宰相の弟子

グレフィアス歴645年   4





「・・・フィリウス様?」

「・・・シリカ。今日は、冷え込むね」

 雪にはまだ早いが、空は曇り模様で、冷たい風が吹き、その日は確かに冷え込んでいた。フィリウスは専属侍女として色々と世話をしてくれているシリカ・リズに呼ばれ、そちらに顔を向けないままにそう呟く。

「そうですね。・・・上着をもう一枚、出しましょうか?」

「大丈夫、ありがとう」

 きりきり動いている時からは想像もつかないような緩慢な様子で、窓から視線を外す。

 冬が近付き、今日もまた、朝が来た。

 

 ユリウスの弟子になって、そろそろ四ヶ月近いこの日。

「フィリ。今日からは実際に、私の仕事を手伝い覚えていってもらいます。少しずつで構いませんから」

 ユリウスはそう言って、いつも通り朝の挨拶に顔を出した弟子に笑いかけた。驚いて動きを止めたフィリウスは、ユリウスに手招かれてぎくしゃくと足を動かしその前に立つ。微笑んでいる、その顔を見る。

「先生・・・いいのですか?」

 何がと、ユリウスは首をひねる。

「私、まだまだ未熟です。今の状態では、先生にも他の方々にもきっと迷惑をかけます」

 フィリウスが不安げに言えば、ユリウスはその肩をぽんぽんと叩き、

「大丈夫、気楽にやりましょう。百聞は一見にしかず、ですよ」

 安心させるように笑う。続けて、

「もう数ヶ月で、半年です。貴女もそろそろ、私の弟子として・・・次代の宰相としての自覚とそれに伴う覚悟を、手に入れなければいけませんね」

 王宮内で、宰相の弟子のフィリウス・ラウルの名を知らない者はもういない。ユリウスはできるだけ早く、知れ渡った名と立場を名実ともに自らのものにしていってほしいのだろう。フィリウスはそう予想をつけ、師の言葉に頷く。

「わかりました、先生。・・・精進します」

 自覚は、正直まだない。しかし覚悟だけはずっと前から決まっていたから、頷くのは難しいことではなかった。

「・・・ええ。頑張ってくださいね、フィリ」

 ユリウスは弟子の肩をもう一回ぽんと叩いて、ずっと一人でやってきた仕事に、初めて他人を関わらせた。

 

 寒さが本格的になってきた冬のある日。必要な書類が足りていないという理由から、フィリウスはオルグの下へ向かっている。面倒だな、と内心思っている。オルグはフィリウスを認める気はないらしく、いまだに会うたび何かしら難癖をつけてくる。初めの内は丁寧に対応していたフィリウスだが、今ではそうするつもりもない。むしろ、言うことははっきり言うくらいの方がいいらしい。その結果口喧嘩する回数は増えてしまったが。

 騎士にすれ違うたびに会釈を返し、十五回ほど会釈をしてようやく騎士団団長の執務室へたどり着く。ノックをして名を述べる。中から返事はない。

「・・・鍛錬場の方か」

 いないということはそちらかと、踵を返す。と同時に、遅ればせながら扉が開かれる。

「ああ、いらしたのですか。・・・え? ビリジーア様?」

 何故か顔を出したのは、予想だにしていなかったアレクリットだ。細く開いた扉の隙間から、外の人物を確認しようと顔を出したようだ。

「おね・・・じゃなくて、フィリウス様。オルグ様にご用ですか?」

 ええと頷いて、わずかな隙間から室内をのぞき見る。わかっていたことだが、やはりライディアがいる。

「・・・何故、ライディア様はここへいらしたのです?」

「それが・・・」

 説明をしようとしたアレクリットを遮るかのように、ライディアの怒気のこもった声が室内を反響した。

「お前は騎士だろう! 私を守るのが義務なはずだっ!」

 その言葉を聞いて、フィリウスの頭にかっと血が昇った。勢いよく扉を開く。慌てて飛び退いたアレクリットの前で、扉が大きく音を立てて壁に衝突する。

「フィ、リウス様・・・?」

 青くなって見上げてくるアレクリットを無視し、驚いてこちらを向いたオルグとライディアを公平に睨みつける。その視線に、フィリウスを苦手としているライディアはともかく、オルグまでたじろぐ。

「・・・何のお話をされているのですか、お二人とも」

 溢れる怒りをどうにか抑制して、低い声で訊く。だが元々返事を求めて問うたわけではなかったので、ライディアが少し口を開くのと同時に、次の言葉を重ねる。

「まあ、よろしいです。どうせ下らないことでしょうからね。聞きたくありません。・・・ハイレン様。先月の巡回についての書類がまだ提出されておりません。お早めにお願いいたします」

