グレフィアス歴645年 3
夏の一番暑い頃が、もうすぐ過ぎる。ようやく夏が終わる。フィリウスが宰相ユリウスの弟子となって一ヶ月、この期間は容易ではなかった。 「私の弟子の、フィリウス・ラウルです」 ユリウスは試験が終わったその日の内に、真っ先に知らせるべき数人の下にフィリウスを直に紹介しに行った。 女官長マーラ・シリウはフィリウスに礼儀作法を教えた先生でもあるので、軽く挨拶をするだけで済んだ。後でフィリウス付の侍女をつけましょう、と頭の切り替えも早かった。 同じく勉強を教えた文官長ヒスーフェン・ベル・ロクアは、これからもよろしくと頭を下げたフィリウスを神経質そうに睨みつけ、精進なさいと一言声をかけた。 料理長ロウタ・エンは鷹揚に笑ってフィリウスの肩を叩き、美味い飯食って頑張れと好意的に笑った。 彼ら三人は、王宮採用試験の時の面接官だった。城の雑用を一手に引き受ける侍女、財政や外交などの仕事に長けた文官、城で過ごす全ての者を支えるまかない処の料理人。各部門の最高責任者である。そして最後に、民つまりは国を守る騎士団、その団長オルグ・ハイレンに会った。彼が一番、難物だ。 フィリウスを紹介された時の第一声が、まずひどかった。 「ユリ、血迷ったかっ!!!」 オルグはフィリウスのことをしっかり覚えていたらしい。何故よりによってこの小娘をと、言葉に出さずとも顔が語っていた。 一方、どうしようかと困った顔のユリウスの隣で、フィリウスは微笑みを貼り付けた表情のまま、オルグではない誰かを見つめていた。 ・・・印象的なのは、その色。見上げるとあるそれと同じ、夏の青を映す瞳。 フィリウスがユリウスの弟子となる、そもそものきっかけを与えた騎士、グラン。彼は、鍛錬場の一番奥、怒り狂うオルグと剣を打ち合わせる騎士達の背後でフィリウスを見ていた。グランがにやりと笑うのを見て、フィリウスはいてもたってもいられなくなる。失礼しますと、ユリウスに食ってかかるオルグの横を通り抜け、少女の突然の乱入に驚いて動きを止める騎士達の間を抜け、グランの前に立つ。 「・・・お久しぶりです」 この三ヶ月習ってきた通りに、綺麗に礼をする。グランはああと返事をし、 「お前、危ないから、鍛錬場突っ切ったりするなよ」 呆れたように苦笑する。ごめんなさいともう一度頭を下げ、それから、頭一つ分は高いところにあるグランの目を見る。 「お礼を、申し上げます。・・・貴方のお言葉がありませんでしたら、私はこのような機会に恵まれることはなかったでしょう」 短いが、誠実な気持ちで感謝の言葉を。グランは笑ってそれを受ける。フィリウスは唖然とこちらを見つめるオルグまで届くように大きな声で、 「騎士様方、鍛錬中お邪魔をいたしまして、まことに申し訳ありません。私はフィリウス・ラウルと申します。ユリウス様のお下で働かせていただけることとなり、今日はその挨拶に参りました。未熟者ですが、今後よろしくお願いいたします」 フィリウスはとても鮮やかに笑う。 騎士達は呆然とし、オルグは顔を真っ赤にして口をぱくぱくさせる。ユリウスは苦笑を浮かべていて、肩越しにちらりと振り返って確かめたグランは小さく拍手を送っていた。 「・・・フィリ、挨拶は済みましたね? お時間をとらせても悪いですし、もう戻りますよ」 事態を収拾するのは諦めて、ユリウスはフィリウスを呼んだ。それにはいと返事をして、また鍛錬場を横切る。オルグの横を過ぎて、ユリウスの隣に並ぶ。深く一礼する。そして、その場を去る前に、オルグに向かって微笑む。 「ハイレン様。お気がすむまでいくらでも、私を非難なさってください。それでも私はもう、ユリウス様の弟子です。精一杯、努めさせていただきます」 大勢に対する言葉は、フィリウスのささやかな抵抗だ。これだけきっぱり言ってしまえば、オルグだってフィリウスの弟子入りに激しく反対はできない。後はフィリウスが宣言通り頑張ればいい。 肩を震わせて怒るオルグを背後にしてから、ユリウスは弟子の頭をぺしっとはたく。 「わざわざ挑発してどうするのですか? 