宰相の弟子

グレフィアス歴646年   11





 その夜、ペンを走らせる音が静かに響く執務室内に、オルグが隊長三人を伴い厳しい顔でやってきた。

「こんな夜分に、どうなさいました。・・・何か、ありましたか」

 オルグは来客用のソファに腰かけて、その背後に三人の隊長が立つ。向かい合う席にはユリウス。その背後にフィリウスが立つ。

「ああ。・・・証拠がとれるまでは、公にできない話があってな」

 オルグは静かに話しだす。近付いた冬の夜の大気よりも冷たい温度の声音で、淡々と。

 

 ――二日前、ある貴族が子どもの人身売買をしているという内部垂れこみがあった。

「ギルファ家、ですか。・・・容易には手を出せませんね」

 信憑性はとの問いに、第二隊隊長のバルカスが口を開く。

「スラム地区や各孤児院などを回ってみました。ここ最近で子供が行方不明になっているのは確かなようです」

 さらに、第三隊隊長サディートが続ける。

「街中でもその類の噂が立っています。また、西地区の者十三名ほどから、夜中に子どもほどの大きさの袋を運ぶ怪しい人影を見たという証言もありました。運ばれた先は不明です」

 ふむと、ユリウスは息を吐く。そして、顔を顰める。

「・・・証拠としては、弱いですね。ギルファ家周辺に何か変化はありませんか?」

 これには、第一隊隊長グランが答える。

「警備がきつくなっているということくらいです。今のところは」

 ユリウスは難しい顔をして黙り込む。決定打に足る証拠がない。

 一同に沈黙が舞い降りる。皆ユリウスの次の言葉を待つ。

「・・・何か大きな証拠が出ない限り、どうしようもありませんね」

 ユリウスはけれどそう嘆息して、打つ手なしを宣告する。騎士達は悔しそうに顔を歪め、視線を落とした。その中で一人、フィリウスだけがつと視線を上げる。

「ハイレン様、質問しても、よろしいでしょうか」

 全員が声の主を見る。フィリウスは一つ静かにまばたきをした。

「・・・何だ」

 オルグはわずかに逡巡した後、問いを促す。フィリウスは少し小首を傾げながら、

「いなくなった子ども達の年頃は、何歳くらいでしょう?」

 そう尋ねる。すぐ答えたのはバルカスだ。

「俺が調べた限り、下は四歳、上は十八歳くらいまでだ。男女の割合だと、女子の方が若干多い。・・・何を考えてるんだ? あんた」

 敬語一つ使わないバルカスに非難の目を向けたのは、サディートだけだ。他の者はそんなことよりもよほど、フィリウスの質問の真義を警戒していた。そしてフィリウスは、その刺すように厳しい視線の中、綺麗に笑う。

「・・・私ならば、証拠を見つけられます」

 

 薄汚れた身なりの背の高い少女が一人、静寂なる夜を裂き、大きな扉をトントンと叩く。

「・・・何だ、お前は?」

 扉の横、通用口の小さな窓からその姿を確認した警備の男は、警戒心を露わにする。取りつく島もない様子で、あっちへ行けと窓を閉めようとする。

「ねえ、待ってよ、おじさん」

 それにストップをかけたのは、やけに響く少女の声。そして、その内容。

「ここのお家で、私みたいなのを買ってくれるんでしょ? 私、今お金欲しいの。ねえ、どうする、買ってくれない? ・・・駄目なら、騎士様に告げ口して、謝礼金でももらおうかな」

 男はぎくりとして、少女の汚れた顔を見る。妙に爛々として鋭い緑の目。印象的な赤い髪が、被ったボロ布からこぼれ出ている。上から下まで土や埃で汚れているが、それでもわかるほど、見目の良い少女だった。

「・・・入りな」

 男は少し考えて、その少女を屋敷の中へ招いた。少女はやけに赤い唇に弓のような笑みを浮かべ、通用口を通り屋敷の中に歩みを進めたのだった。

 

