間章 8
「たくっ、俺が何したってんだよ・・・」 絶対理不尽だ。理不尽に過ぎる。というかムカつく。昨日水浴びをした川の水でコウは乱暴に顔を洗い、用が終わると、どこか呆けたようにその場に立ち尽くした。 「・・・バカだな」 自嘲を込めて呟き、コウはその場に腰を下ろした。 誰かの言動にいちいち腹を立てる自分。本当にバカだ、大バカだ。 「信じてなんか、いないのにな・・・」 シルフィラも、ミナも、リィンも。意味のわからない黒精霊も。――この世界でさえも。信じてなどいない。コウが信じるのは自分だけだ。そして、自分が今いるその時だけだ。 ミナとリィンは、コウが異世界から来たということを知らない。どうせ言っても信じないだろうし、知らせるようなことでもない。すぐに付き合いは切れるのだ。クラスのヤツらと同じ、浅い浅い付き合いだ。けれど、シルフィラは? それを考えると、コウは憂鬱になる。 異世界から来たということを、信じると言った。それが本当だろうと、建前だろうと、シルフィラはコウが元いたところに戻る時まで、ずっと一緒にいるだろう。何度も何度も確かめて、「帰るんだろ?」と聞いてきたのだから。「俺が一緒に行ってやる」と、そう告げたのだから。 だからこそ、憂鬱なのだ。クラスが変わった、ハイ、終わり。右も左もわからないこの世界で一人、どうにかする術をコウは持ち得ない。どうしても、簡単な付き合いでは終われないから、いつかきっと、コウの世界に入りこもうとしてくるだろう。家はどこなんだと聞かれたことがないのがそもそもおかしい。――可能性として、コウが異世界から来たということを本気で信じているなら別かもしれないが。 「・・・あいつ、変だ」 コウは怒ったように呟いて、手で水をすくい、また落とすを繰り返す。単調な、意味もない行動だが、水のしみるような冷たさは手の先から頭の中まで冷やしてくれるような気がしたし、はねる水音は朝の静寂に包まれた森の中に響いて届いて心まで静かになる。 「コウ、帰らないの〜?」 突如聞こえたその声に静寂をブチ壊されて、コウは内心を通り越して誰から見ても不機嫌な様子になった。 「なんだよ、お前一人で帰りゃいいだろ?」 不機嫌不満全開なコウの声は、彼と旅をしている者達にとっては驚くようなことではなかった。何しろ、コウはほぼいつでも不機嫌そうにしている。そして、不機嫌だろうがなんだろうが気にしないというのも、旅の一行の特徴だ。 「えー? だって、ボクはコウを守ってあげるんだもーん。コウの近くにいなきゃ意味はないんだもーん」 コウって結構ボケてるよね〜、と失礼なことを付け足した黒精霊に、コウは素早く足元にころがっていた石を投げつける。平手は受けた黒精霊も石はさすがに避けて、「危ないよ〜!」と声を上げた。 「知るか」 コウは吐き捨てて、視線と意識を目の前の川の流れに集中させ始めた。しばらくは黒精霊がわめく子供と同じ甲高い声が聞こえていたが、それもじき自動的にシャットアウトされた。 川の流れをじっと見つめて、いっそ睨みつけるように、コウは微動だにしなかった。けれど・・・。 「――今いるこの時が、この場所が、自分のいるべき場所だ!――」 突如耳元で大きく響いた声に、反射的に視線と意識を戻す。 「・・・覚えてるー? コウは、そう言ったよね」 黒精霊が、静かに笑いながらコウを見ていた。 「ボクはね、人間じゃあない。だから、人間ってすごく面白い! ボクは、人間が大好き! 愛してあげたい! って言ってもいいよー? でもいくらボクでも、人間全部を愛するなんて、出来ないんだ。だから、ボクはボクが守ってあげるって思った人間だけ、守ってるんだー」 そのあまりに静かな笑いは、先刻までの黒精霊の様子とはどこかが大きく違っていた。コウは今なお微動だにせず、だが意識と視線はさっきまでと違って黒精霊にしっかりと向けられていた。 「コウはね、言ったよ。ここは自分の居場所だ、って。でも・・・本当にそう思ってるー? それならどうして、そんなに居心地悪そうなの? なんで焦ってるの? わっかんないなあ・・・。やっぱり、人間って面白いよね〜?」 そう言った時の黒精霊の顔は、ただ純粋に、おもちゃを見つけた子供のように。 「・・・焦ってなんて、ねぇよ。俺は、俺に深く踏み込もうとするヤツがいやなだけだ」 それとは反対にコウの表情はひどく冷めて、感情をわざと表さないようにしているようだった。 黒精霊はただ笑って、もう何も言わなかった。
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