魔力に溶けた影響が出てしまうのだとしたら、よほど長距離を移動してしまったようです。というのは、目に入る光景だけでも理解はできるのですが。 ……ここは、どこでしょうか? あの国ではまだ、こんな大雪は、降らない時期ですのに。 肩近くまで埋まってしまうほど、雪が深いです。周囲の空気を魔術で少し温かくしているのですが、それでも刺すような冷たさです。どんよりとした灰色の空から雪は降り続け、ぼくは身動きもとれません。どうしたらよいのでしょう。 そういえば前に、フェルラート様から手渡された首飾りがあります。フェルラート様に連絡を繋ぐための魔術が込められたものです。これを使えば、フェルラート様に助けていただくことができますが……。 連絡は、とらないことにしました。このようなことでお手を煩わせるのは、申し訳ありません。 感覚のなくなる体で魔術を紡ぎ、周囲の雪を水蒸気に変えます。体が動かせるほどになったら、雪を踏み固めて場を作り、陣を描きます。ここがどこだかはわかりませんが、雪が降るならば北の地。南へ向かって何度か転移をすれば、屋敷に帰れるでしょう。 と、ふと思いました。陣を描く手を止めます。 「……ぼくは、帰ってもいいのかな」 寒さに震える声は、自分自身でもか細く聞こえました。 ぼくは、ご主人様のお情けであの屋敷で暮らしていますが、元は路上の民です。今も心の中では……ぼくはなお路上で暮らしております。 ぼくは、帰ってもよいのでしょうか。ご主人様の下へお仕えする価値が、あるのでしょうか。このような、芯から路上の民であるぼくが、何故ご主人様のお傍に仕えているのでしょう。そもそもそれが、間違いなのです。 かじかむ指で描いた陣は、歪んでいます。貧弱な体は凍えきって、吐く息が空を白く染めます。あの寒い路上で、ぼくが求めたのは優しさと温もりでした。ただ、それだけでした。 ご主人様は、それを与えてくださいます。フェルラート様にドウワ様、アルハンド様やアラード様。他にも沢山。……皆様、その優しき御心と温かき手を、ぼくに差し伸べてくださいます。 でも、ぼくには、それを受け取るだけの資格はありません。多くの路上の民の一人であるぼくだけが何故、路上の民でなくなることが、許されるというのでしょう。 とりあえず、ここにいてはいずれ凍死します。それは望むことではありませんので、多少手抜きですが陣を描き終え、南の方向に転移魔術を用います。 一度目の転移で、街へ出ました。さっきまでいたのが最北の山脈であったとわかりました。 二度目の転移で、森の中に出ました。雪はうっすらと積もっている程度で、大分南に来たことがわかりました。 三度目の転移で、沼地に出ました。ぬかるむ地面に腰を下ろし、しばし休憩することにします。さすがに、完璧な形での転移とはいえ、これほど連続で用いると疲れます。 こういうところにいると、思い出します。あの路上で、一人で凍えた日々を。ぼくに話しかけ共にいてくれた仲間を。悲観する顔、微笑む顔。ティリスと名付けてくれた、友の声。 ――帰りたいと思うのは、何故でしょう。 泣きたいほどに懐かしく、温かく、蘇るのは。 「帰ら、なくちゃ」 ぼくはずっと、そこで生きてきたのです。こんな一時の夢を、見る理由もなく。 ふっと目を開ければ、見知らぬ天井がありました。ぼんやりとそれを見つめ続けて、考えます。何があって、ここはどこで、どうすべきか。とりあえず身を起こしてみましたところ、随分重くて驚きました。やけに温かいなと思っていましたが、ぼくはベッドに寝かされていて、部屋の暖炉に火が入っているためでした。 体を確かめてみれば、腕や足、頬などに負った傷は丁寧に手当されています。思い出してきました。ぼくは、転移魔術に失敗し自力で帰る途中、何度目かの転移で力尽きたのです。