何かが変わると思った

十八章 “王の庭”   4





 夜。少ない荷物をまとめていた十織は、ふと窓の外を見て、少し向こうの木の上に浮かぶ人影を見て、目を見開く。ばんっと音を立てて窓を開けると、鋭く叫ぶ。

「アルスっ!」

 どこか怒ったようなその声に振り向いたアルスは、銀の髪を月光に散らして十織を見る。ほんの一瞬……見つめ合って、十織に向かって手を差し伸べた。

「来い」

「は? 何言ってんの、私は飛べないよ」

 魔術師じゃないんだから、と渋る十織に、アルスはわずかに微笑むこともなくもう一度、来い、飛べ、と短く命ずる。だから無理、と言おうとした十織はしかし、アルスの本気をその無表情から感じ取り、躊躇する。そして、

「……落ちたら、恨むよ」

 さすがに少々緊張しながら、窓枠に足をかけ、外に出る。一瞬の落下感。それはすぐに収まり、十織はアルスの隣へと運ばれた。

「珍しいな。ほとんど疑いもしないで」

 十織に窓から飛ぶように命じた張本人の苦笑気味な言葉に、十織は憮然と答える。

「私が、空から落ちてきた時。助けたのは……あんただろ」

 ずっと高い空の上から、雲を突き抜け、大地に至る。その光景は、十織の脳裏にしっかり焼き付いている。現実離れした恐怖感に、これは夢だと感じた。空から見た大地は緑も水も豊富で、綺麗だと、思った。

 川に打ちつけられる瞬間、わずかに体が浮いて。十メートルの高さから飛び込みする程度の勢いで、十織は川へと落ちた。……アルスが落下の勢いを緩和しなければ、十織の体は今頃ぐちゃぐちゃになっている。

 まあな、と頷いたアルスは、さらに上空高く十織の腕を引いて飛翔する。月は満ちている。

「……ねえ」

 高く高く、真上に向かって進むアルスに、十織は声をかける。

「あんたさ、知ってたんだよね。いつから?」

 主語がなくとも、意味は重々わかっている。あの夢の日の次、と返事をすれば、ひと月前からか、十織は期間を計算し呟く。それはちょうど、アルスが十織を避け始めた頃。

「……ずっと、帰れ帰れって言ってたくせに、どうして今この状況で、それを言いに来ないわけ」

 今となっては、その答えに見当はついている。あえて、十織は訊く。アルスは嫌そうな顔をして、しばらく逡巡した後、

「……誰かが言わなきゃ、お前は本当に、忘れようとしただろ」

 ぽつりと、そう呟いた。視線を天に背けつつ。その答えを予期していた十織は、同じようにそっぽを向く。

「余計なお世話だ、けど……ありが、とう」

 素っ気なく、けれど込められるだけの心を込めて。

 

 帰れと、言い続けたアルス。帰らないと、言い続けた十織。帰る場所があるのは、本当はどちらなのか。互いの事情など、二人は把握しない。訊くつもりも、話すつもりもない。

 

 

 相変わらず、空から見たこの世界は息を呑むほど綺麗だ。暗いけれど、月の光一つで遠くまで大地が続いているのがわかる。水平線に輝くのは、海だろうか。風一つない夜空でさざめくのは、地上で生きる虫の声。果てない空の中でたった二人、まるで大海に浮かぶ木切れのよう。

 

 ――多分、人間というのは、無意識に知っているのだ。自分というものが、ほんのちっぽけな存在であることを。だから群れるのだ。一人の恐ろしさを紛らわせるため。

 けれど、そうして忘れたふりをした恐怖が、いつか胸の奥から溢れだす。それが、孤独というものかもしれない。自分というものかもしれない。

 そうして、ほんのわずかの触れ合いの、大切さに気付くのだろう。

 

 

 

 

==========

 

 お前は大丈夫だ、トール。お前にもちゃんと帰る場所があって、迎えてくれる者がいる。怖がらなくても、逃げなくても……いや、怖がっても、逃げても、戻ってこれる場所を守ってくれるやつが、笑顔を向けてくれるやつが、いる。

 お前は何を誇る必要も、卑下する必要もない。そのままでいろ。それがお前だ。

 

 何も変わらないことが、本当はどんなことより大きな変化かも、しれない。

 ただ誰も、それを知らないというだけで。

 

 

 

 

 

 

 

 

==========

 

 地球に帰る十織を見送りに来た者は、誰もいなかった。ローザリアの者は、いつか十織が元の世界へ戻ることを知っていた。ここ二日であっさりと別れを済まして、残るのは寂しさよりも喜びだ。十織はだから、誰もいないことを悲しんだりはしない。喜びと嬉しさに満ちた笑みを、餞別に受け取っているのだから。

 リーレスは十織を、以前十織とエルグが迷い込んだあの花園へと連れていった。

「ここはね、トール。“王の庭”と呼ばれている」

 安らぐ暇のないセレィス王のために、ジルオールら精霊が創った場。

 綺麗だろうと、リーレスは微笑む。美しいものを覚えてお帰り、と。

「この世界は、どうだったかな」

 綺麗でしたよ、と十織は答え。

「……私も少し、この世界に馴染みましたけど。それでもここは本当に、私の世界とは比べ物にならないくらい美しくて。忘れようにも、忘れられません」

 ふわりと笑う。

 

 

 十織が持った荷物は二つ。何てことない写真立てと、桜柄の黒のショール。何だかんだ言って十織が自らのために購入したのは、これだけ長くこの世界にいて、この二つだけだ。

 本当は、これらですら置いていこうと思った。何一つ持たず、その身一つで地球に戻ろうと思った。けれど、写真のない写真立てには、写真が必要だと気付いた。異世界の布に染められた桜が、この世界で十織が地球のことを思っていた証拠だと気付いた。この事実が愛おしくて、これら二つの品だけは持ち帰ろうと、決めたのだ。

 

 

 杖を手にしたリーレスが、最後にちょっとだけ泣きそうに笑む。それを見た十織は、王様、と声を上げる。

「全部終わって、沢山泣いた後は。笑ってくださいね。……約束です」

 

 ありがとう、と微笑んで。ばいばい、と手を振り。十織はローザリアから姿を消した。



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