グレフィアス歴646年 10
「・・・またですか。いいかげんになさい」 「申し訳・・・ありません」 顔を顰めるユリウスと、唇を噛んでうつむくフィリウス。 ここ最近よく見かけるようになった、珍しい光景。 ようやく風が涼しくなってきた頃のこと。 ――フィリウスはラドアリア家の養子となり、フィリウス・ラドアリアとなった。 ――レイはリアリスの妃となり、レイ・サイア・グレフィアスとなった。 二人の少女の近辺が姓に伴って共に変化していってから、約一ヵ月。今までの忙しさが祟ったか、フィリウスは急に集中力を欠いて、些細なことで失敗を繰り返している。ユリウスにはもう何度も叱られた。その呆れた表情を思い出して、フィリウスは落ち込む。秋の空は高く澄んでいる。しかし、フィリウスの心は曇り空だ。 (何でかな・・・。ちゃんとしようって、思ってるのに) 何か陰鬱としたものが、心の中に淀んでいるような。平時よりも落ち着かない自分を、フィリウスは持て余していた。 「何で、かな」 落ち着かない理由を考える。仕事には慣れてきた。周囲の人々ともうまくいっている。勿論故意に怠けてもいない。心だけが、それらの状況に反比例している。落ち着かず、定まらない。 「自分の、ことなのに・・・」 そっと胸に手を当てる。瞬きの瞬間に、自分のことほどわからないものだよ、しょうがない子だねと、頭を撫でる優しい手。ふと思い出して、慌ててその幻想を打ち消す。 (もういない) 穏やかに微笑むその手の主は、もういないのだ。 秋が深まる頃。フィリウスは、街を一人で歩いていた。今日は、春辺りから一ヵ月に一日、必ず与えられるようになった休みの日だ。初めの数回はどうやって時間を潰すか考え込んだものだが、この頃は城下をうろついて適当に過ごすのが主流になっている。特に、美味しいお茶を出す店を探すのに精を出している。 昼。今日もまた、お店を新規開拓するために少し遠くまで出張る。 「あ、これ、美味しそう」 途中、ショーケースに並ぶパンを見て、歩調を緩める。今日のランチはここにしようと、店に入って選ぶ。店を出ると、紙袋を片手に進行方向を真っ直ぐ。このまま行くと、大きな噴水のある広場に出るのだ。 広場は、少なくない数の人でそこかしこ埋まっている。フィリウスは人々から少し離れた花壇に腰かけて、袋を開ける。焼きたてのパンを頬張ると、 「うん、美味しい」 苺ジャムがトッピングされているのだが、それがあまり甘くなくて、パンもさくっとしている。ここ王都では基本まずいものが見つからないが、甘味の少ない味が故郷のそれと似ていて気に入った。 一つ目を食べ終えて、二つ目を手に取る。食べようと口を開けたところで、目の前で誰かが、どさりと重い音を響かせて、荷物を落とした。足元まで転がってきた毛糸を拾って、前を向く。 「どう、ぞ・・・」 そして、硬直する。目を大きくし立ち尽くす、その女性を見て。 「あ、んた・・・こんなところで、何やってんだい!」 驚きと怒りで声を張り上げた女性。毛糸を差し出した格好のまま、フィリウスは掠れる声を絞り出した。 「ジル、叔母さん・・・」 「・・・で、何か、言うことはないのかい」 ジルは不機嫌丸出しに、彼女の兄の孫であるフィリウスを睨みつけた。 「・・・ありません」 対してフィリウスも負けじと睨む。二人の間に火花が散る。 「あんたは、何の感謝もしてないというのかい!」 「どうして、感謝など出来るんです? 叔母さんには確かに一時期、衣食住全てを世話していただきました。でも、それを補って余りあるものを、私から奪っていったではないですか!」 「奪ったなんて、人聞きの悪い! あれは預かっているのだと、言ってるじゃないか!」 「では、今すぐ返してください。私はもう大人です!」 「いいや、まだまだ子どもさ!」 「・・・いつまで、叔母さんの中の私は子どもなんですか?! 一生でしょう! あれが駄目、これが駄目とけちをつけて! ・・・どうせもう、残っていないんでしょう!」 「あんたは、わからないのかい?! 兄さんの家の維持費や、お前の一月分の食費やら。決して安いものじゃないんだよ! お前のために使った金だって、本当はあの程度じゃまかなえない! それでもできるだけ残してやろうと、こっちだって色々工面しているんだ!」 両者睨みあう。深い深い溝が、間にあった。 ――フィリウスの祖父が死んだ時、決して多くはない遺産を、フィリウスは譲り受けた。貧しい暮らしをやり繰りして残されたお金と家。フィリウスはまだ成人前だった。一番近しい血縁のジル大叔母が後見人となって、遺産を一時預かった。成人したら渡すと約束したが、今もその遺産は、ジルの管理下にある。 不信を体全体で表すフィリウスを見て、ジルはふっと溜息を吐いた。 「全く、お金お金って、今は私の方がそう騒ぎたいくらいなのに。・・・フィリウス、うちのユーリアが、再来月結婚するんだよ」 思いがけない言葉に、えっ、とフィリウスは声を上げた。 