軽く凍傷になっていたであろう手足を癒してくださったのは、誰でしょう。森に落ちた時の擦り傷を治療してくださったのは? ここはどうやら、どなたか高貴な方の寝室であるようです。ならば、続く扉の向こうには、そのどなたかの居室があるでしょう。だるい体を引きずるようにして扉まで行き、開けます。するとそこには、 「え……。王、様?」 王様とアラード様が、執務机に向っておりました。お二人はぼくの声を聞きぱっと顔を上げられると、ほっとしたように息をつかれます。 「ああ、起きたか」 「随分寝坊だな。全く……」 近寄ってこられたアラード様に抵抗する間もなく、ぼくは脇の下に手を差し入れられてひょいと抱き上げられてしまいました。そして、驚いて固まったぼくを抱いたままソファへ腰かけます。隣には王様も座りました。 「あ、あの……」 狼狽するぼくを近距離から見つめる王様は、冷たい目をしています。その迫力に負け、ティリスと名を呼ばれると同時に、はい! と勢い良く頷きます。 「お前、何を考えていた? 死にかけたのだぞ!」 本気の叱責に、びくりと体が震えます。……訊けば、ぼくの状態はかなり酷かったらしいです。凍傷を起こした両手両足は壊死しかけ、無茶な転移魔術を連発したせいで精神を傷付け、さらには高熱を出していたといいます。 「ローダの弟子のフェルラートが見つけて、衰弱が酷くて魔術では救えないと、ここへ連れてきたのだ。腕の良い医師を、とな」 それから五日、ぼくは眠り続けていたそうです。今日の午前に熱が下がり、今は夕刻。窓から見える空は綺麗な赤色でした。そんなに、と言葉を失くすぼくを王様は厳しい目で見つめ、ため息をつくと執務机の方へ戻っていかれました。ぼくを無視するように。 「……ティリス。ローダとその弟子は、お前が起きるまで厄介になるからと、王宮内でしばし働いておる」 起きたならば顔を見せに行こうと、アラード様はぼくを抱いたまま立ち上がります。ぼくは与えられた温もりと体のだるさのため、思わず、抱えてくれる腕にしがみついてしまいました。 ご主人様が働いていらっしゃる書庫への移動中、庭の手入れを手伝っていらっしゃるフェルラート様とお会いしました。フェルラート様はぼくを見るなりその整ったお顔をしかめ、 「貴方には失望しましたよ、ティリス」 そう仰られました。お叱りの言葉は覚悟していたとはいえ、さすがにこれには言葉を失くし、うつむこうとする顔をどうにか固定してフェルラート様を見つめます。失望、という言葉に……胸が酷く痛みます。 「私が何故貴方に首飾りを持たせたのか、理解していなかったのですか。貴方の不安定な転移で万が一が起きた時、助けに行くためです。それを貴方は、自分の力を過信し、無茶をして……私を侮辱しているのですか? 魔術の師などいらないと、心の底ではそう感じていたとでも?」 「違っ、違います、フェルラート様! そんなことは……!」 「貴方がしたことは、そういうことだと言っているのです。……ティリス、貴方は自らを正しく評価できる、そんな子だと思っていたのに」 残念です、と悲しそうな顔で告げ、フェルラート様はそれ以上聞く耳を持たず、ぼくに背を向けられました。 王様に続いて、フェルラート様。ぼくを抱いてくださっているアラード様も、今の会話に何も言わないということは、同じ思いなのでしょう。 ……ぼくは、信頼を裏切ったのだと、ようやくわかりました。 ご主人様は説教らしいことなど何も言わず、ただ優しく、元気になったかいと笑いかけてくださいました。ああ、怒っていらっしゃらないのだ、とほっとしたのも束の間、ぼくは続いたご主人様のお言葉に凍りつきました。 「では、私はそろそろ失礼しましょう。アラード様、王によろしく仰ってください」 ご主人様も、ぼくに愛想を尽かしてしまわれたのです、か? 