全く、喧嘩っ早い子ですね、貴女は」 そうですよ先生、知っていたでしょう? そう返して、フィリウスはほくそ笑んだ。 ――そんな感じで、フィリウスは宰相の弟子と認知されていった。 フィリウスは勉強を続けている。ユリウスの仕事を見学し、書類を運んだり受け取ってきたりとおつかいのようなことをしながら。ユリウスの横でその仕事を補佐できるようになるには、まだまだ勉強不足だった。 暑さに顔をしかめながら蔵書室へと歩いていたフィリウスは、廊下の角から突然目の前に現れた少年に驚き立ち止まる。十歳くらいの子どもで、少し薄い金色の髪、紅茶のような赤茶色の大きい目をしている。庶民よりはよほど高級なフィリウス達王宮勤めの者よりもさらに高そうな服を着て、びっくりした様子でフィリウスを見上げている。 「ご、ごめんなさい。今、追いかけっこをしてたから・・・」 大丈夫ですよと微笑みながら、少年の走ってきた方向を見やる。誰かが追ってくる足音が聞こえて、次いで遠くの角を誰かが曲がってくる。 「あっ!」 少年はその影を見て逃げようとした。しかしフィリウスの横を過ぎて五メートルくらいでこける。慌てて駆け寄ったフィリウスの背後で駆け足の主は追いつき立ち止まると、 「もう終わりか、アレク!」 少年を助け起こし振り返る。こちらもまた同じ年くらいの少年で、アレクと呼ばれた少年よりも華やかな金の髪、透き通った琥珀のような目をしている。走ってきたからだろう、紅潮した頬が少年の白い肌を彩っている。 いきなり現れた二人の少年を前に、フィリウスは脳内の人物情報を検索する。 (王宮内に似つかわしくない十歳ほどの子ども。二人とも金の髪、目は茶系。片方の名前もしくは愛称がアレク。金の髪は“神の愛し子”) 愛し子の代表は王家、と凄まじい速さで考えて、ほぼ百パーセントの可能性で当てはまる人物を発見すると同時にフィリウスは深く頭を下げた。 「ご機嫌麗しゅう、ライディア様」 今初めてという感じでフィリウスに目を向けた少年は、誰だ? と首を傾げた。間違っていなかったことにほっとしながら、フィリウスはゆっくりと頭を上げる。 「名乗りもせず、失礼いたしました。フィリウス・ラウルと申します」 そしてもう一度、深く頭を下げる。 ――ライディア・ミル・グレフィアス。この国の第二王子である。そしてもう一人の少年は、アレクリット・ビリジーア。先の面接の際に第二王子の側仕えとして採用された少年で、フィリウスの同期に当たる。弟子になると決まった初めの頃に人物情報を把握していて本当に良かった、とフィリウスは安堵する。 「侍女か? いや、服が違うな。・・・ここで何をしているのだ、お前」 尊大な物言いでフィリウスを眺めるライディアは、だいぶ生意気に見える。しかし、王家の者に、しかも子どもにかちんとくるほど、フィリウスは馬鹿ではない。 「私は宰相様の下で勉強させていただいている者です。今は蔵書室に向かう途中でした」 弟子とはいっても公表したわけではないので、フィリウスは、王宮の風の噂に上る程度の有名人でしかない。王子であるライディアが知らないのも当然だ。 「・・・信じられないな。怪しい、証拠を出せ」 そして、怪しいとライディアが疑うのもしょうがない。ユリウスは今まで補佐を使ったことすらなく、ライディアの目に映るフィリウス自身、ユリウスの下で働くような特別な者には見えなかったからだ。 思いっきり警戒心を露わにして、アレクリットの手を掴んで距離をとるライディアに、フィリウスは苦笑した。 「信じられないと、言われましても・・・」 フィリウスの立場を証明するようなものなど、この場には何一つない。どうしようかと思い、結局一番簡単な方法を選んだ。 「・・・では、ライディア様、ビリジーア様、どうぞいてきていただけますか? 直接お尋ねいただければ、解決するでしょう。ご足労おかけして、まことに申し訳ありません」 来た道を、今度は少年二人連れて戻る。途中すれ違った侍女が慌てて低頭するのを見て、迷惑かけてごめんなさいと心の中で謝っておく。 さてユリウスの執務室に着いて、問題はすぐ落着した。