宰相の弟子

グレフィアス歴645年   2





 案内に出てきた侍女の後について、王宮の長い廊下を進む。

 磨かれた石で作られた廊下。頑丈で重厚な作りの扉。等間隔に配置された花瓶には、美しい花が瑞々しく生けられている。素晴らしい廊下を数度曲がって、十分ほど歩いて着いた階段を昇る。昇りきった三階の廊下には暗い赤色の絨毯が引かれ、下の階よりも扉がずっと少なく、二つしかなかった。

 目の前、右側の扉を侍女はノックする。

「よろしいでしょうか。フィリウス・ラウル様をお連れいたしました」

 中から扉が開けられる。侍女にご苦労様と声をかけた青年にフィリウスは覚えがあった。

「ようやく来ましたね。待っていましたよ」

 面接官の中で一番上の立場にいた、あの青年だ。

 腰まである灰がかった茶色の髪は緩く編まれ、目は紫を薄く刷いた青色をしている。柔和そうな顔立ちと物腰は思わず警戒するくらい嘘くさかった。

「お待たせして、大変申し訳ありませんでした」

 硬い声で心にもない謝罪を述べるフィリウスを、青年は部屋の中に招く。部屋には執務用の大きな机、来客用の机を間に二脚のソファ、大きな窓とそこから続くバルコニー。右側の壁に扉が一つ。

 ふわふわのソファに二人は向き合って腰掛ける。

「まずは形式通り、自己紹介からしましょうか。私はユリウス・ルカ・オルフェレアと申します」

「フィリウス・ラウルと申します。オルフェレア様」

 硬い声音を崩すことなく言葉を返したフィリウスに、青年――ユリウスは小さく笑う。

「ユリウスでよろしいですよ。今回雇った他の方々ならばともかく、貴女と私は、この王宮内で一番近しい存在になるはずなのですから」

 遠回しな言葉の選び方に、一瞬沈黙する。

「・・・どういうことでしょうか?」

「どういうことだと思いますか?」

 ユリウスは謎を突きつけて微笑みを絶やさない。フィリウスはやや考えて尋ねる。

「この王宮内での、ユリウス様のお立場とは?」

 ユリウスは手を膝の上で組みなおして、すっと目を細めた。

「私は、この国の宰相です。・・・簡単に言えば、王の右腕ですね」

 フィリウスは完全に絶句した。ユリウスはすらすらと、まるで文面を暗記でもしてきたかのように言葉を続ける。

「フィリウス・ラウル、貴女は私の弟子として雇われたのです。つまりは、次代の宰相、の候補ということです。最初は何もわからないでしょうし、何もできはしないでしょうが、それは大丈夫、私が師となるのですから、もとが良ければ使い物になります。勿論“そもそも使い物になるかどうか”という点では、確かめる期間を設けさせていただきます。三ヶ月、猶予をあげましょう。その間に基礎知識として、この国と周囲の国のこと、それと王宮での礼儀作法について、最低限覚えて、理解していただこうと思います」

 否やは言わせないという空気が、ユリウスから発せられていた。フィリウスはそれに気圧されながらも、体の中から湧き上がるような不快感を感じていた。フィリウスの意思など全く無視して、まるで物を相手にするみたいに勝手に話を進めていく。思わず、口に出た。

「・・・つまりは、お試し期間、ということですか。あれだけ言いたい放題言ったのに採用されるなんて、おかしいとは思っていたんですよね」

 ユリウスは無礼な言葉に顔色一つ変えず頷いて、

「話が早くて助かります。・・・でも、その口調はいただけませんね。怒りを隠せるようにならないと、自分が大変な目に会うだけですよ」

 さらにむかっとしながらも、もう一度言い返すようなことはしなかった。ご忠告ありがとうございますと笑顔を綺麗に作ってみせて、二人の初対面は、最悪な状態のまま終わった。