「ああ、わかった。気を付けて帰られよ」 ぼくは、それほどの過ちを、犯したのですか? 「フェルラートはどこにいるのでしょうか」 信頼を、裏切って。失望、させて。 「ここに来る途中にある庭の手入れをしていた」 そうして、この温もりを失う? 「……だ」 ご主人様が、去っていきます。アラード様も、ぼくを床に下ろしてその背を追います。ぼくは、ぼくは、また、貧しい生き方をすることになって、でもあの路上にも戻れずに、一人で。 「や、だ……」 今度こそ、本当に一人で。 待ってと繰り返す口に対し足は固定されたように動かず、遠ざかる背を見つめ続けます。待って、行かないで、ごめんなさい……ごめんなさい。次第にぼやける視界の中、二人の背は完璧に消えてしまって。 「やだ……や、だぁ…………!」 それでも、駄々をこねるようにいやだと口に出すしかできず。 やりすぎだ! と叫ぶ声と、ぼくをぎゅっとしてくれる腕。 「ちょっとこらしめるだけって話だったろ?! こんなに怖がらせてどうする!」 泣くな、と頬を拭ってくれる手の持ち主は、 「ド……ま」 ドウワ様です。……何だかおかしいな。名前を呼ぼうとしたのに、声が上手く出ません。息がつかえて、苦しいです。 「ティリス。あいつらは別に、本気でお前を無視して置いていこうとしたわけじゃないぞ。ちゃんと反省さえしてくれればいいんだ。ほら、泣くな」 言われて自分の頬に手をやれば、濡れていることがわかります。自業自得だというのに泣くなど情けなくて止めようとしますが、止まりません。しゃくりあげているから苦しくて、つらくて、ドウワ様の優しい声にすら申し訳なさを感じます。 「ごめ、なさ……ご……め、さい」 「ああもう、ティリス。心配かけたって、わかってくれればいいんだ。怒ってねえよ」 「私は怒っているがな」 「私も怒っていますよ」 「ちょっと黙っとけ! ……ティリス?」 王様とフェルラート様の声に、ごめんなさいと、謝ることしかできません。ぼくなんかのせいで、心配させてごめんなさい。怒らせてごめんなさい。謝って謝って……許してもらえなかったなら、ぼくはどうすればいいのでしょう? 「おい、ティリス」 「……ティリス?」 あの路上にすら戻れない、こんなぼく。ごめんなさい、ここにいて。 ティリス、と名を呼ばれ、うつむいた顔を無理矢理引き上げられました。 「……ごめん、なさい」 きっとぼくは、存在するに値しないのです。……あの路上に、友の下へ戻ろうとしました。けれどぼくは、あの場所を、覚えていません。結局、その程度だったのでしょう。大切な、家族のようなひと達だったのに、ぼくは何て薄情なのでしょうか。 だからといって、ご主人様に重用されるほど、ぼくは小間使いとして優秀ではありません。そもそも、誰かの優しい心を受け取れるような人間では、ないのです。 「……ティリス」 覗き込むご主人様の瞳は澄んで、ぼくのような醜い者を視界に入れては、濁ってしまいそうです。放してください、とぼくの頬に伸びる両手を少し乱暴に弾いて、距離を取ります。 「ティリス」 「ぼくは、」 口々に名を呼び、戸惑ったようにぼくに近寄ろうとする方々を、精一杯睨みつけます。……そう、ぼくを拾って、温もりを与えたこの方々が悪いのです。ぼくのような者、放っておけばよろしかったのに。 「ぼくは……学士に仕えてよいような者では、ありませんでした。この心は、いまだあの路上で寒さに震えています。仲間を、名を付けてくれた友を捨てた罰で、一人、あの場所に」 ――何故、 「こんな夢を、見せたのですか。これほど幸せで、温かで、消したくないような夢を。……あまりに残酷です!」 ……もう、ここにはいられません。せめてこれ以上汚れた言葉を吐かないように歯を食いしばって、ぼくは素晴らしき方々に背を向け、走りました。 