<月> 一章 “迷い子” 2
授業にちゃんと出ているのは、もし両親など呼び出されたら困るから。 数学の時間、間違えた箇所を消しゴムで消そうとして、ないことに気付く。しょうがないからシャーペンでぐりぐりと消し、さらに板書を写す。すると、横からすっと、白い手が出てきて何かを置いていく。みるとそれは半分くらいの大きさになった消しゴムで、視線を向けると、隣の席の女子が微笑んでいた。その手には可愛らしい柄の消しゴムがあって、二つあるから使って、とその目が言っていた。突き返すのもなんだからと、軽く頷いて使わせてもらった。 その日の放課後、礼を言って消しゴムを返す。隣の席の女子はにっこり笑って受け取った。その屈託ない笑顔が、目に焼きついた。 座席表で名前を調べると、楠葉鈴希と書いて“クスハスズキ”とルビが降ってあった。変な名前と思って、覚えておいた。 次の日の昼休みのこと。その楠葉鈴希が非常階段の上まで昇ってきた。 「ああ、木崎君、いた」 「・・・何だよ?」 少女は、先生が呼んでたよと光良に言う。それだけのためにわざわざ光良を探しに来たらしい。 「別に、昼休み潰してまで探しに来なくてよかったのに」 光良がそう言えば、楠葉鈴希は苦笑して、うんと頷く。それから、 「でも、私ひまだったし。・・・先生の呼んでる理由、進路のことらしいから」 ああそっか、と納得する。重要度が高いと思ったのだろう。 「ああ、まあ・・・わかった。悪い、ありがとな」 ため息ついて、その横をすり抜ける。光良が数段下りると背後から同じ歩調で足音がついてきて、三階の廊下で離れていった。 一階職員室まで降りて担任の下へ行く。この、痩せ気味でいつも不機嫌そうな顔をしている国語の教師は、三年生の生徒指導担当の一人でもある。問題児の光良はまさしく目の上のたんこぶで、いつも説教するような口調のこの担任が光良を嫌っていることは、言われなくともわかっていた。案の定、職員室に入ってきた光良を見て、担任は元から不機嫌そうな顔をさらにしかめる。 「・・・何で呼んだか、わかるな」 第一声がそれだ。光良は頷いて、けれど何も言わない。その目の前に、担任は一枚の紙をずいと突きつける。 「クラスでお前だけだ、白紙で出したのは。名前すら書かないで。馬鹿にしてるのか?」 まっさらな、進路表。味気ない選択肢と四角く囲われたいくつかの覧。・・・高校へ行くか、就職するか。結局のところ、ほぼ二択に絞られるのだが。 「・・・別に、馬鹿になんてしてません」 「じゃあなんで、何も書かない? 何かしら書けるだろう」 「・・・何を書けば気が済むんです?」 「気が済むとか済まないとか、そういう問題じゃないだろうが。お前自身のことだぞ。お前が真剣に考えないでどうするんだ」 また説教が始まった。光良は知らず顔をしかめていたらしい。担任に強い口調で、真面目に聞いていないなと言われ、顔を背ける。 「おい、木崎。俺は、お前の担任なんだ。お前がそうやっていいかげんな態度で自分の将来を決定しようとするのを、見て見ぬふりするわけにはいかないってことくらい、わかるだろう。ちゃんと聞け」 「聞いてます」 「聞いてもないくせに、即答だな」 「聞いてるって、言ってるじゃないですか。・・・書いてくればいいんでしょう、書いてきますよ」 光良はこれ以上の説教を避けるために、担任の手から白紙の進路表を奪い取った。 「木崎、わかってるな。ただ何か書けばいいってものじゃ・・・」 「何かしら書けるだろうって、さっき言ったのは先生じゃないんですか?・・・書けば納得するんでしょう。わかりました、書いてきます。失礼しました」 担任は、木崎待てと大きい声を出したが、その声を無視して光良は職員室を出た。 呼び止める声も聞かずにぱっぱと話を進めて勝手に出て行った問題児に、青木大吾は大きなため息を吐いた。