宰相の弟子

グレフィアス歴645年   5





 はらりと、窓の外に白いものが舞った。

「・・・また降ってきましたね」

 音はなく、ひらりひらりと増えていく雪。今年になって降るのはこれで三回目である。とはいっても前回の二回ともそう降らず次の日にはあらかた溶けてしまったので、今回もやはり積もりはしないだろう。

「ああ・・・そうですね。今日は冷え込んでいますから。フィリ、寒くはありませんか?」

「大丈夫です。寒さには慣れていますから」

 しばらく目を向けていた窓から視線を戻す。目の前の書類を片付けるために、静かにペンを走らせる。ユリウスもまた同じように書類を片付けていた。年度末なだけあって、二人の前には丸一日かけてようやく終わるくらいの量の書類が、山となって処理を待っている。

 年越しの、夜。王宮の中は、とても静かだ。シリカの話すことには、王族達は毎年新しい年を揃って静かに祝うというし、王宮で働く侍女や料理人、文官や騎士も、あらかた家庭に戻って新年を迎えるという。かくいうシリカも、今は王宮内にいない。フィリウスが一日暇を出した。警備の騎士も最低限人数しか残されていないため、ただでさえ人の少ないこの場所には、今まさしくフィリウスとユリウス二人しかいない。

 この師と弟子は、二人とも沈黙を苦としない種類の人間だ。そのために、時々どちらかが口を開きはするが、基本的にはずっと言葉一つない状態が続く。

 雪の降る音すら聞こえてきそうな静寂の中、遠く鐘の音が届き始める。ユリウスはふっと目を上げて、時間を確かめる。もう、年が明けていた。

「・・・少し、休憩しましょうか」

 その言葉をきっかけにフィリウスはペンを置く。お茶を淹れますと立ち上がった弟子を、

「いえ、今日は私が淹れましょう。座っていなさい」

 そう言って休ませる。フィリウスは少し不満そうに、はいと返事をする。扉を開けて、不思議な色合いの茶の髪がその向こうに消えるのを見送る。

 カップと湯と茶葉、軽食や菓子類などは全て、誰も使い手のいない隣室に揃えられている。ユリウスがそれらを持って現れるのは、だいたい二、三分後。フィリウスはその短い時間を手持ち無沙汰に思って、窓を開けてバルコニーに出る。途端、冷気が体を冷やし始める。バルコニーの半分から外側はうっすらと雪が覆っていて、室内から届く光で淡くオレンジ色に染まる。一歩踏み出すと足跡が残る。雪は肩や頭にはらはらと降りかかっては、積もりもせずにどこかへ消えていってしまう。

 ――雪は、死すら包み込む、神の御業。その腕に抱かれた者は、永久の安息へ辿りつく。

 ほとんど毎年雪が降る頃に、誰かがいなくなっていた。小さな頃は山の神様の仕業だと怖がっていたものだが、何てことはない、ただただ、険しい山から帰れなくなった地元民が多くいるというだけの話である。

「永久の安息、ね」

 どこが安息だと皮肉に思う。寒さに震えながら死ぬのは、決して楽ではないのにと。

「・・・フィリ」

 呼ばれて振り向く。ユリウスが、窓枠に手をかけ呆れた様子でフィリウスを見ている。

「そんな薄着で雪に降られて、風邪でも引きたいのですか? 早く中に入りなさい」

 ごめんなさいと謝り室内に入る。ほんの一分ほどの間だが、確かに体は冷えてしまった。ユリウスは湯気の立つ紅茶を差し出しながら、

「珍しくもないでしょうに、雪など。・・・カディアの生まれでしょう?」

「ええ。・・・ただ、少し懐かしくなりまして」

 カディアは、北の霊峰ガエトの麓街。王都からは徒歩で二ヶ月以上かかるような、グレフィアス国でも辺境の、一番北端にある街だ。山向こうには隣国マルカートがあり、マルカート国との交易はカディアを中継として成り立っている。その地理の悪さから、カディアの民は馬を生活手段としている。山の麓にあるため冬はかなりの雪に覆われ、大雪の時などは三日三晩家に閉じ込められることもある。

「・・・フィリ、後悔はしていませんか?」

 懐かしいと口にしたフィリウスに、ユリウスは問いかけた。どう答えが返るか、ほとんどわかってはいたが。

「していません。・・・先生は?」

 ユリウスは、するはずがないと首を横に振る。

 カップの半分ほど飲んだ後、ユリウスはもう一度問いを投げる。

「そういえば、手に入れたお金は、何に使うつもりですか?」

 王宮に入れば、金は嫌でも手に入る。ましてや宰相、その弟子ともなれば。しかし、実際には使う機会などそう多くはないのだ。せいぜい老後を豊かに過ごす程度の利用法しかない。フィリウスはそこのところをわかっているのだろうが、どう使いたいかの夢くらいは、あるのではないか。ユリウスはそう考えたのだが、案の定、フィリウスには夢があった。

「どこかに土地を買って、家を建てて・・・そこで、静かに暮らしたいと思っています」

 夢というのもおこがましいような、現実的な将来設計だった。

 そうですかと相槌を打って、ユリウスは口を閉じる。フィリウスもまた静かに、残りの紅茶を飲む。

 しんしんと、雪が世界を染めていく。しばらく鳴り続けていた鐘の音は、もう余韻も残さず消えていた。

「・・・今年も、よろしくお願いします。先生」

 ユリウスは持ち上げたカップ越しに目を合わせて、微笑む。

「こちらこそ、フィリ」

 ・・・新年初めの夜は、静寂の中ゆっくり過ぎていく。




前へ   目次へ   646年へ