<月> 一章 “迷い子” 1
あれは、中学三年の、最初の辺りだっただろうか。意味を書きなさい、と配られた単語の羅列の中、fateとfalseを間違えた。隣のヤツと交換して、素っ気無くつけられた赤バツを見つめて・・・どこが違う、と皮肉な笑みをこぼしたりした。 そう、運命なんてウソだ。 “俺の子だ。俺の子として生まれる運命だったんだ!” 初めの頃は、そう言ってかばってくれていた。けれど、段々離れていった。運命なんてそんなものだ、と見限ったのはその時。俺が、月居光良から木崎光良へと変わったあの時。 “お前は悪くないのよ。あの人はすぐに帰ってくる。いつか必ず帰ってくるわ。間違ってるのよ、騙されてるのよ。すぐ、すぐ気付くわ。気付いて私の下へ・・・光良の下へ戻ってくるから” あの人は言ったでしょう? あなたは運命だと。 ・・・小さい頃は、この言葉を信じていた。俺は悪くない、それは本当なんだから、絶対戻ってくるはずだと。けれど、今は、もう信じられない。すっぱりと諦めた。 でもアイツに会って。また信じようとした。・・・信じようと、したのに。 やっぱり、運命なんてウソなんだ。絶望に似た失望だけが、残ってしまった。 晴れの日、雨の日、曇りの日。いつどこだって逃げ場がない。 落ち着かないようで落ち着いた、あそこは居心地が良かったんだなと、今更気付く。屋上の、鉄格子に囲まれたコンクリートの、驚くほど狭く思える空の下、仲間とも呼べないダレカと、全員で孤独を分け合うようなあの感覚。ふと思い出す。 古い本の匂いと、ヒトはいるのに静かな部屋。声を潜めて膝を抱えて、狭い通路の隅っこに縮こまる。早く過ぎろと、時間を急かす。 元々、それほど人気のない図書館だ。昼休みだって図書委員と司書教諭を合わせて四、五人。それでいて、縦長の部屋だから奥にいけばいくほどヒトからは遠ざかる。 ・・・教室にいると真澄がうるさい。休み時間ごとに訪ねてきて、監視するように居座る。責めるような目をして、何か聞きたそうな顔をして、それでも何も言わず、ただ見つめてくる。信用されてないのだと、わかっている。何も言わないから、それでいて何も変わりがないから、どうにか失踪中の糸口を見つけようと、必死なのだ。ちょっとの変化、言葉の綾。何でもいい。何か、責める理由を見つけたいのだろう。 光良は、そんな理由で逃げている。普段いたところは全て真澄に知られているから、来たことも数えるほどしかない、自分でも居心地の悪い、こんな図書館なんかにいる。 今日は、雨が降っている。しとしとと、目を閉じていると耳が勝手に音を拾ってくる。落ちる雫は、何色だろうか。曇った空は、何色だろう。 「あの・・・」 その時、小さな声で話しかけられた。膝の間に埋めていた頭を戻すと、目の前二メートルほど離れたところに、小柄で気の弱そうな男子生徒がおどおどした様子でこちらを見ている。 「あ、あの・・・えっと・・・」 「・・・何だよ。何か、文句でもあんのか」 睨みつける。話しかけられる覚えはないから。するとその男子は怯えて口をつぐんだ。 「・・・何だ?」 それでも去らずにいるので、光良はもう一度訊く。すると今度こそ、その男子は逃げ出した。 何だアレと思いながら、光良はもう一度目を閉じた。 それから、何度かその男子がやって来た。その全てが同じような邂逅で、光良が凄んで問いを口にすれば、男子は怯えて口を閉ざす。けれど何か言いたそうにしながら、それでも怖くて去っていく。 出会いから七日・・・話しかけられて五回目の時、いつものように逃げ出そうとした男子を、光良自身が引き留めた。何度も何度も鬱陶しいというのもあったが、何だか可哀想になってきた結果である。 「おい、待てよ。お前、何度逃げんだ。用があるなら言う。用がないなら、本当に、もう来んな」 男子は後ろに下がりかけた格好のままぴたりと止まった。恐る恐る、光良を見る。 「えっ・・・と」 「何だよ」 よくまあ怯えるものだと呆れながら、光良は首を傾げる。男子は一分ほど固まっていたが、ようやっと意を決したか、体ごと光良に向き直った。 「あ、あの・・・。あなたは、木崎先輩、ですよ、ね・・・?」 何で知ってるんだというより、ああ知ってるのかという感じだった。