 オルグは何を言われたのかわからないというように一瞬動きを止めてから、そうかと頷く。ちらりとライディアを見てから、机の上や中をがさごそとやりだす。

 それを見届けてから、フィリウスはライディアに一歩近付く。

「ライディア様。私に何か言うべきことは?」

 どうしたらいいのかわからないのだろう。ライディアは首を横に振り不安げな目をして、しかし気丈にもフィリウスを睨み返す。

「・・・あるわけがない。何故だ?」

 何故と問うのか? そう内心で呟きながらに、嘲りの笑みを浮かべた。

「自分が何を言ったのか、わかっていないのですね。所詮、子どもですか」

 ライディアの顔に朱が走る。反論しようとライディアが口を開くとともに、フィリウスは畳み掛けるように言葉を発する。

「いえ、まだ子どもの方がましですね。自分の思い通りに運ばないからと駄々をこね、それを断られれば腹を立て、権力を笠に命令して、他人を困らせることしかできない。・・・愚かなライディア様。貴方は、自分という存在を理解していない」

 息を詰める気配が複数。視線をずらせばオルグが、背後にはアレクリットがいるだろうが、それを気にしている状況ではない。誰かが自覚させなければ。ライディアは、ただのどうしようもない王子になってしまうかもしれない。

「ライディア・ミル・グレフィアス。貴方の言動一つ一つが、全て命令として成立します」

 しん、と部屋が静まり返る。傍観していた二人はともかく、怒りで染まっていたライディアの顔も、フィリウスの言葉に何か怒り以外のものを感じ取り困惑したように変わる。

「貴方は、この国の王族です。その命令に逆らえる者などいません。だからこそ、行動と言葉に責任を持たなければ、貴方はいつか、この国を滅ぼすかもしれませんよ」

 半ば脅しだ。まだ十歳の子どもにきつい言葉だが、ライディアは甘やかされて育っていそうだから。そのことに少しやつあたりもしていた。

「全ては無理かもしれないけれど、貴方ならば、願いはたいてい叶うでしょう? 我慢なさい。・・・それに、家族が元気で生きている。私だったら、それ以上は望まない」

 全部言ってしまってから、最後の言葉は余計だったと気付く。と同時に、自己嫌悪に襲われた。

(私・・・この王子に、嫉妬してる)

 感情のまま言ってしまったことに後悔するなんていつぶりだろうと思う。自分で思っている以上に、今、フィリウスの心は荒れていた。それこそ、些細な出来事にこうして反応してしまうほど。

「・・・よく、省みてください。ライディア様。ハイレン様も、自身のお立場を利用されることのなきよう」

 付け足すようにそう告げて。フィリウスは本来の目的も忘れ、早々逃げるようにその場を後にした。

 

 執務室の扉をノックする寸前で、ようやくそもそもの目的を思い出した。戻って受け取りに行くのもなんだか情けないので、フィリウスは結局、

「申し訳ありません、先生。やむを得ない事情により、ハイレン様から書類を預かるのを忘れてしまいました」

 正直に話してユリウスを唖然とさせる。

「・・・その事情とは?」

 聞かれて、フィリウスはにっこりと笑う。

「ちょっと、聞き分けの悪い子どもを見て。・・・キレて、書類のことが頭から飛んでしまいました」

 何でもないように言っているが、ちょっと考えればだいぶ恐ろしいことをしている。王宮内にいる子ども・・・自身が十六歳で成人したばかりのフィリウスが子どもと断定する者など、そう多くはない。該当者は二人だ。そしてその二人は、いつも一緒にいるはず。ユリウスならばその程度のことはすぐわかるわけで、

「・・・何をしているのですか、貴女は」

 呆れてものも言えないユリウスは、深くため息をついてペンを机の上に放り出した。上体を背凭れに預けて沈み込む。

「・・・いいです、火急のものではありませんから。フィリ、少し休憩しましょう。お茶を淹れてもらえますか?」

 シリカという出来の良い侍女がいるのにたいていのことは自分で済まそうとするフィリウスは、はいと頷き出て行く。その揺れる赤髪をユリウスは視界の端で追った。少女の性格を表すような、炎の色だと思う。

「全く・・・最近どこか苛ついているとは思いましたが」

 まさかライディア様にあたるとは、と少々頭が痛くなる。

 フィリウスは見目がいいし、頭も回る。潔い性格も好ましい。しかし、喧嘩早いのだけはどうにも良くない。とんだじゃじゃ馬だと思いながら、ユリウスはもう一度深いため息をついたのだった。

 

 何となく、眠れない。だからぼんやりと起きている。

 見上げた空に月がある。細い月だ。寒気の中に浮かんで、フィリウスの体を弱く照らしている。白光に目を貫かれると寒さが増したように感じて、フィリウスは両腕で自分を抱えた。