そんな彼を何人かの同僚が同情的な目で見ていた。三つ隣りの同僚が、彼らを代表して青木を労う。 「大変だな、青木さん。木崎相手じゃなあ・・・暖簾に腕押しだな」 青木は声の主に目をやり、全くだと頷く。 ・・・木崎光良は厄介だ。というのも、この少年が馬鹿ではないからだ。 勉強をしている感じはしないが、成績は並の上を維持している。同年代の少年達のようにろくでもないことに没頭するわけでなく、かといって何か社会的に良いことをしようと心がけてるわけでもない。何をしているか、何を考えているのか、よくわからない。けれど、馬鹿でないことだけは確かなのだ。問題は起こすが、それさえ除けば、同級生の中で浮き立つほど大人びて、できた子どもだ。それで口も頭もよく回るから、たちが悪い。 「青木さん、あの子は放っておいたらいいんじゃないか? 昔はどうか知らないけど、今は警察沙汰になるようなことはしそうにないし、もう少しの間だけ何も起こさずいてくれればいいんだから」 その言葉に、青木は軽蔑するような表情で反論する。 「そういう考え方は、教育者としてはどうかと思いますがね、安田さん。受け持ったクラスの生徒、全員のことを考えるのは、担任として当然じゃありませんか?」 安田は堪えた様子もなく苦笑して、青木さんは真面目だからね、と言う。青木はそれ以上何も言わなかったが、それからずっと胸の奥に何か黒いものがわだかまっていた。 非常階段にも教室にも図書館にも行く気が起きず、光良は上履きのまま外に出た。校庭の端、運動用具の倉庫脇、そろそろ授業が始まるから余計にひと気のないそこに、目的もなく足を向ける。金網が仕切る向こう側は道と人家で、こんな昼間は静かなものだ。 かしゃんと小さな音を立てて金網に寄りかかる。手に持った紙をびりびりと破く。 「・・・書くかっての」 捨てた紙は足元にぱらぱらと散って、花びらみたいに地面を白くする。 風はない。破かれた紙は散っていかず、その場でわずかに渦を巻くのみ。光良はそれにちらりと視線をやってから、静かに目を閉じる。するとふと、まぶたの裏をよぎる、鈍い金の輝き。ぱっと目を開けて金網から体を離す。どくどくと鼓動が鳴っていた。 (・・・確かに、いた。夢じゃない、絶対夢なんかじゃない) そっと右手首を盗み見る。小指ほどの黒い石を三つ、麻のような荒い糸に通して連ねただけの“お守り”。 「・・・メシア」 答えない名を、これで何度囁いたのか。光良はどこか泣きそうにも見える無表情でその場に座り込んで膝を抱えて、幻のように横切る姿を見ないで済むようにとぎゅっと目をつむる。こちらに帰ってきてから、一度も呼んでいない名前。それを言ってしまったが最後、ぎりぎりもっている心が壊れてしまう気がして、胸の奥、何人もの思い出が眠るそこに、ひと際厳重に鍵をかけ放り込む。 ・・・幻を見たのだと、思えば思うほどに空しくなる、あの世界。あの姿。 光良は、何故自分はここにいるのかと、強く強く思う。 そのまま時間が経ち、授業終了のチャイムが鳴った。今日、一年生は五時間で終わりらしい。少しずつ玄関からヒトが吐き出され、校門を通って学校を去っていく。 人目につかない校庭の端っこにいた光良は、そのままそこに座っていようと思った。二時間続けて授業をサボることになるが、しょうがない。こんな気持ちのまま教室に戻って、真澄の前でずっと口をつぐんでいられる自信はない。 風が寒い。十月も半ば、そろそろ秋も深まり、冬が来る。・・・中学を卒業したらどうしようか? 働きに出て、自活して、一人で生きていけるだろうか。高校を目指すほとんどの同級生達、何で高校に行くんだ? 学校にいるのは、それほど有意義だろうか。楽しいのだろうか。学校など、いたくない。同じ年の人間がうじゃうじゃ集まって、仲間とかいって一緒に行動して、それでいてヒトはヒトを蹴落とすことばかり考えてるじゃないか。