 フィリウスの仮部屋はユリウスの部屋の真下に用意してあった。そこまで案内されて、王宮の中のこと、明日からのことについて軽く説明された。

 用意されていた、庶民は間違っても着たことのないようなすべすべした肌触りの夜着に着替えて、体が沈むくらいふわふわなベッドに腰掛けて、ユリウスの部屋よりは小さいが慣れない広さの部屋を見るともなしに見回す。大変なことになったとため息をつく。

 これから三ヶ月かけて、考えなければいけないこと。

(あの人の弟子になるか。それとも、ここを去るか)

 宰相という役職がどのようなものかは、詳しくは全くわからない。けれど、自分が王の右腕になれるような人間でないことくらいは、容易に予想がついた。それでもどうにも引き下がれそうにない、そんな思いがむくむくと頭をもたげ始めていた。

「私は・・・」

 フィリウスの心中などお構いなしに、夜は更けていく。

 

 ――夏の気配が、室内にも届く。

 長袖をまくって、だいぶ伸びた髪を一つにくくって、薄暗い蔵書室の中で、フィリウスは勉学に励んでいた。

 もう数日で、フィリウスがここに来てから三ヶ月となる。その間ユリウスには数度廊下で会ったが、挨拶と会釈を交わす程度だ。他に会うのは先生である女官長と文官長、数人の侍女、通い慣れた蔵書室の司書のみで、その彼らとも世間話の域を出ない。習うだけでは絶対追いつかないと蔵書室で自ら勉強を進めながら、フィリウスは何度も考えている。

“残るか、去るか”

 ・・・何度考えても同じ選択肢を選んでしまう。というより、それしか選べない。

 フィリウスは、ここに残ろうと思う。

 今フィリウスがしたくないことの第一は、後ろを振り返ることだ。人生が何十年続いて未来がどうなるかなんてわからないけれど、その間ずっと、出来れば歩き続けたい。もし今過去を振り返ったら二度と動き出せないと、そう感じている。

 しかも困ったことに、フィリウスは今の状態が苦痛でない。何も知らないことくらいわかっているから、勉強することは楽しい。洗練された動きなんてない田舎者だったから、礼儀作法を習うのだって、面倒な点はあっても嫌ではない。それに、初対面が最悪だったユリウスの態度にも、今では好感すらもててしまっている。

(ちゃんと考えれば、あの人と私の立場は全く違う次元だし。上辺だけ綺麗な言葉や態度をとらないだけ、わかりやすいし誠実な人だよね)

 勉強してわかったことだが、オルフェレア家はこの国の二大貴族の一つだった。上級貴族の出で、宰相・・・この国を実質まとめる役職につく青年。不思議なのは、何故その彼がフィリウスを選んだのかだ。

 それだけは聞いてみないとな、とフィリウスは頭の隅でそう思う。

「・・・暑い、な」

 一度大きく伸びをして立ち上がり、三つ並ぶ小さな窓の一つを開け放つ。生暖かい風が入るその窓から、遠く影となる山を見て、心の底が少し動いた。が、フィリウスはそれを知らぬふりして席に戻った。

 

 朝早くに起きて、簡単な軽食をもらって、それから部屋で待っていた。一時間ほど経った時、侍女が呼びに来た。

「フィリウス様、ユリウス様がお呼びです」

 来た、と背筋を伸ばす。笑顔で答える。

「はい、わかりました」

 これから、フィリウスは試される。

 

 与えられた三ヶ月は、意外と簡単に過ぎていった。フィリウスは間違っても天才ではないので、その間必死で勉強した。その努力を認めてもらう気はない。ユリウスが求めるのは、過程でなく結果だ。考えなくてもそのくらいわかる。

 扉をノックし、返事を待つ。どうぞの言葉で扉を開け、失礼しますと軽く一礼。扉を閉めてもう一度、深く礼。ゆっくり顔を前に戻す。

「お久しぶりです。しっかり勉強してきましたか?」

 ユリウスは相変わらず嘘くさい笑顔を浮かべている。けれど今は、フィリウスも同様に嘘の微笑を顔に貼り付けていた。

「はい、ユリウス様。この三ヶ月間、私の力の及ぶ限り勉学に励んで参りました」

 この三ヶ月フィリウスに礼儀作法を教えた女官長は、角の立たない会話法を懇々と説いた。

 ――自分というものを、必要以上に大きくも小さくも見せてはいけない。本音をもらしてはいけない。そして、全ての会話は笑顔でする。

 王宮の礼儀だと割り切りさえすればその程度のことは出来る。フィリウスは基本的に自分の気持ちに真っ正直で、怒りの沸点も高くはないが、割り切ればたいていのことはやれる性格だった。