ライディアは微妙に納得しきれないようで、なんでこんな女を、という目でフィリウスを下から睨む。そんなのはきっぱり無視して、ユリウスとフィリウスはライディアの前に並ぶ。 「何か、私の弟子と証明できるものを用意しておくべきでしたね。申し訳ありません、ライディア様」 「私も全く気が回らずに、申し訳ありませんでした」 そろって頭を下げる。ライディアは不機嫌そうに二人を見てから、アレクリットを伴いさっさと執務室から出ていった。苦笑を浮かべて顔を見合わせた宰相とその弟子は、 「もう少ししたら王子達にも紹介しようと思っていたのですが・・・先に会ってしまいましたね」 「お手数をおかけしました。・・・でも、ライディア様のお言葉ももっともですね」 「ええ。早急、何か用意しましょう」 「お願いいたします」 頭の切り替えが早く柔軟な二人は、見る者が見たら、似た者同士である。 それから二週間ほど経った頃、もう夏の暑さは終わり秋がゆるゆると近付いてくる。そんな折、蔵書室へといつもの道を通っていたら、しゃがみこんで泣く少年を発見した。 「・・・ビリジーア様?」 彼は壁に向かって泣いていて、かつんと音をさせながら後ろに立っても気付かないようだった。フィリウスは膝に手をやる形でやや前屈みになり、どうしたのですかと訊く。 「っ! あ、う、お姉、さん・・・」 顔を上げたアレクリットは涙の流れる頬をぬぐいつつ、フィリウスを見てうろたえた。 「どうしたの、ですか? 何故泣いているのです?」 そう尋ねながら周囲を見回す。ライディアはおろか、侍女の姿も、他の誰かのいる気配すらない。なので、他人行儀な敬語を取っ払った。 「大丈夫? 何かあったの?」 「う・・・」 できるだけ優しい声音で目線を合わせるために屈んだフィリウスに、アレクリットはすがりつく。それを抱きとめ、フィリウスは一瞬固まった。たった一度会った程度のフィリウスに抱きついてくるなんて、よほどのことがあったに違いない。 「アレクリット、君。本当にどうしたの、どこか痛い? 言ってごらん」 フィリウスはアレクリットを支えてそのまま抱き上げ、近距離で顔をのぞきこむ。さすがに十歳の子どもとなると重いが、持ち上げられないほどではない。そのまま歩いて蔵書室へ向かう。誰もいない落ち着いた場所としては適任だ。 「ぼ、僕、ディア様に・・・」 向かう途中もしゃくりあげながら頑張って説明しようとするアレクリットの背をなでながら、うんと相槌を打つ。 「ディア様に、見てもらいたかった、の。でも、みんなに、怒ら、れて・・・」 「見てもらう? 何を?」 たどり着いた蔵書室の扉を足でノックすると、中から顔見知りの青年が顔を出す。胸辺りまで伸びた小麦色の髪を右肩の上でくくり前に流していて、切れ長な薄青の瞳が一見ひとを寄せ付けにくく見える。ロハ・ティア・マグドレオ、蔵書室の司書だ。 「マグドレオ様、何も訊かずに、入れてください」 青年は心得たもので、子どもを抱きかかえたフィリウスの姿には驚いたものの、何も言わず二人を中に入れ、内側から扉に閂をかけて施錠した。 「ありがとうございます」 ロハは返事の代わりに微笑んで、フィリウスがいつも勉強している机にポットから淹れた紅茶を二つ用意し、少し離れたところにある彼の専用席に座る。それを見てから、フィリウスはアレクリットを下ろした。 「座って。お茶でも飲んで、少し落ち着いて」 アレクリットはフィリウスと対面する形で椅子に腰掛け、紅茶を一口含む。フィリウスもカップに手をかける。花の香りがして、飲むと心が落ち着く。おいしいと声を漏らしたアレクリットは、もう泣き止んでいた。 「・・・アレクリット君。話せる?」 アレクリットはこくんと頷くと、話し出す。 ――その話を要約すると、どうもアレクリットは、ライディアを王宮から連れ出そうとしたらしい。しかも理由が、お花が綺麗に咲いていたから。 フィリウスは呆れて、隠すことなく苦笑した。 「アレクリット君、それは怒られて当然よ」 また涙がにじみ始めるアレクリットを見ても、フィリウスは言葉を続ける。 