体力はまだ戻りませんが、一度や二度ならば転移ができるでしょう。元々ぼくは転移魔術を、盗みのために使っていたのです。その時の感覚を思い出してきます。追われる身、隠れた暗闇。怒声。細い路地。角を曲がって一瞬相手から見えなくなったら……、 「やめなさい!」 慣れた転移をしようとしたところに、追いついてきた声が体ごと覆い被さりました。咄嗟に抵抗すると、さらに強く押さえつけてきます。 「放し……!」 「やめなさい、ティリス! それは本当に危険なのですよ?! 今のように弱った体で、まともな転移などできるはずない!」 その言葉にはっとします。今ぼくを押さえつけているのは、食料屋の店主では、なくて、 「……フェルラート、様?」 抵抗をやめますと、フェルラート様はぼくの上からおどきになります。ふう、と息をつき、ついで、 「……馬鹿ですかっ、貴方は!」 常にない激しさで怒鳴られました。びくっと身を竦めたぼくの頭に、その時げんこつが二個、落ちてきます。手加減なしに。 痛みに悶絶するぼくに、二人分の声が、勝ち誇ったような調子で降ってきます。 「くだらないことにこだわってうじうじしてんじゃねえ、ガキ」 「これだけ強く殴っても、まだ夢だというのか?」 ぼくは頭を抱えたまま素早く上を仰ぎ見て、いいえ、と返します。……これ以上げんこつを食らうのは、御免です。 全く、と呆れたような顔をするお二人の名を、ぼくは確かめるように口にします。 「……ドウワ様、アラード様」 呆然と座り込むぼくを、ドウワ様がさっと抱き上げました。思わずきゃあと声を上げたぼくを近距離から見つめ、 「……少しは、すっきりしたか?」 そう問われます。きょとんとしたぼくに苦笑なさったドウワ様は、しょうがないやつだと軽く頭突きをされました。 そのままご主人様のところまで運ばれ、眼前に下ろされます。……今のさっきで非常に気まずいのですが、ご主人様はぼくに対して、怒るでも呆れるでもなく、微笑んでおられます。 「のう、ティリス」 よいしょ、と腰を屈めぼくの目線に合わせるご主人様に慌てて手を差し伸べますと、その手を逆にしっかりと握られます。ご主人様は、ほっほと笑います。 「お主がいた街にはな、もう、路上の民はおらぬ」 え、と上ずった声が出ます。驚きで声も出せずただ続きを求めて凝視すれば、私は学士だ、と当たり前のことのように仰られます。確かに、それだけで意味がわかります。 「この国の王である私と、この学士が共にある。これ以上、路上の民は増やさん」 王様の断固とした物言いに、ぼくはただ頷きます。……ぼくの仲間、友。彼らは間違いなく、今、それぞれ幸せに暮らしています。ありがとうございます、と言いたかったのですが、唇が震えて言葉になりません。 下向くぼくの頭をくしゃりと撫でて、ご主人様がぼくの名を呼びます。二度、三度繰り返されて顔を上げましたところ、どこか悪戯げに笑みを浮かべたご主人様。 「ティリス。我らは、友だ」 小間使いであり、弟子であり、運び屋であり、王族であり、学士であっても。 「我らは、友だよ」 空は青く、風はそよぎ、花は開き、光は天から降ります。 紅茶のポットと人数分のカップ、お茶菓子のクッキーを盆に載せ歩いておりますと、その盆を横手からさらわれました。重いだろ、大丈夫ですよ、そう言いつつその好意に甘えます。 冬が巡り、春が訪れ。ようやく温かくなった雲の下、今日も穏やかに日が射します。 木陰のテーブルには、全員が座って、ぼくらを待っていました。微笑みに微笑みを返し、カップに紅茶を注ぎ、配ります。 そしてぼくも、同じ席へ着きました。
web拍手二弾。
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