家にだっていたくない。外よりも冷たい空気の家で、狂った母親と二人きり。こんなにつらいものはない。 「・・・!」 大声上げて叫びたくなる体を、心を押さえつけて、光良は立ち上がった。屋上へと足を運ぶ。・・・帰ってきた時、何故かそこにいた。きっと家よりもここの方が、俺の居場所としてはお似合いなんだ。殺風景で汚れた、だだっ広い、けれど誰も必要としていない場所。倒れるように寝転がる。腕で顔を覆って、ただ一人。 (もう・・・嫌だ) 心に浮かんでしまった弱音を、自分には隠せなかった。 そのままでいた。チャイムの音が今日の終わりを告げる。階下では掃除やらホームルームやら帰り支度やら、騒がしくヒトが動いていることだろう。けれどここまではその音も届かず、ただチャイムの音が空の向こうに消えていく、そんな様子が見えるようだった。 ぼんやりと、ぼんやりとしていた。腕を外して、空を見る。赤らむ空に烏が飛び、子どもの下へと帰っていく。その影を静かに見つめていたら、誰かが静かに扉を開けた。 「・・・っ!」 開けた人物は驚いた顔をして、一瞬固まる。腰まである長い髪を一本にくくった、女だ。上履きの線の色から、三年生だと知れる。 「・・・あー、驚いた。ひとがいたんだ」 女はにっこりと笑って、扉を閉める。 「驚いたよ、そんなところに寝て、何してるの?」 やや遅い口調で問いかけられ、光良は目を細める。気に食わないタイプの人間だ。無視する。 「あ、無視? ひどい! ・・・じゃあ、いいもん」 女は歩いてくると、いつかの真澄と同じように、光良の横でごろりと寝転がる。 「あたしも寝れば、何見てるかわかるもんね」 気に障るが起き上がるのが面倒で、光良は起きない。何も答えない。・・・静かに時間が過ぎ、女はむくりと起き上がる。 「うん、わかったよ」 「・・・何が」 ほぼ無意識に訊けば、女は笑う。 「大体同じもの、見てたね。・・・でも、全く同じものは、見えないね」 妙なことを言うと思いつつ目を向ければ、女の微笑みは何故か寂しそうだった。 「・・・?」 そしてほんのわずかな、違和感のような。それが何だか光良が特定する前に、女はぱっと立ち上がる。 「きみ、木崎光良君だよね? ・・・じゃあ、コウ君だ」 ――その呼ばれ方は、今は一番されたくない。光良は険しい顔で、 「その呼び方、やめろ。不愉快だ」 切り捨てるように言う。女はほんの一瞬視線を落として、それから作ったように笑う。 「やーだよ。コウ君って、呼ぶったら呼ぶの」 「やめろ」 「やーだ」 「やめろって言ってんだろっ!」 殺気立って大声を出せば、女は目をしばたたかせる。光良はやってしまったという顔で舌を打つ。 双方、数十秒無言だった。それを破ったのは女で、またくすりと笑う。 「・・・じゃあ、コウちゃんって、呼ぶね」 根本的解決になっていないどころか、さらに悪くなっている。そもそもどうしてこんな見ず知らずの女と話をしているのかと思えば、光良の気持ちは落ち着いた。・・・そう、どうせ付き合うことのない他人だ。そんなムキになる必要はない。 「・・・勝手にしろ」 女はまたまた笑い、突然光良の手を取る。 「コウちゃん。あたしは・・・カノン。カノンって呼んでね」 光良は取られた手を引こうとするが、カノンと名乗った女はなかなかしぶとく、ぎゅっと握って放さない。 「放せよ・・・」 低い声で言うも、にこにこするばかりで放す気配もない。 「呼んで? そしたら、放してあげる」 言われて、非常に嫌そうな顔で、光良は呟いた。 「・・・カノン」 それから光良は、真澄に続いて、カノンにも付きまとわれるようになった。
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