fate and shade 〜嘘と幻〜

<風>   四章 “旅立つヒト”   8





 どこ行く気だと絶対零度の声で話しかけられて、シルフィラの心臓は跳ね上がった。

「シ・・・シンパス」

 いやちょっと散歩に、なんて通じそうもない。不機嫌を通り越して平坦な声は、怒られるよりも実はよっぽど怖いものだ。

 ・・・二人は帰った。大切な幼馴染の下へと。いつか帰る場所へ。怒られて泣かれて殴られて、おかえりと皆に抱きしめられて、シルフィラはようやっと涙を流した。それが、昼のこと。

「もう、逃げる理由などないはずだな・・・?」

 凄みが恐ろしい。小さな頃から彼には頭が上がらなかったが、やはり今でも同じである。

 吹きすぎる風にその鈍金色の髪を揺らして、夜明けの空を背にするシルフィラは、どうであっても美しい。その色彩は完璧に父親のものだが、人間離れしたような美貌は精霊の母のものだろう。

「逃げる理由は、ないし、逃げない、けど・・・」

「けど・・・?」

「・・・やることが、残ってるんだ」

 シルフィラはどこか憂いを帯びた眼差しで、空を見上げた。月は残り残照を地に注ぐ。太陽はまだ昇らない。それでも明るいのは、遠い地平線の向こうに昇り始めているからだろう。

「・・・ついていっても、いいか?」

 うんと、シルフィラは頷いた。

 

 岩だらけの崖の上から、退廃した世界が見えた気がした。

 ・・・いや、そうではない。それはずっと向こうまで続く岩の海であって、それ以上の何者でもない。ただ、物寂しいだけだ。ほのかな明かりが逆に岩々に影を落としているだけだ。

「シンパス」

 シルフィラが、遠くの眼下を見つめながら呼ぶ。シンパスはその横に並んで彼の視線を追いながら、なんだと返事をする。

「俺、母さんを慕った精霊と一緒にいる。――母さん以外には決して懐かず、従わず、だからこそ今まで俺に付き添ってくれていた、精霊・・・」

 横目にシルフィラを見る、彼の手の平に載せられた、髪留め。昔ギルトが話していた、それは彼が最愛の妻のために贈ったたった一つのモノ・・・今では唯一の、母シルフィの形見。

「絶対忘れはしない、でももう・・・解放してあげたい。俺は、母さんじゃ、ないんだから」

 精霊の母親・・・その気配だけを信じて、その精霊はシルフィラに付き従う。そして、そのためにシルフィラの力は常に増幅されていた。上位精霊の加護を二つも受けて、自分で扱いきれないほどに。――そう、今はシンパスの中にいる黒精霊が、こっそり教えてくれていた。

「・・・おいで、ラヴュスト」

 ごっと風が沸き起こる。思わず目をつぶってたたらを踏んだシンパスの腕をしっかり掴んで、シルフィラは風が収まるのを待った。青い、蒼い、碧い鳥が重そうにその翼をはためかせて中空に静止すれば、後には緩やかな風の流れのみが通り過ぎて、シルフィラはゆっくり手を離した。

 目の前に羽ばたく巨鳥に圧巻される。シンパスは言葉を失って、その丹精込めて織られた布のように美しい羽の一つ一つ、そして夕暮れの空のように紅い瞳を見つめた。

「ラヴュスト・・・」

 愛おしそうに精霊に触れる彼は、紅い瞳を見つめてしばらく無言を貫いた。けれど、やがてその手を離して・・・。

「ありがとう。もう俺は、大丈夫。だから――」

 さよなら。

 遠く彼方へ、髪留めを投げ飛ばした。わずかな光を集めながら、それは輝き飛んでいく。

我が求めしものの姿よ 成してみせよ 風の波

 髪留めは二つに割れ、はるか下に落ちていく。わずかな風を響かせ、精霊は追いかける。そして・・・大気に溶けるように、消えていった。

「・・・バイバイ」

 寂しそうだが、決してうつむきはせず。シルフィラは太陽が昇り始めるのも待たず、向き直った。

「帰ろう、シンパス」

 柔らかな笑みと共に。

 帰ろう、そう返事をして歩き出した二人の背後から、やっと真白い朝日が昇り始める。

 今また、一日が始まる。

 

「シンパス、本当にいいのか?」

「ああ。俺達の行動など、どこで何をしようと筒抜けだろうからな」

 それはそうだと相槌を打つガディス。じゃあ行くかと先導するのもガディスだ。

 何かが変わるかと思ったが、実はそうたいした変化はない。ガディスはいつも通り底抜けに明るいし、シンパスは常と同じく頭脳派を貫いている。変わったものといえば・・・。

「でも、こんな形で別れちゃって。多分全員、怒るよ?」

 シルフィラが、一緒にいることだろうか。

 それは言わない約束だ、苦笑するシンパスに、意地悪するように微笑するシルフィラは何となく楽しそうだ。

「・・・その時は、お前も一緒だからな。他人事ではないぞ?」

 あ、そうだったー、とこちらも苦笑する。

 ――ガディスを迎えに行くと理由をつけて、シンパスとシルフィラは故郷の村から出た。幼馴染達は全員、もう一度戻ってくるものと思っているだろう。けれど、二人は戻らず、旅に出た。ラーデからトラードまでの三人組が、心配事を万事解決して復活である。

「・・・ま、いいよ。俺はもっと、旅したいから」

 引き止められたりしたら、決心が鈍っちゃうし。

 シルフィラの言葉に同意するシンパス。ガディスがお兄さん面して二人の背中をぽんと叩く。

「まあ、そうなった時は俺も一緒に叱られてやるよ!」

 ・・・もう一度、旅へ。

 いつか終わりがくるかもしれなくとも。今は、歩き続けていたいから。

「頼りにしてるよ、ガディス!」

 軽口を返すシルフィラの、輝くような笑顔。――まだ、その旅は続く。大切な仲間とともに。




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