グレフィアス歴646年 2
もう雪なんて降らない暖かさ。天気に恵まれ、花祭りが始まった。 オーリオウル国王が今年一年の平和と豊穣を願い、その挨拶が終わると、街は祭りでとてもにぎやかになった。色とりどりの花が飾られている。沢山の出店が出ている。多くの人が道いっぱいに広がって祭りを楽しんでいる。 その中でぽつねんと、一人で過ごしているフィリウス。誰も彼女を気にとめない。声をかけない。当然だ、王宮内を抜きにしたら、誰も知り合いなんていないのだ。・・・いや、正確には、少しだがいる。声をかけあっただけでなく、ある程度深い関係になれた人が。 (女将さん、旦那さん・・・〈風見亭〉か。行って、みようかな) 思い出すと、顔を見たくなる。行ってみようと思った。ようやく、降って湧いた暇を消費する出来事を思いつく。 「・・・そもそも、先生が悪いんじゃない。いきなり、今日はもう遊んでこいなんて、子どもじゃないんだからさ」 花祭りは初めてだと言ったら、じゃあ雰囲気を味わってこいと命令したユリウスを、少し恨む。 まあしょうがないかなと諦めて、フィリウスはとりあえず歩き出した。 「Aランチ二つー!」 「次B一つ、C一つね!」 「はいはい。全く忙しいね! 昼飯食べる暇もありゃしない!」 〈風見亭〉はとても繁盛していた。机も椅子も目一杯に埋まっていて、とてもにぎやかだった。ちょっと呆然と入り口にたたずんでいると、入り口近くに座っていた夫婦に声をかけられた。 「おう、嬢ちゃん! 久々じゃねえか、元気にやってたか?」 誰だろうと目を丸くしてたら、そのおじさんは歯を見せて笑って、 「覚えてないかい、嬢ちゃんがここで働いてた間、何度か食べに来てたんだけどな」 そう言われてみれば見覚えがある気はした。曖昧に笑っておく。 「ごめんなさい・・・よく覚えてないの」 「まあ・・・しょうがないね。客は一杯いるから」 おじさんは残念そうに笑って、フィリウスの肩を叩いた。 「ごめんなさい、今席全部埋まってて! 相席でもいいですか?」 そこに料理を持った少女が来て、そう聞いた。元々食べに来たわけではなかったからどうしようかとは思ったが、目の前の夫婦が相席させてくれるというのでそれに便乗した。売り上げに貢献しようと一番高めのCランチを頼む。 「おじさん、ありがとね。その子知り合い?」 「フィリウスってんだ。ケイちゃんがここで働き始める前に、一ヶ月半くらいいたんだぜ。今はなんと、王宮勤めさ!」 「ええ、すごい! あの面接通ったの?!」 「う、うん」 「すごいねぇ! あたしなんて、三回受けて全部落ちたのに。ずるーい!」 少女はケイというらしい。年は三、四歳上に見えた。人懐っこそうな、特別美人ではないが愛嬌のある子だ。 「ケイ、くっちゃべってないで早く運べよ! また女将さんに怒鳴られるぞ」 「うわ、まずい! えっと、フィリウス? 時間あったら、王宮の中のこともっと教えてね。じゃあたし、仕事しないと!」 去っていくケイの背中を見る。忙しなく動いているのはケイと、ケイと同じ年くらいの青年だ。 「嬢ちゃんが王宮行ってからな、あの二人が雇われて働くようになったんだ。女の子がケイ、男の子がジェン。二人とも明るい子で、よく働いてるよ」 常連さんに笑顔で挨拶をし、明るい声で動き回る彼らは、確かに店の雰囲気を和やかで華やかにしていた。・・・フィリウスのいた時とは大違いである。 「嬢ちゃん、あんた自分がやめて店が大変なんじゃないかって、忙しい合間縫って様子見にきたんじゃないのかい? 責任感強そうだしな。・・・まあ、安心しな。ケイとジェンはよく働いてるから」 おじさんの言葉は耳から耳に通り過ぎていた。何だか心にぽっかり穴が開いたようだ。 (私・・・もう、関係ないんだ。お店、平気なんだ) ああそうか、と思う。 「Cランチ、お待たせしましたー」 フィリウスは運ばれてきた料理をおじさん夫婦と話しつつ食べた。美味しいはずの料理が、とても味気なく感じた。女将や旦那には声をかけず、作り慣れた微笑みを浮かべて、そそくさと店を後にした。 正午を過ぎて二時間ほど。人通りは増えており、人波に逆らわずただ真っ直ぐ進むだけでも苦労しそうだった。だからそれを避けて、路地裏に入り込む。太陽の光を遮る薄暗い通りが、なんだかとても落ち着く。 そのまま人混みを避け続けて、のんびりと散歩をする。