<月> 五章 “人の子” 3
「・・・何泣いてんだよ、馬鹿」 見た瞬間、そう呆れてしまった。言われて気付き慌てて頬に手をやりぬぐったシルフィラは、泣いてなんかないよ、と見え透いた嘘をつく。馬っ鹿じゃねえ、と苦笑する。その声、姿、情けない顔。・・・変わらない。 くしゃりと顔を歪ませたシルフィラは、発作のように笑いだす。何笑ってんだよ、そう言う光良自身も、何だか笑えてきてこらえる。 馬鹿じゃねえ、ともう一度言ったきり、言葉が見つからず沈黙。そっちは雪が降ってるんだと訊かれ、頷く。ぼんやりと、寒気をまとう白を見る。積もりそう? と尋ねられ、さあどうかなと適当に答えを返す。 こちらは雪の白、あちらは夜の黒。二つの世界の違いを表すように対比して、まるで・・・二人の決別を、促すかのよう。 「・・・きれい、だね」 積もる雪を見て、掠れた声で囁くシルフィラ。光良は痛みすらもたらす雪の白さに、その静けさに耳を澄ます。・・・本当に、静かだ。世界中から生き物が消えてしまったかのように、あらゆるものを包み込んでいく、冬の花。 「不思議なんだ。・・・空は曇ってるのに、月だけが照ってる」 空を仰ぐ。降り積もる雪の中、自分だけが異質な存在。 「・・・コウ、一人なの?」 シルフィラが尋ねる。背後に広がる夜の森に、一人でいるのは、シルフィラも同じ。 「ああ・・・一人だ」 ――今、二人とも、暗闇にたった一人きり。 静かな夜に飲まれ、言葉も途切れる。ああ、そう、一人だ。・・・二人こうして出会えても、結局は一人だ。光良は、言う。 「でも、俺は・・・逃げないことにしたんだ」 一人きりだと、弱々しく微笑むシルフィラを、真っ直ぐに見る。・・・一人だから何だ? それに屈して甘えるには、まだ早すぎるじゃないか。 「俺は、一人じゃない」 ・・・本当に一人になるのは、生まれる前と死んだ後だけ。それだけで十分だ。嘆いてばかりでそれに気付かないでいるのは、光良にはできなかった。 どこか傷ついたような顔をしたシルフィラの背後に、ふと人影が立つ。見たことのない青年。青い髪と目の、必死の形相をした。その唇が、シルフィラの名を呼び動く。 「・・・何だ、お前も、一人じゃねえじゃん」 不思議そうに首を傾げ光良の視線の先を追ったシルフィラは、息を呑む。シンパスと、青年の名を呼ぶ。 ――シルフィラとシンパス。二人の目の中にある、互いへの強い想い。それにも負けない、歩み寄れないという躊躇。光良には、それが嫌というほどわかった。何故なら、最近、毎日毎日見てきたものだから。 「・・・シルフィラ」 苦しそうに、いっそ痛そうに、シルフィラに呼びかけるシンパスは、ある一定以上の距離に近付こうとしない。二人手を伸ばしあえば届くのに、その境界が侵せない。何で、と尋ねたシルフィラに、黒い精霊が・・・シンパスの横にいる、メシアとは違うソレ、そして多分同じ黒精霊が、答える。 「シンパスは、君とはまた違った異端だよ。青の色は、特殊な血筋なんだ。うん・・・突然変異って感じ」 話し方は、よく似ている。姿も、全くと言っていいほど同じ。でも、メシアではない。 「意味わかるように話せよ」 思わず不機嫌になってそう言ってしまったのは、しょうがないことだ。・・・何故って、今この場になっても、メシアは光良の前に姿を現そうとしないから。呆れたような目で見られ、睨みつける。 「何だよ、文句あんのかよ」 「・・・いや、別に」 シルフィラはすごまれて引き下がった。それに対して、このへたれ、と心の中で罵った光良は、シンパスがそんな二人を見て笑っているのに気付き、皮肉げに笑みを作る。 「何笑ってんだ、お前。コイツが言ってるのは、お前のことだぞ」 事態わかってんのか、と叱るように言うが、シンパスは曖昧に笑うばかり。わかったところで何が変わる? と逆に問う。本当にどうでも良さそうで、光良は呆気なく思う。もっとくよくよするタイプの人間に見えるのだが。 「・・・いいの?」 恐る恐るのようなシルフィラの確かめに、シンパスははっきりした声音で返す。 「いいと、俺は思う」 知ったところでどうする、それで何か変わるのか。