<風> 四章 “旅立つヒト” 7
何泣いてんだよ、バカ。第一声がそれだった。 言われて、はっと気付く。慌てて頬に手をやれば、知らず流れる涙の跡。ごしごしとぬぐって、泣いてなんかないよ、と見え透いた嘘をつく。 バッカじゃねえ、と呆れた声を出すコウ。・・・変わらない。その声、姿、口の悪さ。 ふふふっと、馬鹿にされてるのに笑いがこみ上げてくる。何笑ってんだよ、薄気味悪ぃ、そう言われても、思い出し笑いと同じく簡単には止まらない。 バカじゃねえ、ともう一度言いつつ、コウは静かにシルフィラの言葉を待っていた。 「・・・ねえ、そっちは雪が降ってるの?」 やっと笑いが収まってコウに視線をやれば、その背後にふんわりと降り積もる薄青い白。ああ、頷いたコウは少し上空に目をやって、降りしきる雪を眺めたようだった。 「積もりそう?」 さあどうかな、とコウは答えを避ける。 こちらの黒、あちらの白。まるで対比のようだ。どうだろうと言いながらも着々と積もっていく様子の雪は、コウのまとう黒服、黒い髪と目を浮き立たせるようで、白く光ってさえ見える。 「・・・きれいだね」 シルフィラは、静かな雪を思った。雨とは違って、音のない雪。積もった雪の上を歩くのが、彼は好きだった。・・・ずっと向こうまで同じ色に染まって迷いそうなのに、後ろを向けば自分の足跡が続くのだ。けれどそれもいつか隠れると、やや大きくなってから知った。また、雪の真白いさまは、花弁にも似て綺麗だった。 不思議なんだ、空は曇ってるのに、月だけが照ってるんだ。コウはぽつりと呟いて、また空を仰いだ。そんな彼を見て、思う。 「・・・コウ、一人なの?」 コウの世界も夜。降りしきる雪の世界は、暗闇に匹敵する静けさだろう。 彼もまた一人だろうか。 シルフィラの予想は外れていない。一人だと、コウは告げた。 二人とも、一人。 しばし、沈黙。コウのたたずむ白の世界も、上塗られていくだけで変化はない。時が、止まったかのように。 やがて、コウが口を開く。 ――でもな、俺は逃げないことにしたんだ。 真っ直ぐ見てくる、コウの瞳は力強く。それは、シルフィラとは似て、非なるものだった。 「・・・だから、もう一人じゃない」 そしてふと、皮肉げに笑う。 「・・・なんだ、お前も一人じゃねえじゃん」 え、と小さく声を上げたシルフィラは、その視線の先を追って驚きで息を呑んだ。 「シン・・・パス」 染めていた髪色が、元に戻っている。その方がしっくりきて、同時にやはり、異質だった。 肩に届くほどではないが、やや長めの青い髪。灰色を帯びた青の目はシルフィラを射抜く。 「シルフィラ」 ある一定以上の距離で、近付くのを躊躇う。二人ともが手を伸ばせば、届くほどの距離。けれど・・・まるで、隔てる壁でもあるよう。どちらも、それ以上の一歩を進めない。 今はもう偽りない固い声音で、呟く。 「なんで・・・?」 黒精霊が、その疑問に答える。 「シンパスは、君とはまた違った異端だよ。青の色は、特殊な血筋なんだ。何て言うのかな・・・そう、突然変異、って感じ」 シンパスは、青の血脈。ぼくは、その中にいた。 黒精霊の一言で驚いたのは、この場の三人ともがだ。 「・・・俺の、中?」「突然変異・・・?」「意味わかるように話せよ、バカ精霊」 けれど一人、感想が少し不遜で・・・全員の視線が、コウに向けられる。彼は全く態度を変えず、黒精霊ってヤツはどいつもこいつも・・・と、呆れている。が、他からすれば、彼の態度の方がよっぽど呆れる。 「・・・コウ」 「あ? 何だよ、文句あんのかよ?」 「・・・いや、別に」 すごまれて引き下がる。シルフィラは、コウの前だとちょっぴし弱い。 あまりにわかりやすい二人の力関係を見て、シンパスは少し頬を緩めた。・・・年相応の、微笑や服装で隠すことないシルフィラが、そこに現れる。殻が剝けたか破れたか、それとも壁が硝子となったか、自らに覆いをかけない彼が、コウというらしい少年に押されている。・・・そこにシンパスはいないが、それでもいいと、思った。 「・・・ナニ笑ってんだ、お前。コイツが言ってんのはお前のことだぞ?」 事態わかってんのか、呆れられてもシンパスには深刻さがとんと感じられないのだから仕方ない。ちょっと微笑んだまま、 「わかっている。しかし、わかったところで、何が変わる?」 そう、問いかけた。 それはそうだよね、と相槌を打つ黒精霊本人はどうとして、シルフィラもコウも、答えを持たない。どこか納得出来なくとも、これでいいからいいのだと、本人が言い張るのなら、周囲の出す口などまさしくぬかに釘ではないか。 「・・・それでいいの?」 シルフィラの、恐る恐る尋ねるような確かめに真っ直ぐ返される言葉。 「別にいいと、俺は思う」 知ったところで、どうしようというのか? 