空の色が赤くなる頃には、フィリウスの心中も落ち着いていた。思えば散歩なんて久しぶりだった。最近頭ばかり使っていたことに気付く。とはいえ、広い王宮内を毎日あっちこっちと歩き回っているから運動不足とは言えなかったが。 「あー、夕日綺麗・・・」 地平線に沈む瞬間は建物の影になって見えないが、空が染まっていくのは上を向けば見えた。真っ赤な空。それを見て空が落ちると怖がったのは、もう遥か昔。 「・・・夜が来た♪ おはよう、月の天使」 ふと思い出した旋律を、誰もいないのをいいことに歌い出す。カディアではよく歌われている、神話を模した子守唄だ。 「おやすみなさい、空の女神♪ 明日は彼女の涙が降らぬように・・・」 祈りましょう、願いましょう。――歌は路地を駆け抜ける風に乗って、彼らのところまで届いた。 彼ら三人は、大通りを一本裏に入ったこの道を、静かに話しながら歩いていた。その時狭い道を吹き抜ける独特の小さい風に乗って、声が、届いたようだった。 「・・・? 今、何か歌らしきものが」 「お前も聞こえたか? カウ」 「グランも?」 頷く二人に挟まれていた何気に耳聡いリアリスは、一歩後ろに下がって右手の路地を覗き見た。ああやっぱりと思いながら、立ち止まり肩越しに振り返る前方の二人に言った。 「カウ、グラン。フィリウスがいる」 「はっ?」 慌てた様子でグランがリアリスに駆け寄り、その横から路地を覗きこむ。後ろ姿だが、確かにそれは宰相の弟子の少女だった。ふんわりとした旋律で歌いながら、彼らから遠ざかるようにゆっくりと路地の奥へと進んでいく。 「フィ・・・」 「待て、グラン」 大声で呼ぼうとしたグランを止めて、リアリスのその背中を見つめる。険しい顔で首を傾げる。 「・・・様子がおかしい」 グランはその言葉を受けてフィリウスの背中をじっと見つめるが、特別何かあった様子は見受けられない。だがグランの横に並んだカウルータは、 「なんだか、元気がありませんね。直接話したことはありませんが、あの方はいつも、もっと生気に満ち溢れて、ぴんと背中を伸ばしていますのに」 そう言われればそうかなと思うグラン。意気消沈したようなフィリウスの様子を歌が助長する。それはとても物悲しい。 “今日も女神の雨が降る♪ 彼女が愛した星の王、あなたは暗闇に今もひとり・・・” 澄んだ少女の声が、彼らが聞いたことのない旋律を紡ぐ。誰かが聞いているなんて考えてもいないだろうに、その声は語りかけるようにひどく優しい。 “わたしたちの夢が、せめて届きますように♪ 祈りましょう、願いましょう” ・・・歌は、終わったようだ。余韻を残して消える言葉の後、小さくため息のように息をついたのが聞こえた。 「・・・フィリウス」 聞こえるかどうかというくらい小さなグランの呼び声に、フィリウスはぴくりと反応した。ぼんやりと視線を周囲に向け彼らの姿を目に留めた瞬間、すっと背中に力が入る。覇気のなかった顔にも力が戻った。普段通りになる。そうなっていく過程を見て気付いた。・・・フィリウスのそれは、警戒の証だ。 「あら、このような場所でお会いするとは思ってもおりませんでした。・・・何をなさっているのですか? リアリス殿下」 リアリスは邪気のない顔で微笑んで、警戒するフィリウスの前まで歩み寄ると、その額を軽くデコピンする。驚いた様子でフィリウスは目を丸くした。 「その言葉、そっくりそのまま返すよ。そして、私を呼ぶならリアと。こんな場所で殿下なんて呼ばないように。・・・ああそう、先に言っておくけれど、ちゃんとユリの許可はもらっているからね」 そう言われれば小言を続ける意味はない。一瞬黙り込んだフィリウスは質問を変えた。 「では、どこに行かれるのですか?」 君こそと返され、フィリウスは答えに窮す。質問しない方がいいと、この場から去る選択肢を選ぶ。 「・・・私、帰りますね。楽しんできてください、リア、様。そちらのお二方も」 いつも通りの微笑を浮かべて背を向けたところ、右腕を掴まれて止められた。 「フィリウス。・・・逃げるの?」 思いの他強く腕を掴むのはリアリスらしい。背後の声が何故か低くて、怒っているような・・・。 「・・・に、逃げては、いません」 ――怒る時、静かに怒るタイプの人がいる。その怒り方をする人ほど、普段は穏やかで優しく、いざ怒った時、相手を絶対に逃がさない。 リアリスはそういうタイプだったらしいと冷や汗をかく。