「ライディア様は、この国の王子よ。もし街に出て何かあったりしたら、大変でしょう。貴方には守ることなんてできないでしょう? 王宮の中にいるから、安全なのよ。皆が大切に守ってくれているから」 グレフィアス国は現在一夫一妻制である。そのために、世継ぎ争いなどは起こらない。ライディアは第二王子であるため王位継承権は今のところないが、もし彼の兄が不慮の事故で亡くなったりしたら次代の王となるであろう、大切な身だ。アレクリットの行動は、子どもながらに軽率である。 「で、でも・・・ディア様は、いつも王宮の中で、退屈だって。つまらないって」 「その退屈さを紛らわすために貴方はライディア様の側仕えに選ばれたのでしょう。御身を危険にさらすことなく、それでいてライディア様を喜ばせられるようにならないと」 アレクリットを叱った大人達は、ここで言葉を止めるだろう。そしてこんなにいい子を泣かせたのだ。 (私は違う。ライディア様はとても大切な方で、皆が叱るのもわかるけど、この子にはこの子の思いがあるもの) 否定だけでは何も生まれない。身をもってそれを知っているフィリウスは、飴と鞭を上手に使い分けることの意義を知っている。目を潤ませるアレクリットに、でもと微笑みかける。 「その心根は、とても立派なものよ。綺麗なお花、見てもらいたいものね」 アレクリットは結局泣いてしまい、泣きながら何度も頷いた。立ち上がってその背中をさすってあげながら、フィリウスはアレクリットを本棚の前に誘導する。 「そうと決まったら、貴方が見たお花のこと調べなくちゃね」 分厚い花図鑑を取り出して、夏から秋のところをぱらぱらめくり見せていく。ほどなく、花が特定された。サイラ、という名の淡いピンクの五弁の花だった。秋の初め頃に一週間ほど咲く、季節の変わり目を告げる花だ。 「・・・これは!」 そこに、他国での別名も書いてある。その名を見て、これならばもし咎められた時にも言い訳できそうだと思い、フィリウスはにやりと笑った。 「お、お姉さん?」 その笑顔に何か不穏なものでも感じ取ったか、アレクリットがどこか不安そうに声を上げる。その頭をなでながら、 「アレクリット君。今日のところはライディア様のところに戻った方がいいわ。きっと貴方がいなくて退屈して、怒っているから。明日の・・・そうね、明日の一時、もう一度ここに、一人で来て」 大丈夫、私が全部解決してあげる。そう自信たっぷりに笑えば、アレクリットは目を見開いて、それから、 「あ、ありがとうございます。でも・・・お姉さん、何するんですか? 僕、何もしなくていいんですか?」 と、不安そうだ。フィリウスはやや大げさに顔をしかめてみせ、 「アレクリット君、私はそんなに信用ならない? 子どもは素直に大人に甘えなさい。大丈夫、私に考えがあるの。簡単だけど、きっと喜ばれる方法が」 アレクリットは慌てて首を横に振って、それでもなお不安そうにフィリウスを見上げた後、ありがとうと言って蔵書室を出て行った。 「・・・フィリウスさん」 それを無言で見送ったロハは、フィリウスと二人きりになってようやく口を開く。 「何をするつもりなのですか?」 窓から外を見ていたフィリウスは、その言葉に微笑し振り返る。 「すごく、簡単なことですよ。でもその分、手間がかかります」 手伝いましょうかとロハが言い、もしお暇ならばお願いしますと返事をする。それに頷いたロハは、フィリウスの作戦・・・本当に簡単なそれを聞き、笑った。 「それは・・・明日が晴れでないと、困りますね」 「全くです。お天道様にお願いでもしておきましょう」 見上げた空には風もなく、快晴だ。明日もきっと晴れるだろう。 ・・・アレクリットは緊張していた。本当にこんなことでいいのだろうか、と。 手には籠、その背後にも、二十個近い籠。フィリウスが用意したのはこれだけだ。 “ライディア様の頭の上に、できるだけ高いところからかけてごらんなさい。誰かに文句を言われても怯まずに、これを見せたかったんだと言ってね。