光良は頷きもせず、 「ヒトに訊く時は自分から名乗れって、言われたことないか?」 皮肉を言う。すると男子は慌てて、顔を赤くしたり白くしたりしながら、 「ご、ごめんなさい・・・! ぼ、僕は、一年の、な、内藤響夜、でちゅ」 どもって噛んだ。光良は噴出して、笑い混じりのため息を一つつく。 「お前、面白いな? ・・・で」 ふっと真顔に戻って。 「一体その“木崎光良”に、何の用なんだ?」 ナイトウヒビヤと名乗った少年は、またしてもたじろぐ。が、今度はしっかり足を踏みしめて、光良と目を合わせたまま、 「その・・・あの。ここ、生徒閲覧禁止区域なんです・・・」 「・・・は?」 予想していたのと違う言葉に、光良は間抜けな声を漏らした。 「せえとえつらん、きんしくいき・・・」 「はい。それで、その、こんなところで寝てると、多分、そのうち、先生に叱られると思うんです。だから、えっと、あちらの机の方か、もしくは書庫なら、人は少ないと、思うん、ですけど・・・」 一言一言に句読点。頑張って注意してますという感じがはっきり表れている。 光良は何だか毒気を抜かれて、大きく深いため息をついたのだった。 そして、内藤響夜の言葉に甘えて書庫で時間をつぶすようになった。その臆病な男子生徒は、何故か光良を気にして、何がしか話しかけるようになっていた。人に構うのは面倒な光良だったが、この男子はどうしてか邪険にできない。きっと、小動物を相手にしている感じがするからだろう。光良は基本的に、弱い者いじめはしない主義だ。 「木崎先輩、この間のお話の続きなんですけど・・・」 「あ?・・・ああ、宇宙がどうこうって話か?」 「はい。後で調べてみたんですけど、やっぱり、銀河系の外にも宇宙はあるそうです。ブラックホールに囲まれて太陽系はいつか滅びてしまうってわけじゃありませんよ、きっと」 「あー・・・そう。夢があるな」 「先輩の考え方が寂しすぎるんですよ。それと、河童に襲われた人の実話についてなんですけど、よく考えたら、尻児玉引っこ抜かれたら死んじゃいますよね? 一応探してみたんですけど、見つかりませんでした」 「・・・お前、よくそんなの探す気になるよな」 呆れた光良は苦笑した。 ・・・二人で、別に何を話しこんでいるわけでもない。つらつらと会話はしているけれど、その内容といえばくだらないもので、答えが出ようが出なかろうがどうでもいい。二人とも、宇宙が好きなわけではない。妖怪が好きなわけでもない。花の話だろうが虫の話だろうが、思いついたら話すだけだ。 内藤響夜というこの少年は、とても変わり者である。光良にはお世辞にもいい噂がなく、たいていのヒトは避けて通る。真澄は例外中の例外で、それを気にしないだけ。どうやらこの響夜という少年もまた、その例外であるらしい。タイプとしては真澄と正反対であるにも関わらず。 次第に打ち解けてきた二人は、互いに微妙な距離を保ちつつ、交流を続けていた。 ある休みの日、光良が街を歩いていると、ばったりこの少年と出くわした。そのまま二人何となく歩いていたところ、不良数人に囲まれた。巻き込んだな、と内藤響夜の怯えているだろう顔を見る。けれど少年は、怯えてはいるが、どこか諦めたような、悲しい表情の方が強かった。 不良は、光良を無視して内藤響夜に話しかける。金持ってきたのかよ、と凄む。弱々しい少年は弱々しくうつむいていたが、やがて首を縦に振った。 ああ、と納得する。・・・内藤響夜は、いじめられているんだ、と。 光良を無視して近寄る不良を、光良は何も言わず投げ飛ばした。そのまま五分と経たないうちに、十人程度が辺りに伸びた。 内藤響夜はそんな光良を、この場の誰より怯えた顔で見ていた。それがわかったから、光良は、何も言わずその場を去った。 次の日から図書館に行かないで、非常階段の一番上で、暇をつぶすようになった。 内藤響夜がこの後どうなったか、光良は知らない。中途半端に手を出すなら、出さない方がましだったかもしれないとは思う。けれど・・・。 出口のない迷路の中に迷い込んでしまったかのように。光良は、何が最善かなどわからないし、理解したいとも思わない。・・・ずっと前から迷ったまま、今もわからないのだ。
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