とはいえ、何故怒っているのかわからないが。 「・・・フィリウス?」 「は、はい。何でしょう?」 「こっち向いて」 逆らわない方がいいと素直に振り向く。腕はその時放された。振り向いて見たリアリスは困ったような顔でため息をついていて、怒ってはいなかった。あれ、と思うと同時に、警戒心と緊張感両方がふっと解ける。 リアリスの背後に、グランともう一人の人物・・・薄い金色の髪を胸ほどまで伸ばし右肩の上で結び、淡い青緑色の目をした青年がいて、彼らもなんだか困った顔をしていた。 「あの・・・何かありましたか?」 聞くと、フィリウスは全員にじろりと睨まれた。 「え? えっと・・・私が、何か?」 「・・・フィリウスさん」 「あ、はい」 いまだ名を名乗らない青年が、ため息混じりに名を呼んだ。 「貴女、本当にどこに行くつもりですか?」 「・・・? それは、どういう意味で・・・」 「この先は道が複雑に入り組んでいて、慣れない者は十中八九迷います。治安もよくありません。・・・そんなところにふらふらと向かっていく十代の少女を、しかも知り合いである貴女を、どうやったら見逃せると?」 うっと言葉につまる。何故彼らが困っていたのか一発で理解できたフィリウスは、申し訳ありませんと顔を赤くした。 「・・・ねえ、それで、どこに行こうとしていたのかな?」 そんなフィリウスの頭をなぐさめるようにぽんぽんと叩いて、リアリスは子どもにするように聞く。恥ずかしさからすっかり虚勢を張る気もなくしたフィリウスは、所在なさげにリアリスを見上げた。 「その・・・別に、どこも。ただ、歩いていただけなので・・・」 その言葉に、今度はグランがため息をついた。 「お前な、この間あんだけ危険な目に遭ったばかりだろ? 学習能力ってものがないのかよ」 とても言い返したくなったが、言い返せない。言い返せる立場にない。 「・・・ごめん、なさい」 自己嫌悪に視線が下がるのを止められない。 (ああもう、今日はだめだ。こんなのばっかり) 人はひとに迷惑をかけずには生きられない。――こんなつもりじゃなかったと言うたびに、そう笑われたことを思い出す。 「フィリウス、・・・フィリ。いいから、別に怒ってはいないから。全く、グラン! お前はもうちょっと優しく言えないのか?」 「え、ええ? 俺のせいかよ!」 「素直に心配しているのだと言えば良かったんですよ。貴方はすぐ怒るのだから・・・」 「いや、だからさ、俺のせい?」 「ああ」「ええ」 そんな会話が目の前で繰り広げられるのを、耳は拾っていた。ひでえと傷ついた声を上げたグランは、舌打ち一つ、フィリウスの腕を乱暴に引っ張って歩き出した。 「っ! な、何?!」 「飲むぞ」 「はっ?」 「二人で、飲む」 「何、言って・・・!」 助けを求めて背後を見ると、当然のようにリアリスともう一人の青年がついてきている。止めもせず。 「リア様、この人止めてください!」 「フィリ、“様”もなしでね。出来れば敬語も。・・・で、何で止めないといけないのかな? 私達はこれから飲みに行くところだったのだから、予定通りだ」 グランが、お前達とは行かないっての! と悪態をつく。そこに青年が突っ込む。 「グラン、貴方、リアの護衛でしょう? 離れようにも離れられないでしょうが」 「・・・」 黙りこんだグランは、それでも歩みを止めない。やや小走りで追いかけるフィリウスは、前をグラン、後ろをリアリスと青年に挟まれて、何が何やらわからないまま状況に流されていくのだった。 「・・・」 「・・・」 「・・・カウルータさん」 「はい?」 「あの二人・・・お酒、すごく弱かったりします?」 「あの二人が弱いっていうよりも、私達が強いのかもしれませんね」 「そうですか・・・」 「そうですね」 フィリウスとともに三つ隣の机に避けて、酔っ払って笑ったり泣いたり絡んだりするリアリスとグランを眺めている青年は、カウルータ・シグ・ナティアという。四年前リアリスが成人するまで、五歳の時からずっと側仕えをしていたという。今は文官長補佐という立場を得て、王宮で働いている。 リアリス、グラン、カウルータの三人に連れ込まれた酒場は、穴場なのだろうか。いる客は皆常連といった感じで、純粋に酒を楽しんでいた。これならば騒ぎは起きないだろう。お忍びとはいえ節度のある行動をしているらしいと妙に感心した。まあ今は、その空気を若干二名ほどが乱している。