 そんな夜、誰かが扉をノックする。しかも、返事も待たずに開ける。そんな不法侵入者相手にフィリウスが警戒し威嚇するのは当然だ。しかもそれがよりにもよって苦手な人間であれば、なおさら。

「・・・何用ですか、ルーク様」

 室内に向き直り、半ば影になっている青年を睨みつける。

「このような時間に、女性の寝所に、許可も取らずに入り込むような人だとは、さすがに思っていませんでした」

 敵対心も露わに攻撃するフィリウスは、その背後にもう一人いることに気付いていない。第一騎士隊長グラン・ルークは、確かに荒れてるなと苦笑して、なだめるように両手をフィリウスに向ける。

「落ち着けって。お前の言い分はもっともだから謝るが、こっちにもちょっと事情があって」

「どんな事情が? どうぞ仰ってください」

 完璧に喧嘩腰のフィリウスは、まだグランの背後の人物に気付かない。苦笑したグランは、背後の誰かを自分の前に引っ張り出した。それでようやく、フィリウスはその人物の存在に気付く。

「・・・どなたですか?」

 暗さに目を細めると、それに気付いたグランが室内のランプにマッチで火をつける。ぽっと人影が浮かび上がる。

「こんばんは、フィリウス。本来なら、然るべき場で挨拶をしたかったのだけれどね」

 そんな機会を待っていたらあと数ヶ月経ちそうだからと、その青年は柔らかく笑う。

 太陽のように明るい金の髪、青空のそれよりも深い青の目。見たことはないが、一発で誰かわかった。フィリウスは慌てて、深く礼をする。

「これは・・・大変失礼をいたしました。まさか、貴方のような方が、わざわざ私を訪ねてくるなど、思いもよらなかったものですから」

 リアリス様、と言葉を続ける。――青年は、この国の王位継承者であるリアリス・ラズ・グレフィアスその人であった。

 すると前方から、ふっと笑う声がする。まだ頭を下げているフィリウスにはその表情は見えないが、小さな声でリアリスが言い、それにグランが答えている。

「すぐに私のことがわかったね」

「だから、言っただろう? こいつは頭が回るって」

「そうだね。確かに、ユリの弟子をやっているだけある」

「ユリ宰相よりは、短気だけどな」

「まあね。・・・だから、私が来たんだろう?」

 何の用なのか、その会話からわかってしまった。

(・・・昼間のこと、か)

 本来ならば許されない態度をライディアに対してとったフィリウスに、兄君が自ら苦言を呈しに来たのだろう。あれだけあからさまに人前で説教・・・いや、やつあたりをしたのだから、仕方ないことだと思う。

「昼の、ライディア様の件でいらしたのならば、私はどのようなお怒りでも受ける所存にございます。身分をわきまえず差し出たことを申し上げ、反省しております」

 リアリスは、一度上げた頭をまた下げ直したフィリウスに、しばし無言で視線をやる。

「・・・フィリウス、顔を上げてくれるかい?」

 さすがに緊張した面持ちで命令に従う。強張ったフィリウスの顔を見たリアリスは、安心させるようにふわりと笑い、一歩前に出た。

「そんなに怖がらなくても大丈夫。私は、君を叱りにきたわけではないから」

 むしろ礼を言いにきたのだ、とリアリスは笑みを深くする。首を傾げるフィリウスに、リアリスは続ける。

「昼間、弟を叱ってくれたそうだね。本人から聞いたよ。あの子はまだ子どもで、自分の行動がどんな事態を引き起こすか、その影響力をわかっていない。はっきり言ってくれて、感謝している。今まで誰も・・・私ですら、甘やかしてばかりでそれを言ったことがなかったから」

 ありがとうと、頭を下げるリアリス。豪胆なフィリウスも、この事態にはさすがに叫ぶ。

「おやめください、リアリス様! 貴方はそんなことをしてはいけないでしょう!」

 将来ひとの上に立つ人間は誰かに頭を下げたりなどしない。そんなことは常識として知っている。幼い頃はそんなのおかしいと思っていたフィリウスでも、成人までした今、しかも実際にこんなことを自分がされると、とても平常心ではいられないということがよくわかる。

「フィリウス。私だって、礼を言うべき者がいたら、当然礼ぐらいするよ。固定観念で私を捉えないでほしいな。・・・まあ、私のことは後でいいよ。今は、ディアからの伝言を預かってきているんだ」