そう言うシンパスの言葉には、強い想いがある。 「俺は・・・俺だ」 それ以上の、何がある、とそう言い切れるくらいには。 その言葉に、光良は確信する。シンパスは、シルフィラを受け入れよう、信じようと、一途なまでに思っている。それはレオやヒビヤ、カノン、彼らが光良に向けたものと何ら変わりない。その対象であった光良だからこそ、よくわかる。 ・・・そして必要なのは、たった一歩分を、踏み越えること。 責められたと思ったか、うつむいてしまうシルフィラ。それを見て、慌てるシンパス。すまない、と謝るシンパスに、いいよとシルフィラは答える。そうして二人、どうしても越えられない境界。・・・光良は、壊してやろうと、思う。この世界に来てシルフィラに会ったから、光良は変わった。シルフィラという存在が、光良の全てを変える、きっかけをくれた。 ――誰か一人との、本当に運命のような出会いが、ちっぽけな存在が、その世界を変える力をもつのならば。 光良の決意は、輝く月に照らされ。 「シルフィラ・・・お前、帰れ」 呟くように、けれど静かに力強く。それは、あまりに呆気ない、決別の言葉。 裏切られたかのような非難の目が、光良を射抜く。光良は屈しない、そんなものには。自分の中の小さな痛みでさえも、押さえこみ。 「お前、もう・・・帰れ」 ・・・帰る場所が、ある。その大切さに、気付け。近付いてくるな、と。光良はシルフィラをひと際鋭く睨みつける。 「コウは・・・俺が、嫌い?」 シルフィラは、傷付いた表情。ひどい笑い方だ。 躊躇いもせず頷いた自分の頭の上から、雪が落ちていく。・・・どれほどの時間、こうして話しているのだろうか。そろそろ、終わりが近付いてきているだろう。 「・・・嫌いだ。大嫌いだ」 そう、嫌い、なはずがない。大切な、きっと一生忘れることのない、友。 ――好きだから、立ち止まらないでほしい。好きだから、突き放す。・・・たとえどれほど傷付けようとも。 「そ、か・・・」 「シルフィラ、聞け」 激励と叱咤は紙一重。光良の言葉をシルフィラがどう受け取ろうと、もう構わない。伝わりさえするならば。目を逸らすシルフィラを、叱りつける。逸らすな、と。 「・・・何」 悲しみのたたえられた瞳を向けられるのは、こたえた。逆に逸らしそうにすらなる目を意思の力で固定し、言葉を絞り出す。どこかたどたどしく、どこまでも正直に。 「俺は、嫌になることが沢山あっても、もう逃げないって・・・決めた」 逃げるのは簡単で、けれどとても、救いのないこと。立ち向かうのは勇気がいって、けれどきっと、いつか報われること。――光良を守ろうという者達に、守られるだけの価値がある人間になるために。守られた分、守れるように。光良は、逃げない。・・・ああ、馬鹿なやつらだ、本当に。 「大切な・・・ヒト達?」 シルフィラの問いに、大きく頷く。嘘は吐かない。そんな、意味もない嘘。 「・・・お前にとってのそいつと、同じだろ」 そして、シンパスを指差す。肯定しなければ、殴ってでもさせる。いまだ“一人”に固執するなど、絶対許さない。 「――――――」 そして、ほんの数秒、全ての音が止まった。 「・・・っ」 それはほんの一瞬だったが、その場の音という音が、光良に従ったかのようだった。 光良はそっと手を下ろすと、独白のように言葉を紡ぐ。 「・・・俺、自分がヒトに近付かなければ、傷付けないって思ってた。でも、そうじゃなかった。それがヒトを傷付けることもあるって、気付いた」 ヒトは、鏡だ。その行為で自分が傷付くのに、相手には傷を付けないなんてあるものか。 「じゃあ、どうしたら・・・いいんだよ」 光良の言葉に弱々しく反論し、今にも崩れ落ちてしまいそうになるシルフィラ。支えようと足を出したシンパスを遮るように、叫ぶ。 「どうしたらいい。俺は・・・俺がいたら、みんなを傷付けるのに!」 俺は、実の親すら、この手で殺した! ・・・そう声を上げるシルフィラに、さすがの光良も言葉が途切れる。一度吐き出してしまったものは、簡単には止まらない。シルフィラは叫び続ける。 「そばにいたら、みんなを傷付ける! 