「あんたはユーリアとは仲が良かったね? だから教えるんだ。・・・遺産のことは抜きにして、もしユーリアを祝ってくれる気があるんなら、手紙の一つでも書いてはくれないかい? あんたが何も言わずいなくなってから、ずっと気にしてるんだ」 フィリウスの心が揺れた。従姉のユーリアは、長い柔らかな焦げ茶の髪と、フィリウスとよく似た緑の瞳をした、儚げな美しさをもった少女。他に二人いる従姉妹とはそれほど気が合わなかったが、この少女だけは、フィリウスを受け入れてくれた。大切な友。 “花をまくわ。あの花を。空いっぱいに咲かせる。風に乗せて山の向こうまで届けてみせる” お互いが結婚する時にはそうやって祝おう、と。そう、小さい頃に約束していた。 「そう・・・ですか。ユーリアは、いい人を見つけられたんですね」 「・・・ああ、そうだよ。寂しくなっちまうね。娘なんてね、どれほど手塩にかけて育てても、嫁に行ったら実の母親のことなんて気にしなくなるのさ、全く」 長女シーディア、次女ユーリア、三女モリア。懐かしい、故郷の少女達。 「ごめんなさい、叔母さん。・・・私は、今ここから離れることは、できないんです。でも、私にできることを、させてください」 一番簡単に出来るのは、金を援助することだ。そう伝えると大叔母は顔を顰めて、 「お金、ね・・・。確かに、足りてなかったんだ。でも、何だい。あんた、金を援助出来るほどの仕事を見つけたのかい? あんなちっぽけな遺産にすら、執着してるくせに」 まさか宰相の弟子をしていますとは言えず、曖昧に口を濁したフィリウスは、次の日の正午、先ほど出会った広場の噴水の前で金を渡す約束をして、その日は場を後にした。 次の日、フィリウスはユリウスに断りを入れて、約束の時間より早く仕事を抜けてきた。はやる心を抑えきれず早足で向かった先には、さらに早く来ていたジルが、横にいる男性としきりに何か会話していた。ちょうど背後から近寄っていたフィリウスは、二人の会話を盗み聞く形になる。 「あの子は騙しやすいね、全く。兄さんそっくりだよ、そういうところは」 「こら、お前、こんなところでそんな大声で話すものじゃあないよ。・・・そりゃまあ、ユーリアの名を出したらあっさり騙されてくれたっていうのが嬉しいのは、わかるけどな」 フィリウスはぴたりと足を止めた。得意げに話すジルとその夫との会話。それは、信じられない、信じたくない内容だが、しかし、 (騙された、の。・・・今までも、騙されてきた? ずっと? 私を) 信じる信じないの葛藤よりも先に、ああやっぱりそうだったんだ、という諦観が胸の中に広がっていく。怒り、哀しみ。体が声が、震えるのがわかった。 「・・・騙して、いたの」 低い声で、呟く。はっとして後ろを見た二人は、しまったという顔をする。 「あんた、いつから・・・」 「叔母さん、騙してたの?」 「っ! フィリウス、それは違う」 「何が・・・違うの?」 「俺達は、お前を騙してなんかい」 「・・・騙したんでしょう!!!」 遮って大声を出す。すると、周囲にいた人々が、ぎょっとした目で彼ら三人を見る。それに横目で気付いたジルは落ち着きなさいと手を伸ばす。それを強く払い、フィリウスは大叔母夫婦を睨んだ。二人がはっと息を呑むのが聞こえる。 「私が・・・私がそんなに憎いの、叔母さん! お父さんが、馬鹿な女との間に生んだ厄介な子だって、そう思ってるんでしょうっ! 私なんていなければ良かった?!」 「フィリウス、そんなことは・・・」 「わかってる、自分でもそのぐらいわかってるよ! おじいちゃんにもおばあちゃんにも迷惑かけて、私がいたから、早死にさせちゃったんだってことくらいわかってるよっ! でも、生んでほしくて生まれたわけじゃ・・・ない!」 顔が熱い。声が詰まる。フィリウスは持ってきた金の袋をその場に投げ出した。縛り紐が緩み中身が飛び出す。それを慌てて広い集める義叔父に対し、彫刻のように固まった大叔母。 「・・・フィリ、ウス」 ジルの顔は、ひどく強張っていた。一歩近付くと、フィリウスは二歩下がる。強く強く睨みつけて、そしてそのまま、駆け去った。 ――後に残ったのは、フィリウスが残した、少女が稼いだにしては随分多い金と、袋からこぼれた金を這いつくばって集める男と、呆然と立ち尽くす女だけだった。 廊下を歩くフィリウスに挨拶をしようとした者は皆、その険しい顔を見て、何も言えず口を閉ざした。目が赤い、真新しい涙の跡が頬を伝う。どうしたのかと聞くべきだったかもしれないが、誰もがそう聞くことを躊躇った。 ただ一人、ユリウスだけがそれを尋ねた。しかしフィリウスは、何も言わなかった。貝のように固く口を閉ざし、それに伴って、心も閉ざしてしまったよう。 ・・・まるで、ここに来た初めの頃のように。
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