 聞いてくれるね、とリアリスは今までのものとは別種の笑みを浮かべる。とやかく言ってきそうなフィリウスに対する牽制だろうか、それは命令する時の笑みだ。

「・・・はい」

 気迫に負ける。礼を言われたが、本当はやっぱり怒ってるんじゃないかと、フィリウスはびびる。助けを求めるように無意識に視線をグランにやれば、彼は苦笑していた。

「リア、あんまり脅すなよ? お前ディアのことになると途端怖くなるんだから」

 グランのいさめをリアリスは無視し、ライディアからの伝言を告げる。

「・・・わがままを言ってごめんなさい。オルグにもちゃんと謝りました。本当は直接謝りたいけれど、嫌われるのが怖くて言えませんでした。叱ってくれて、ありがとう。と」

 そう言っていたよと、リアリスはしめくくる。それを聞いたフィリウスは、とても深くため息をつき、自身の顔を右手で覆ってうつむいた。

「おい。・・・フィリウス?」

 グランが声をかけるも、フィリウスはしばらくそのまま動かない。リアリスは伝えることは伝えたと、口を挟まずにその様子を静観する。

「・・・おい?」

 なんだか心配になったグランが一歩を踏み出すと同時に、フィリウスはその状態のままぽつりと呟く。

「・・・ごめんなさいも、ありがとうも、言われる筋合いはない」

「は?」

「間違ったことは、確かに言ったつもりはないけれど。でも、あれは」

 ・・・あれは、やつあたりだわ。そう吐露されて、グランは眉を寄せる。

「やつあたり・・・か?」

「・・・ええ。やつあたりです」

 まだ顔を覆ったままだったフィリウスは、もう一度深くため息をついてから、すっと顔を上げた。常より大分弱々しい微笑みが、そこにある。

「ここ数年間で思いつく限り、最悪の形でのやつあたりです。・・・リアリス様、ルーク様、お二人にはわざわざご足労いただいて、申し訳ありません」

 深く深く、礼をする。もう一度顔を上げた時には、視線を誰とも合わせなかった。

「・・・このような形ですが、お会いできて嬉しかったです、リアリス様。今日はもう遅いですから、お帰りください。ルーク様、部屋までお願いいたします」

 フィリウスが強引に話を打ち切りたがっているのは明らかだったので、リアリスとグランはそれ以上留まらず、その場を後にした。

「・・・不安定、だな」

 しばらく歩いてから、リアリスはぽつりと呟く。グランはそれに頷く。リアリスは独り言のように、難しい顔で呟きを続ける。

「随分といらついていた。怒りの捌け口がなくて、それを無理矢理溜め込んでいるような感じだな。自制心が強すぎるのか? ・・・グラン、あの子はいつもああなのか」

 多分ちょっとひとの顔色を読むのに長けた人間なら、すぐわかってしまうだろう。その程度には、フィリウスはいらついているようだった。グランは困惑したようにかりかりと頭をかいて、

「不安定なのは普段からだけどな。・・・今はちょっと、普通じゃないみたいだった。いつもだったら、いくら不安定でもあいつの中には芯が一本立ってるが、今日はそれが揺らいでいた」

 グランは、フィリウスが不安定なのは思春期特有のものだろうと思っている。十代という多感な時期ならば、色々と悩みや不安も多く、精神的に不安定になるだろうと、自分も通ってきた道なので多少は理解があった。それを補っても余りあるのが、フィリウスの中にあると思われる、何らかの“信念”だ。それが不安定な少女を強く見せる。しかし先ほどのフィリウスは、とても弱く、儚く見えた。

(年相応だなんて思ったの、初めてだな)

 ・・・たいていそれはいいことだと思うのだが、フィリウスに対しては、何故かマイナスイメージしか生まれない。あまりに極端すぎるのだろうか、本音をもらすその様子が。

「・・・気になるけどな。でも多分、あいつは誰にも何も話さない。無理に聞き出したりしたら、余計に追い詰める」

 難儀なことだなと、リアリスはちらりと背後を振り返った。もうフィリウスの部屋は遠く離れたが、明りもつけないその部屋の暗さを、冷たい部屋の空気を、窓から見える空に浮かんだ冴え冴えとした月を、ありありと思い出して、顔を顰めた。

「・・・グラン」

 名を呼べばいつだって振り返る幼馴染に向けて、リアリスは王子として命令した。

「あの子のことを、気にかけてやれ。そもそもあの子の弟子入りは、お前が原因だしな」

 とても嫌そうな顔をして、それでも命令だから仕方なく、グランは頷いた。

「・・・気にかけたら絶対避けられるくらいには、俺、嫌われてるけれどな」

 グランは、どうしたらいいのかよくわからない命令をされたものだと、困った様子でまた頭をかいたのだった。

 

 後日、廊下でばったりライディアと出会ったフィリウスは、リアリスの言葉をちゃんと受け取ったことを伝えた。ごめんなさいと言いかけて、ぐっと言葉を飲み込む。そして代わりに、どういたしましてと微笑した。

 その時の、ライディアの顔。ほっとして浮かんだ笑顔を、忘れることはないだろう。




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