俺のせいで怒らせて、悲しませて、泣かせて。見たくない、見たくないんだ、そんなのは! ・・・だから、だから離れるのに。それなのに!」 ・・・俺だって、と声を詰まらせる。俺だって、一人なんて、嫌だ。 「逃げないって、決めた・・・だからシンパスを捜した! この力だって、俺次第だと思った。二度目はないと、思った。でも、違った。そうじゃなかったよ!」 会わなかった間に何が会ったのか、光良にはわからない。ただ、何か重大なことがあったのは、わかる。俺は傷付けたじゃないか、と自分を責めるシルフィラの、張り裂けんばかりの声を耳にすれば。 「俺は、きっと」 きっと、生まれなければよかったんだ。 ――その思いは、光良も知っている。あまりにも寂しくて、寂しくて仕方のないもの。 親に、友人に、ダレカに、自分の存在を求めてもらえない。ここにいるのに、必要としてくれるのを、そっと待っているのに。傷付けない、そのためなら一人でもいるから・・・せめて、生きていてもいいと、認めて。 そうだな、と同意する。全く、その通りだ。生まれなければ、これほど大変なことなど、何もなかっただろう。 「・・・コウ?」 微笑すら浮かべる光良を見て、シルフィラが光良を見る。 俺もそう思ってた、今でも時々頭をよぎる。どうしてコウが。わかっているくせに。 ――生まれなければ、だって?―― そんな言葉、クソくらえだ。 「何でお前が俺を、俺がお前を・・・求めたのか」 光良は、凛と声を張り上げる。 二人には、あまりに似たところがあった。・・・生まれなければ、そんなことをずっと思いつつ、それでも生きよう、生きたいと、そう思っていた。 「お前にはお前の、俺には俺の、一人でいる理由があった」 その声は夜闇を切り裂くように。 「でも、誰にも関わらず生きるなんて、絶対できなかった。触れたかった、触れてほしかった。どんなに意地張ったって、本当は愛されたかった」 ひとり、なんて嫌だと、必死になって足掻いた。生きる理由を、頑なに探して。 「俺達は、似てた。だから、放っておけなかった。当たり前のように、手を取り合った」 傷を舐めあうようなものだったとしても。・・・互いに共有した時間と想いは、残る。 「触れる前と後では、違う」 変化のきっかけは些細なもの。それでも、それに出会ったことこそが。 多分シルフィラは、あと一歩のところまでは、自力で歩いてきた。光良と同じように、何度這いつくばろうと。けれどきっと、あと一歩のところで、失敗してしまった。それで、必要以上に臆病になってしまった。 そんな友に、光良ができることは、一つだけ。 「甘えるな! ・・・迷うなよ! 何があっても、貫いてみせろっ!」 ――その一歩を踏み出せと、背中を強く押してやること。 光良は、強く目を閉じる。・・・その背中を押した方向に、光良は、いない。まぶたに落ちた雪が、頬をなぞってはらはらと落ちていった。 「・・・コウ」 シルフィラは表情を徐々に笑みへと変え、大声で、笑い出す。 「・・・笑うなっ!」 怒鳴る。悲しみを隠し。・・・シルフィラは今、境界を越えたのだ。 「なん、か・・・っ! ば、馬鹿みたい、だ」 吹っ切れた様子のシルフィラは、笑いすぎて、泣き始める。 「俺・・・俺、本当に」 馬鹿だと、そう呟くシルフィラを、光良は手の平に爪を立てて握りしめ、見つめる。せいぜい皮肉げに見えるよう、笑ってやる。 『・・・コウ』 不意に声がして、空を見上げる。もう時間だよ、とそう告げる声に、頷く。・・・もう、 「終わり、だ」 二度と、会えなくなる。永遠の別れ。それは、死とは違う形でやってきた。 「泣いてんな・・・馬鹿」 まだぐすぐす泣いていたシルフィラに、泣くなと言う。笑って別れよう、と。 「泣かないよ・・・馬鹿」 その笑顔は、まるで大輪の花のよう。光良は、そうかと答え、その燃える炭のようなシルフィラの目と、彼によって黒檀と例えられた目を合わせる。 ――そして、笑いあった、瞬間。その姿は、ぱっとかき消えた。
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