(初対面の時はいきなりだったから、ついつい言い返しちゃったけど・・・。大丈夫、今私は、状況をわかってる)

 試されているとわかっていてわざわざ愚かな真似はしない。

「勉強はどうですか、楽しいですか?」

 ええとってもと答える。楽しいのは本当だ。両者微笑み続ける。

 ――不必要な嘘はつかない。言葉を飾り過ぎない。

「それはよかった。貴女は優秀ですね。今度、ライディア様に勉強を楽しむ方法を教えてやってください」

 ――お世辞はやんわり受け取る。

「恐れ多いことです。もし私のような者にその機会を与えていただけるならば、勿論喜んでやらせていただきます」

 ――また、王家に関わる話題ではへりくだる。ライディアはこの国の第二王子であり、王家についての作法は他の何より早く教わっていた。

 女官長は決してフィリウスの思っているような直接的な表現はしなかったのだが、遠回しな言葉を要約すればつまりはそうなる。ようは理解して実践できることが大切なのだ。・・・この扉を開けた瞬間から、試験はもう始まっている。

 ユリウスは世間話でもするように会話をすらすらと進めていく。

「そう、ライディア様といえば・・・。貴女は、リアリス様のお顔を拝見したことはありますか?」

 リアリスはライディアの兄、第一王位継承者、と頭の中に思い浮かべながら、いいえ残念ながらと首を振る。しっかり勉強してきたかどうか、着々と調べられているようだ。ユリウスは続ける。

「お二人とも、よく似ていらっしゃる。特にリアリス様は王に似ていますね」

「そうなのですか。きっととても凛々しくて、国民の憧れの的となるような御方なのでしょうね。ライディア殿下はいかがなのでしょう? 噂では、女神のようと称される、サイフィリア王妃様によく似ていらっしゃるとか」

「ええ。ですが、ライディア様は十歳。将来どのような方になられるかなど、まだまだ想像もつきません」

「ええ、確かに」

 ユリウスの試験は少し変わっていた。会話の中に話題を見つけて質問として返す、を繰り返すのだ。回答を紙に書いていくペーパー方式や一対一の単純な受け答えだけの教科書方式を好む者にとっては、嫌がらせに近い試験だろう。六歳から十歳になる前までしか学校に行っていなかった、つまり読み書きと初歩の計算と簡単な歴史程度しか習っていないフィリウスにとっては、順序立ててくれるのは逆にやりやすいものだった。

 一時間近く、そうして腹の探りあいのような会話を続けていただろうか。ユリウスが膝の上で手を組みなおし、すっと目を細める。

「フィリウス・ラウル。これが最後の質問です。・・・貴女自身の言葉でお答えなさい」

 始終浮かべていた微笑をさっと消し、底冷えするような目でフィリウスを見抜いてユリウスはそう前置きする。その目の強さに威圧されながら、フィリウスも微笑みを消す。

 緊張が・・・いやもしくは警戒心が募る。フィリウスはぴんと背筋を伸ばし体を硬くして、ユリウスの言葉を聞いた。

「宰相とは、生半可な仕事ではありません。面接での貴女を見てそれでもなお採用したのは、私の独断と、勘です。将来貴女は、素晴らしい宰相となるかもしれない。しかし、あの面接で言った通り、本当に金のみが欲しいのならば、今更ですが、貴女をこのまま私の弟子とするわけにはいかないのです。・・・答えてください、フィリウス・ラウル。私の弟子になる、その覚悟(、、)はありますか?」

