プロローグ 2
王宮の廊下を女が一人歩く。黒髪黒目という珍しい風貌をした女だ。年は、二十を何歳か越えたくらい。華奢なほど細く、背はあまり高くはない。体の凹凸が同じ年代の女性と比べると控え目で、肌は黄色みが強い。こうした諸々の理由でよく目を引くが、その理由を訊いた者は誰もが、ああそういうことかと納得する。 ――この女、名をトールという。正確には、カタクラトオル……片倉十織と書く。ここローザリアとは違う世界で、生まれ育ってきた者だ。 十織は一年ほど前、ここセレィス国に落ちてきた。文字通り、落ちた。空から落ちて、川に突っ込み、気絶して流れているところを保護された。 地球からこの世界ローザリアに人が落ちてくることは、時々あるそうだ。その穴は大抵空に開く。地面に打ち付けられ死ぬ者もいるそうだから、川に落ちた十織は全く幸運だった。しかもローザリアの善良な人間に拾われ、それが魔術師だったのだから、もう運がいいとしか言いようがない。 そう、十織を拾った青年はアルスといい、魔術師だった。アルスが言語媒介の術を使えたお陰で、十織は話し言葉に困ることもなく、ローザリアに溶け込み……溶け込みすぎた。 ――帰る方法は、あるのだ。そのために、アルスは十織をセレィスに連れてきた。このセレィスの王は、自身が異世界転移できるほどに強い力を持っている。事情を話せば、快く、実に簡単に、十織は地球に戻れるのだ。実際に、戻るはずだった。 その直前だ。十織はアルスと王を睨み、言った。 “私は帰りません。王様、よければ何か仕事をくれませんか。どんな仕事でもやります。なければ自分で探しますけど。まあとりあえず、私は帰りません” 驚きで声を失くすアルスと、何事かと目を丸くする王。その後二人にどれだけ説得されようと、十織は考えを変えようとしなかった……。 それが八ヶ月ほど前のことだ。 王は寛大で、帰らないという十織に職と寝場所を提供した。王宮の蔵書室司書見習いという役職であり、専門職でしかも力仕事が多いので経験のない者にはきつく、初め異世界人ということも相まっていじめのようなこともあったようだが、今ではしっかり手に職を持った。十織はもはや、立派な司書見習いだ。 今では、十織に“帰れ帰れ”というのは、アルス一人と言っても過言ではない。勿論、誰もが言う、時々は。“どうして帰らないの”“帰らなくてもいいの”。……十織はそのたび、冷たい笑みで問いに答える。 帰らないというのが、十織の選択ならば。そして、それに見合うだけのものがあるならば。誰も強く言えないというのが、実のところである。 そんなわけで、十織は今日も、異世界の王宮で働いている。
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