それで、この花のことを調べてみると面白いよって、そう進言してごらんなさい” そう言っていた通りにするために、アレクリットは今三階のバルコニーにいた。このすぐ下で、ライディアはいつも三時のお茶をする。勉強中のライディアからそっと離れて、ここに待機している。眼下ではもうお茶の準備が整っている。後は、ライディアが来るだけだ。 そこにようやく、輝かんばかりの金の髪をした少年が姿を現す。彼が席に座って紅茶を一口飲んだところで、アレクリットは籠の中身をライディアの上へと降らせた。 ――ふわふわと、まるで大粒の雪のように落ちていく。それを見ながら、アレクリットは二つ目の籠を空ける。一つ目の籠の中身が下までたどり着いて、ライディアと彼の横に従う数人の侍女、護衛の騎士が、ん? という感じに頭を上げる。 「・・・アレク?!」 三つ目の籠を持ち、その中身を撒いた瞬間だ。大声で呼ばれたアレクリットは慌てた様子で室内に戻り、また籠を持ち替えてから、バルコニーからぐっと体を乗り出して、 「ディア様! 僕、この花を、見せたかったんです! どうですか? 綺麗ですか?」 またふわりと撒く。侍女が慌てた様子でやめなさい! と怒鳴り、それを厳しい声で止めて、ライディアは空から降る花に見入った。 「これは・・・サイラ。サイラだ」 何度か見たことのある花で、名前も知っている。綺麗だと思ったことは何度かあるが、こんな見方は初めてだった。自然浮かぶ満面の笑みで、ゆらりと落ちる花がまるで雪のように積もる様を見る。ゆっくり視線を上に移していけば、また籠をひっくり返すアレクリットの姿。どれだけの花を集めたのだろう、ただライディアに見せるためだけに。 何故か、目頭が熱くなる。見上げていたらアレクリットと目が合う。一歳年上のライディアを兄のように慕って笑いかける、その存在を、ライディアは今とても愛しく感じた。 「アレク!」 思わず叫ぶ。アレクリットははいと答え、籠を持った腕を下げる。 「・・・ありがとう」 素直に礼を言うライディアなど、なかなか見られるものではない。アレクリットは喜んでもらえたことをただ嬉しがったが、周囲にいた者達はその笑顔に硬直するばかりだった。 しばらく後サイラの花は全て撒かれて、アレクリットは三階から降りてきた。ライディアは花の絨毯を踏むまいと手でのけて道を作りつつ進んでくるアレクリットに、近寄ってくるのが待ちきれず話しかけた。 「アレク! サイラのこと、知っていたのか?」 ライディアにとって、この花には特別な意味がある。けれどアレクにそうした意図はないようだ。どういうことだと首を傾げる。 「このお花は見たことがありました。でも、名前を知ったのは昨日です」 そして、そういえば、とアレクリットは呟く。 「図鑑を見た時、何であんな風に笑ったんだろう・・・?」 何かぴんとくるものがあった。ライディアは途端不機嫌そうにアレクリットに詰め寄る。 「・・・お前、昨日誰と会った?」 よく考えれば、ここら一面が埋まるほどの花を集めることなど、アレクリット一人でできるはずがない。花を降らせるなんて幻想的な考えも、アレクリットには思いつかないだろう。せいぜい、枝を折って見せるくらいが関の山だ。 「えっ?! それは、えっと、あの・・・」 口止めされているのか狼狽して目を逸らすアレクリットに、ライディアは命令する。 「アレク。・・・言え」 ひとの上に立つ者の言葉に、アレクリットが逆らいきれるはずがない。 「あ、あの・・・さ、宰相様のお弟子の、フィリウス様、です・・・」 思いがけない人物の名に、ライディアは目を見開いた。 いつも通り蔵書室で勉強していたフィリウスは、突然開け放たれた扉に目を向ける。そこには、こんな薄暗い場所には似つかわしくないことだが、ライディアがいた。アレクリットはいない。一人のようだ。 「これは、ライディア様。このようなところに、何か御用が?」 応対したのはロハだが、彼をぞんざいに追い払いライディアはフィリウスを睨む。 「いたな」 何かしらと思い、すぐに、あれかと思い至る。 「ご機嫌麗しゅう、ライディア様。