自分の中に精霊がいたとか、特別な血筋だとか、言われたからって、自分は変わるだろうか。 「何があったって、俺は俺だと、思うから」 ――それ以上の何があろう。 シルフィラに、言い聞かせたかったわけではない。けれどうつむいてしまった彼を見て、ようやくシンパスは自身の言葉の重みに気付いた。はっと顔色を青ざめさせる。 「す、まない・・・。俺は、お前を責めようとしたわけでは・・・」 シルフィラはぎこちない微笑みで、わかってると小さく頷く。 またしても、訪れる静寂。月ばかりが輝いて、木々の影を濃く落とした。 「・・・お前、帰れ」 ふと、コウがぽつりと呟いた、あまりにあっさりとした決別の言葉。返す声を失ったのは、シルフィラだけではない。その唐突さ、呆気なさに、思わず非難を上げそうになったのはシンパスも同じだ。 「シルフィラ。お前・・・もう、帰れ。行け」 もう一度、含めるように言葉と成す、その真意はどこにあるのだろう。シルフィラは半歩ほど、シンパスから遠ざかった。同時に、手を伸ばしてもおそらく届かないであろう、遠い世界のコウにほんのちょっとだけ近付いた。 「・・・コウは、俺が、嫌い?」 もう、いいの、と引き止められるのを待つ子供のように言葉を紡ぐシルフィラの、常に浮かべたままの微笑が今、隠しきれない悲しみに曇る。コウは、その黒い髪に積もった雪を大きく頷くことで地に落とす。沈黙だけがあるような世界で、その白が積もった雪の上に落ちる、微かな音が聞こえた気がした。 「・・・嫌いだ。お前なんか、大嫌いだ」 本心、だろうか。本音、だろうか。シルフィラの瞳が波立つように揺れ、どうにか作ったぎこちない微笑は完璧に崩れ去って、皮肉なことに一番素直に現される、悲しみという思い。差し伸べた手を、振り払われたかのような。 「・・・そっか」 「シルフィラ、聞け」 ん? と生返事をして目線を上げ、けれど真っ直ぐには見つめられずにまた逸らす。コウは言う。逸らすな、と。 「・・・何?」 シルフィラは、悲しみをたたえたままの瞳を、意を決して向けた。コウはそれでも揺るがない。 「俺は・・・頑張ってる。イヤになることが沢山あっても、もう逃げないって、決めた」 ――俺を守ろうってヤツらがいるんだ。俺と一緒にいてくれるヤツらが、いるんだ。 バカなヤツらだけどさ、と付け足すその表情は、溢れるほどの輝きが満ちている。シルフィラは、直感した。 「・・・大切なヒト達?」 ああ、コウは躊躇なく頷いた。揺ぎない意思の強さは、その動作一つとってもよくわかる。それからコウは、 「お前にとってのソイツと、同じだ」 指差す、その先にシンパス。 「――――――」 ほんの数秒、音が止まる。葉擦れも、呼吸も、月の光が生む幻想曲すらがぴたりと止まって、空気が隔離されたように。 「・・・っ」 誰かの息を吸う音で、全てがまた開始される。指差したままだったコウもゆっくりと腕を下ろして、独白のように言葉を付け足す。 「俺、自分がヒトに近付かないことで、傷つけないようにしてたけどさ。・・・そうやって守ってるつもりが、傷つけることもあるって、俺は気付かされたんだ」 ――遠ざけられる悲しみは、ヒトの心に傷を落とす。 それが正しいかと、言外に問われ・・・、 「じゃあ、どうしたら・・・いいんだよ?」 今にも崩れ落ちそうなほど弱々しい声で、シルフィラはかぶりを振った。シンパスが、遠のいた分の半歩を詰めつつ口を開く。 「シ・・・」 けれどもそれは、言い切ることができずに途切れる。 「どうしたら、いいんだ? 俺は・・・俺がいたら、みんなを傷つけるのに!」 近付いても離れても、どこかに傷を作ってしまうなんて。そんな報われない行動と結果。 「俺は・・・俺は、実の親すら、この手で殺したんだよ!」 あまりの衝撃に、シンパスは完璧に声を失い、立ち尽くした。さすがのコウも言葉をなくす。黒精霊だけが微笑んだまま、堰が決壊したように続くシルフィラの叫びに耳を澄ます。 「そばにいたら、みんなを傷つけるんだっ! 俺のせいで怒らせて、悲しませて、泣かせて・・・見たくない、見たくないんだ! だから、だから離れるのに・・・それなのにっ!」 俺だってとシルフィラは叫ぶ。心は泣いても、その目に涙はない。その姿が痛々しくて、シンパスは目を逸らして耳を塞いでしまいたくなった。けれどそれはできないと、ぎゅっと歯を食いしばる。 「俺だって・・・逃げないって、決めたんだ! だからシンパスを捜した。この力だって、俺次第だと思ったから、二度目はないと、思ったから! ・・・でも、違った!!! そうじゃなかったよっ!」 俺は傷つけたじゃないかと自分を責めるシルフィラの言葉で思い出すのは、始終瞳に宿っていた怯えの色。