しかし周囲の客たちも慣れたもので、あまり気にしていない。 「強いお酒だったのでしょうか」 本来誰より節度があるはずのリアリスが、ふらふらと別の客の席に向かって行く。それを見たフィリウスは彼らが飲んでいた瓶の度数を確かめた。 「二十度・・・四本、か・・・」 確かに、量としては普通かもしれないと考える。酒場で働いたことも数ヶ月ほどあるが、この程度で酔っ払う者も結構いたなと、フィリウスは思い返す。ちなみにそんなフィリウスの前には、四人中誰より強い度数の空き瓶が六本と半分ある。 「フィリウスさんは・・・本当にお酒に強いようですね。それ、二十五度くらいでしたよね? よくそんなに飲んで、素面でいられますね」 ええまあ、と苦々しい顔で言葉を濁す。 ――ちょうど一年前まで暮らしていた場所の、凍え死ぬほどの寒さを思い出す。フィリウスの住んでいた地域、カディアは、冬は深い雪に覆われる。刺すように冷え込む日などは足りない暖の代わりに酒を飲むこともあったから、伝統的にカディアの者は酒に強くなるのだ。特にフィリウスは・・・強くならざるを得ない家庭に生きていた。 「・・・私、酔ってみたいんです」 ふと、口に出す。カウルータの視線を横から浴びながら、眼前で客に絡んでいるグランを見る。 「人って、飲んで、酔って、憂さ晴らしをしたりするのでしょう? ・・・羨ましいです。楽で、いいではないですか」 溜めたものを洗い流すかのように。人には色々と許容量があって、それを越えるとどこかで落としたり、流したり、時には他人に投げつけたりして減らしていく。お酒一つでそれができるならばそんなに簡単なことはないと、ようはそう言いたいわけだ。 「・・・やっぱり、何かあったのですか? 話してはいただけませんか」 横を見ればカウルータが顔を曇らせている。フィリウスは、馬鹿なことですと自嘲した。 「お気になされるようなことではありません。・・・私は強いのですよ、カウルータさん」 その答えをカウルータはお気に召さなかったらしい。ぐっと眉根を寄せて、 「本当に強ければ自分で自分を強いなどと言いませんよ。何がありました? お言いなさい」 外見からは想像できない強い言葉を浴びせる。けれどフィリウスもたいしたもので、 「言いません。でも、言い直しましょう。・・・私は弱いから、強がりを言うのです。折角強がっているのですから、頑張りは認めてください。聞かないで、ください」 するりとかわす。ひどく不服そうな表情を浮かべて、カウルータはため息をつく。 「・・・強情ですね」 「ありがとうございます」 「褒めてはいませんが、どういたしまして」 ・・・その応酬を、実はまだ理性の残っていた二人が聞いていた。 (まあ、結構元気そうで良かったけど・・・) (やっぱりあの子は、危なっかしいね) 机の下でこそこそ話すリアリスとグランの姿には、さすがの常連客達も胡乱な目を向けていた。 ・・・夜はゆっくりと暮れていき、四人が帰途に着く頃には、酒に強いフィリウスとカウルータも頬を赤く染めていた。そしてリアリスとグランは、すっかりふらふらの酔っ払いだった。 「お二人とも、お酒に強くないのならば、ほどほどにしておけばよろしかったのに」 フィリウスの言葉に全くだと同意しているカウルータ。お前達が強いんだと心中で愚痴ったリアリスとグランの思いは、もちろん届いていない。 「・・・星が綺麗だな、本当に」 「・・・夜風も涼しくて、月も見事に輝いているね」 平和だなあとあらぬ方向を眺めるリアリスとグランが拗ねた子どもみたいにも見えて、フィリウスは久しぶりに声を上げて笑った。それに三人が驚いたのはわかっていたが、酒が入って多少高揚しているフィリウスの笑いはくすくすと続く。 「ふふ・・・私も少し、酔っているみたいです」 この時ようやく、三人はフィリウスを飲みに連れていって良かったと思った。何があったかはとんと語ろうとしないが、間違いなく、今フィリウスの肩からは力が抜けていた。幼く見えるくらいに、年相応の顔をしている。 「・・・貴女もちゃんと、酔えるではないですか」 先ほどの話題を出してきたカウルータに、そうらしいですねと柔らかく微笑んで、フィリウスは歩みを進めた。その視界に、きらりと星が瞬いた。
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