<風> 四章 “旅立つヒト” 1
ゆらゆらと揺れる水面のように、決して掴めないモノ。 それは、一夜の夢。溶ける淡雪。目映いばかりの日の光。 ――届かないモノに、手を伸ばす。 そして、いつしか触れる、幻を見る。 煌々と月の照る夜。杖なしに歩く練習を始めてまだ幾日も経たず、ちょっとした段差につっかえては転ぶを繰り返す。他人の足のようにひどく動きが悪い。それでも根気よく歩き続けて、遠く向こうに谷をおがむ岩だらけのそこにたどり着いた時、見知った影を見つけてアイシークは驚く。 「シルフィラ、か?」 尋ねると、びくりと振り返る。遮るもののない月の明かりに翻る髪は、心なしか輝きを増しているようにも思えた。 それほどに美しい、月との調和。シルフィラの背後に重なり合うような二つの月は、はるか遠くに続く岩の原を波にし、たゆたっている舟のよう。 「・・・アイ、ス」 夜の明かりのせいか、その表情は固い。ほっとしたような、だがどこか警戒した目を向ける。 「シルフィラ、一体どうしたんだ? カーヤは? 一緒じゃないのか」 岩を越えて、近付く。すると、シルフィラはよろめくように距離を取る。カラン、と乾いた音が響いて、石がいくつか蹴られて転がる。 「・・・シルフィラ?」 様子がおかしいことに、ようやく気付く。どうしたんだ、とさらに一歩近付く。 ――急に風が強く吹いて、アイシークは一度目を閉じた。もう一度開く。シルフィラは、動いていない。だが、妙に距離が、感じられた。 「・・・ごめん」 一定以上距離をつめさせないままに、シルフィラはどこか呆然と呟く。ひゅっと音を立てる風がまとわりつくようにその髪を踊らせ、表情を隠す。 ごめん、俺はここに来ちゃいけなかった。 後悔をにじませた声が届く。 「シルフィラっ? お前、どうし・・・」 慌てて駆け寄ろうとしたが、それを制するように一際強い風が吹き、細かな砂を空中に巻き上げる。思わず顔を背けてしまってから、はっとした。 砂が目に入る痛みなど気にする間もないまま、視線を戻す。そこにもう、人影はない。やがて砂煙が落ち着く頃には、いた痕跡すらない。変わらないのは岩の波、そして重なり合う白刃と紅刃。 ・・・たった一瞬、目を離したその隙に、ひどく沈んだ声をした彼は。 「シルフィラ・・・?」 呟かれた名に応える者は、かき消えて。それはまるで、幻のごとく。
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