私に何か、お話でも?」 ・・・アレクリットは隠し切れなかったらしい。折角彼一人の手柄にしてあげたのに、と内心苦笑する。 「・・・お前、あれは何のつもりだ。媚びでも売ったつもりなのか? よりにもよって、サイラなど」 その言葉に呆れる。なんて子どもらしくない王子だと、思わずため息をつきながら、 「ライディア様。あれは、ビリジーア様のお願いを叶えただけの行為です。他意はありません。・・・綺麗でしたでしょう?」 憮然とした表情ながらも、ライディアは頷く。しかしまだ疑う目で、質問を重ねる。 「なんで、アレクはお前に相談したんだ」 「たまたま通りかかったのです。泣いている子どもをまさか、放っておくわけにはいかないでしょう」 「・・・泣いていたのか?」 ええと、首を縦に振る。 「貴方にあの花を見せるため街に連れ出そうとして、その行動を大人達に怒られて、あの子は泣いていました」 庇ったり慰めたりしてあげなかったのですか? そう続ければ、ライディアはうろたえる。 「それは、だって、結局街には出られなかったから・・・」 「・・・つまりは、ビリジーア様の行動が失敗したから、失望したわけですね」 違うと怒鳴ろうとして、口をつぐむ。図星、だったからだ。そんなライディアを責めるでもなく、フィリウスはまたため息を吐き、独白のように続ける。 「きっとビリジーア様、今も泣いていらっしゃいますね。勝手なことをして、庭を汚して、ライディア様は余韻に浸ることもなく一人でこのような場所にいらっしゃって」 ライディアは目を逸らす。フィリウスは逆にその顔を見つめる。 「私は知っていますけれど。あの花のことを、ビリジーア様は知らないでしょう。その理由さえ説明すれば、あの行為を正当化することだってできるのに。おかわいそうに」 遠回しだが直接的に、フィリウスはライディアを責める。ライディアはその不遜さに怒りをぶつけようとしたが、にっこりと笑いかけられて言葉を飲み込む。どこか、何か、見たことのあるような顔・・・。 「・・・分不相応だとわかってはおりますが、あえて申し上げます。仮にもこの国の王子である方が、自らの側仕えを守ることさえできずにどうするのですか。ビリジーア様は子どもらしい無邪気な方、ただ貴方を慕うがために、色々となされては怒られているのだと言うのに。私を疑ったということは、あの花については知っているのでしょう? ならば、私にいらぬ詮索をする前に、なすべきことをしてくださいませ。それに、もし私が媚びを売るようなことがあるとすれば、それは貴方に対してではなく、第一王位継承者であるリアリス様に対してでしょう。自らを過大評価なさらぬように」 怒りよりも先に呆気にとられる。一国の王子に説教を垂れる人間など滅多にいない。フィリウスの豪胆さが誰かに重なるような気がして考え、たいして考え込まずとも思いついたその人物の笑顔に、ライディアは顔を引きつらせた。 (そうだ、こいつは・・・あれの弟子だ) この国の、宰相の、弟子。 最初聞いた時は何の冗談かと思い、今の今まで何故ユリウスがこの少女を選んだのか、ライディアはずっと疑問だったのだが・・・。 今ならわかると、思った。 (こんなにあいつと似ている人間、そういない・・・) 怒る時の微笑みが、本当にそっくりだ。 ライディアはそのままフィリウスにやりこまれ、駆け足でアレクリットの下へ戻らされ、宰相の弟子が予言したように泣きじゃくっているアレクリットを庇って説明した。 ――サイラの花の別名は、サイフィリア。それはアドレア国での呼び名であり、サイフィリアとはこの国の王妃の・・・アドレア国から嫁入りした、リアリスとライディアの母の名。そのことを知ったアレクリットが、あまり会えない母を恋しいと思う自分を慰めるためにこんなことをしたのだと、ライディアは嘘をついた。フィリウスが示唆したように。 その日以来、ライディアはフィリウスが苦手になり、会うと用心するようになった。
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