彼が己に抱く思いの片鱗に、気付く機会はいくらでもあった。 最後の一押しをしたのは俺か、と目の前が暗くなったシンパスのことなど知らず、シルフィラは溜めに溜めた思いの丈全てを・・・吐き出した。 「俺は、きっと」 ――生まれなければよかったんだ。 寂しい・・・あまりに寂しい、その言葉に。 「・・・そうだな」 コウが同意を示した。 「な・・・っ!」 何をと、二人の間に割り込みそうになるシンパスを、黒精霊が引き止めた。思いがけない力で腕を掴まれ、口を塞がれる。 「静かにしてね、シンパス。・・・ぼく達は見るだけ。ただ見ているだけ」 シルフィラに必要なモノは、全てコウがもってるから。 心配しないでと微笑まれても、無理な相談だ。精一杯抵抗しようとして、シンパスは血流が滞るほどきつく腕を絞められることになった。 彼がくぐもった悲鳴を上げている間にも、シルフィラとコウの会話は続く。 「コウ?」 「俺も、そう思ってた。今でも時々、頭をよぎることがある」 「どうして、なんでコウが・・・」 「・・・わかってるくせに」 にらみつけるコウの視線は、氷の刃より鋭い。 「なんでお前が俺を、俺がお前を、求めたのか・・・」 ――決定的に、二人は似たところがあったから。 「お前にはお前の、俺には俺の、一人でいる理由があった。でも・・・」 それでも、本当にヒトリでなんていたくなかった。 「誰にも関わらず生きるなんて・・・絶対できなかった。触れたかった、触れてほしかった。どんなに意地張ったって、本当は愛されたかった」 親に。友に。大切なダレカに。 「・・・俺達は似てたんだ。だから、放っておけなかった。当たり前のように、手を取り合った」 傷を舐めあうような、思いだったかもしれない。けれど、 「・・・何の決心もつかないままに、別れて。それでも、触れる前と後では、確かに違った」 にらむ目付きをきつくして。コウは、シルフィラにその思いの全てを投げつける。 「甘えるなよ! ・・・お前は、道を、見つけたんだろ? 俺と同じく、決心したんだろ? じゃあ・・・迷うなよ。何があっても、貫いてみせろよっ!」 俺はお前に会ったから、変わったんだ。お前は何も、変わらないのかよ! コウは自分の不甲斐なさを嘆くかのように、強く目を閉じた。まぶたに落ちた雪が、溶けないまま頬を滑り落ちていく。――それはコウの流した、雪の涙だ。 「コウ・・・」 呆然としたようなシルフィラは表情を段々と笑みに変えていき・・・いつしか大声で笑い出した。 「・・・笑うなよっ!」 なんで笑うんだ!怒鳴られようと、その声は収まらない。珍しいその笑い声にまともに驚いたシンパスは、体中から力が抜けた。すると黒精霊もすんなりとその力を抜き、絞めつけられた痕だけが、くっきりと残った。 「なん、か・・・っ! ば、ばかみたい、だ・・・」 気付いてしまった。 シルフィラが求めていたもの――それは、この一言。 何でだよ、と勘違いして怒気を露わにするコウには、きっとわからない。シルフィラがコウに望んだこと・・・それが、頑張れ、の一言だったなんて。突き放すくらいの強さで、甘えるなと叱ってほしかっただなんて。 「俺・・・俺、ホント・・・」 ばかだと、泣き笑いの顔を手で覆う。 コウは怒っていたのに、シルフィラの表情を見てつられるように笑う。それは皮肉げで、寂しげで、やはり少し、泣きそうに見えた。 「・・・コウ」 向こうの世界で、コウ以外の声がする。コウは声の主を遠く見やって、一つ頷いた。 「・・・もう、終わりだ」 限界だ、コウはそう告げる。 凛と空気が張り詰める。その清浄さを感じれば、それは歪んだ体が元に戻ろうとするような、実に普通な動きなのだとわかった。 「泣いてんな、バカ」 いつもみたいにへらへら笑え。コウの微笑みがそう語りかける。 「・・・泣かないよ、バカ」 ようやっと笑顔を向けたシルフィラに、そっかと応える声がわずかに余韻を残して。 ――その姿は、かき消えた。 「・・・シルフィラ」 呼びかける声は、森中に響き渡る。悲しい音色だ。静寂を破ることもない、小さな音だ。 シンパスは思った。――シルフィラが、今にも消えてしまうのではと。コウという少年のように、幻にでもなってしまうのでないかと。 「・・・ねえ」 けれど、シルフィラは少年の残像すら追いかけない。やや震えの残る声でシンパスを呼んだ。 振り向いた彼の、微笑。それは陽だまりのごとく温かで柔らかい。 帰ろっか、と語りかける。そして、手を差し伸べた。 「・・・ああ」 シンパスはその手をぎゅっと握った。 ――暁。 天頂の月は、彼方に沈み・・・一夜の楽園も、夢となる。
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