 フィリウスは言葉につまった。“はい”と言おうとしたけれど、言えなかった。しかし、“いいえ”ということも、出来なかった。

 フィリウスの正直な気持ちは、そのどちらでもない。いや、どちらも言うことが出来ない。フィリウスの中にあるのは、覚悟ではない。ただ、いつか萎えてしまうかもしれないような、そんな不確実な気持ちが一つだけ。

「・・・覚悟は、ありません」

 正面切って言うしかないと、フィリウスは腰を据えた。

「お金は、本当に欲しいです。なくて困ったことが何度もあります。でも今こうして試験を受けている理由は、ただ、私が逃げたくないから・・・なんです」

 いつか、後悔するかもしれない。覚悟なんて出来ないと、叫びたくなるかもしれない。それでも今は突き進んでいくことしか考えられない、と告げる。それがどれだけ身勝手な理由かなんて、自分が一番わかっている。実際、言葉にしながら自己嫌悪に顔をしかめたほどだ。

 ユリウスはそれを聞いてから、長く黙っていた。そんな彼から目を離して窓から外を見ると、日はもう高く登っている。昼だ。自分は昼を抜くのは慣れているが、目の前の青年は大丈夫だろうかと、らちの明かないことを思う。

「・・・フィリウス・ラウル?」

 ぼーっとしてる間にユリウスの熟考は終わったらしい。顔を戻せば、ユリウスはその美しい色の瞳でフィリウスを見ていた。

「疲れましたか?」

 いいえと首を振りかけたが思い直し、少しと言っておいた。

「ユリウス様は?」

 問い返せば、彼はフィリウスの真似をするように少しと笑った。そして、

「フィリウス・ラウル。貴女を正式に、私の弟子にしたいと思います」

 唐突にそう言った。あまりにあっさりはっきりしていたから、フィリウスは聞き違えたかと耳を疑ってしまった。

「・・・? どうかしましたか?」

 わざとか、この唐突さはわざとなのか? フィリウスはユリウスの会話の仕方にまだ慣れず、一度主導権を握られるとなかなか切り返せない。

「か、確認させてください。・・・それは、試験に合格したと、いうことですか?」

 そうですよとあまりにあっけなく言うから、もう一度言葉が見つからない状態になった。そんなフィリウスを置いて、ユリウスは言葉を次々続けていく。

「よく思えば、私達名前も似ていますよね。親しい者は私をユリと呼びますから、貴女はフィリと呼ばれるところでしょうか。少しでも早く意思疎通が出来るよう、今後はフィリと呼ばせていただきますね。私のことは、師匠か先生とでも呼んでいただけると」

 嬉しいですね、と。そこまで言われて、フィリウスはようやく口を挟んだ。ばんと机を叩いて立ち上がる。

「あの、ユリウス様!」

「師匠、もしくは先生と」

「その話はまた後で!」

 悲しげにユリウスは視線を下げた。フィリウスは一度深呼吸をして自分を落ち着けてから、

「自分で言うのもなんですが・・・本当にいいのですか、私で」

 真剣な表情で問う。ユリウスは困ったようにちょっとため息をついて、

「・・・何度も確認しなくても、大丈夫ですよ。私は貴女()いいのです」

 他の誰でもなくフィリウスをと、はっきり求めた。

 ――ようやく、フィリの中に熱い感情が湧いてくる。ユリウスに認められて嬉しいのは、どうやっても隠しようもなかった。

「フィリ」

 花がほころぶように笑顔になるフィリウスに、ユリウスは立ち上がって右手を差し出す。その手をしっかりと握り返して、尋ねる。

「ユリウス様は、師匠と先生、どちらで呼ばれたいのですか?」

「そうですね・・・。人生の師匠、仕事の先生、という感じで、呼んでいただきたいところです」

 ではそのようにと頷いて、フィリウスは改めて居住まいを正した。

「これから、お世話をおかけいたします。よろしくお願いいたします。・・・師匠兼先生」

 こちらこそ、フィリ、と。ユリウスは弟子の名前を呼んで、笑顔を咲かせた。




前へ   目次へ   次へ