プロローグ〜グレフィアス歴645年〜
老夫婦がずっと若い頃からやっている、味の良い、温かな食堂〈風見亭〉は、近所に住む者や働いている者達の間で長く愛され続いている。そこに一ヶ月半前、年若い少女が住み込みで雇われた。彼女は若者の間では、ちょっとした有名人になっている。 その食堂の裏にある路地に、十人強の男子がたむろにしていた。 「・・・来た!」 「おう、どうだった?」 「・・・・・・」 「あー・・・お前でもダメか」 駆け込んできた少年の言葉なき報告に、十三人切り達成だなと、一人が呟いた。 ――夕焼けみたいに赤い髪と、夏の草のような緑色の目。背がやや高めだが美しい少女であるフィリウスを、誰が落とせるか。彼らはそんなささやかなゲームをしていた。 「まあ、ノエルは元々望み薄って感じだったけどさ、アルフェなんかはいい線行ってたと思うんだけどなぁ」 今回告白に行ったのはノエル、アルフェは八番目に告白した。ノエルはドジないじめられっこキャラだが、フィリウスの母性をくすぐるかもと駄目元で告白させられた。アルフェは彼らのうちで一二を争う美形だが、フィリウスはそんなものには実際全く動じなかった。 いつ、誰が、こんなゲームをし始めたのか定かではない。ただ、まだ十代も半ばの少女が住み込みで働いているという話を誰かが持ち込んだのが始まりだ。 「ね、ねえ・・・フィリウスさ、全然恋愛とか、興味なさそうだよ? もう、やめようよ・・・」 ノエルが仲間に提案する。彼の立場は弱いからその提案が受け入れられることはないとわかってはいたが、少女の断り文句と、その時の表情が頭から離れない。 『あなたも大変ね。・・・でも、ごめんね。何度も言ってる通り、私は恋人とか、作る気ないの。ねえ、それとなくさ、伝えといてよ、お仲間に』 少女はれっきとした大人だ。しかし、成人したのはわずか三ヶ月前のことだという。ここ王都ならば、その年齢のほとんどはまだ学生だ。今ここでフィリウスを落とす画策をしているのも全員まだ学生で、成人した者もそうでない者もいるが、親の庇護下で暮らしている。同じくらいの年なのに、交際を断るフィリウスは、ゲームに興じる彼らの誰より大人びて、明るくさっぱりとした口調と裏腹に、とても疲れた様子だった。 「あぁ? 何言ってんだ、お前」 「そ、そのさ。あの年頃の女の子が住み込みで働いてるなんてさ、きっとフィリウス、なんか事情があるんだよ! だからさ、その、僕達は、あんまり邪魔しない方がいい、と思う」 口答えするのかと険しくなったリーダー格のシェオルの怒り顔に、また殴られると血の気が引く。 「・・・お前さぁ、生意気言うわけ?」 近寄ってくるシェオルにノエルがびくびくしていたところに、出し抜けに明るい声がかかった。 「弱い者いじめか?」 全員ばっと振り向く。通りにつながる出口に立った影に、最悪とそろって顔をしかめた。 「おい、ずらかるぞ」 そして彼らはノエルを残して路地の奥へと駆け去っていった。 「おーおー、逃げ足は素晴らしい。さすが小悪党だな」 軽口叩きながら近付く青年は、腰に剣を帯びて、左手首に青い布を巻いている。――巡回騎士であった。気安い雰囲気の青年は人懐こい笑みを浮かべて、ノエルの前で立ち止まった。 「よかったな、殴られなくて。・・・で、ちょっと聞きたいんだけど」 騎士が自分に一体何を聞くつもりなのだまさか怒られるのかとへっぴり腰になったノエルは、後ずさりしながらも、はいなんでしょうと首を傾げる。そんな彼に問う。 「さっき話に出てた・・・フィリウスだっけ? について、もうちょっと詳しく教えてくれよ」 何でと思いながらも、逆らうのが恐ろしくて首は縦に振っていた。 遅めの昼食は、結局半分近く残してしまった。これが昨日や一昨日、三日前などなら何も気にすることなく全てたいらげるか、もう少しは食べるのだが、今日は気が重かった。 (あんな子まで差し向けてくるなんて・・・いいかげん、嫌になるわ) 軽薄そうな人、遊びだと露骨にわかる人、そういう者達ならフィリウスは軽くいなす。けれど、今日の少年は今までと毛色が違う。フィリウスが断ったと知らせたら、いじめられるかもしれない。もちろん承諾しても、いじめられるだろう。自分のせいで誰かが嫌な目に合うというのは、ひどく納得がいかない。不条理だと思う。いつになったらくだらないゲームをやめてくれるのかとうんざりしてたら、食欲もだいぶ失われたのだ。 「フィリウス、そろそろいいかい。・・・なんだい、体調でも悪いのかね?」 女将のリーオが呼びに来て、フィリウスは慌てて首を振った。 「違います、ごめんなさい。ちょっと考え事をしていて・・・」 「そうかい・・・それならいいんだけどね。お客が来る前にちょっと買出しを頼まれてほしかったんだけど、今大丈夫かい?」 わかりました、大丈夫ですよ、と笑顔で立ち上がる。昼飯を残してしまったことを厨房でフライパンを持つ主人のダンに謝り、籠を持ちメモをもらってフィリウスは出かけた。 老夫婦はいい人だが、フィリウスはどうにも居心地の悪さを感じていた。リーオにはあまり好かれていない気がするし、ダンには遠ざけられている気がする。あまり長続きしないかもしれないと、ため息をつく。 フィリウスは、お金が欲しい。たくさんお金を貯めて、それなりの家を建てて、老後はそこでゆったり過ごしたいと思っていた。そのために王都にきたのだ。 「他は何も望まないから、今はとにかく、お金が欲しいわね。・・・どこかにお金の稼げる仕事、転がってないかな」 フィリウスは呟いて空を仰いだ。春らしい、薄雲のたなびく青空だ。 「・・・金が欲しいのか?」 ぼんやりしてたフィリウスは、その問いかけにはっとした。声の主はフィリウスの左手、壁に背をついて腕を組み、こちらを見ていた。 薄い茶色の髪に、夏の空のごとく青い瞳。左手首に青の布。そして剣。巡回騎士だ、と思う。警戒心から身構え、即座に猫を被る。 「お仕事ご苦労様です、騎士様」 独り言を聞いていたし、その言葉を反駁するし、品定めするように青い目が上から下へ動いているし。なんか嫌な感じ、と思う。いやらしい視線ではないと思うが、油断はできない。いくら騎士でも、相手は男だ。しかも先ほどのフィリウスの言葉は、聞きようによっては“体を買ってくれ”とでもとられかねない。 「私の独り言のことならば、お気になさらないでくださいね。戯言ですから」 ということで、先手を打つ。にこりと笑って、急いでいるので失礼いたしますと頭を下げて横を過ぎる。騎士は別に何をするでもなく、壁際からフィリウスを見ていた。 数歩遠ざかったところで、その背中に声がかかる。 「・・・王宮から掲示が出ているのを知ってるか?」 いきなり何をと思って足を止める。肩越しに振り返って、いいえと首を横に振る。 「金が欲しければ、王宮勤めが一番手っ取り早く稼げる。選考は厳しいが、あんたなら結構いいとこまで行くかもな」 掲示見てみたら? と付け加えて、騎士は去っていった。 「何あれ・・・?」 フィリウスは不可解そうに首をひねりながらも、騎士がもたらした情報について、すでに頭の中で考え始めていた。 ――その日のうちに掲示を確認し、フィリウスは履歴書を用意した。次の日に、翌日一日の休みをもらった。そして掲示されていた面接日、四十人ほどの男女の中に混じり、面接を受けた。 結果だけを言えば、フィリウスは王宮に入ることを許された。 それから十年余り、色々あった。けれど今日、フィリウスは、彼女の考えていた未来のどれよりも幸せになった。
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