 ――フィリウスの口から出た言葉に、一同言葉を失う。真っ先に正気に返ったのはユリウスだ。

「それは・・・どういう意味ですか?」

 フィリ、と弟子の名を呼ぶ。フィリウスは挑むような目でユリウスを見て、

「端的に申し上げますと、屋敷の中に潜入する、という意味です」

「何を・・・!」「駄目だ!」

 オルグとグランが同時に声を上げた。二人は一瞬互いを見やってから、

「何を言っているのかわかっているのか! それで失敗して他の子ども達に危険が及んだらどう責任をとるつもりだ!」

「そんな危険なこと何でお前がやる必要があるんだ! 無理矢理証拠を見つけようとしなくたってそのうちボロが出る!」

 声を出すタイミングを逃したようだが、バルカスとサディートも同じ思いなようだった。責めるような目でフィリウスを射抜く。彼らに対してユリウスだけが、感情の読めない目でフィリウスを見つめている。そのひとを測るような目こそ、ユリウスの“宰相”の目だ。

「・・・その結論に至った、経緯を聞きましょうか」

「ユリっ!」

「オルグ様、黙っていただけますか」

 思わず声を上げたオルグをぴしゃりと叱り、ユリウスは先を促す。フィリウスは一つ頷いて、すらすらと言葉を紡ぐ。

「ナート様のお話によると、攫われた子どもの年齢は十代後半まで幅広い様子。私ならば疑われずに屋敷内に入り込めます。私は女ですし、相手も油断するでしょう。また入り込んだ後も、私ならば指示がなくとも動けます。宰相の弟子というのも、利点ですね。証拠を発見した時騎士を使役する権限を持っていますから。・・・さらに、この話を知る機会に無理なく恵まれ、万一失敗しても私以外の誰も責任に問われないで済みます」

 一瞬何の心配をしているのかわからなかった騎士面々も、ユリウスが苦虫を噛み潰したような顔をしているのでようやく思い至る。そして同様に、不快な表情となる。

「・・・つまりフィリ。貴女は、勝手に行動しますと、そう言いたいわけですね?」

 フィリウスはこくりと頷き、ユリウスの審判を待つ。

「・・・」

「・・・おい、ユリ」

「・・・」

「ユリウス宰相? まさか、許可するつもりじゃ・・・」

 口々にユリウスを呼ぶ騎士達を鬱陶しげに黙らせて、ユリウスはため息をついた。

「・・・公憤か、私憤か。どちらです?」

 フィリウスはため息をつき返して、

「・・・どちらとも」

 一瞬視線を落とした。

 審判を前に緊張はピークに達する。誰かが唾を呑む音を合図に、ユリウスは言葉を発した。

「・・・許可します。そうとなったら、早い方がいいでしょう。決行は明日の夜中」

「ユリっ!!」

「オルグ様、第一騎士隊、お借りします。グラン、フィリウスの指示に従ってください」

「ユリ宰相っ! どうして・・・!」

 オルグとグランの非難を無視して、フィリウスはユリウスに向って頭を下げた。

「ありがとうございます、先生」

「礼はよろしい。いい報告を待っていますよ、フィリ」

「はい」

 宰相とその弟子の間では、もう話は打ち切られた。これ以上何を言っても決定は変わらないと知った騎士達は、様々な罵倒をぐっと飲み込んだ。

「お前・・・何考えてるんだ」

 フィリウスはグランのその質問に軽く首を傾げ、微笑する。

「・・・私が為せる、行動をとろう。そう考えている、だけですよ」

 常に勝気な少女にしては、やけに自嘲気味な、らしくない微笑みだった。

 

 屋敷の中に侵入したフィリウスは、通用口を開けた男の周りに誰もいないのを確認すると、すぐに身分を明かした。男は真っ青になった。すぐさま人を呼ぼうとする男に金を握らせて、フィリウスはその耳元で囁いた。

「何も言わないで、見ないで、ここから去ってくれたら、貴方のことは見逃してあげますよ」

 ・・・と。男は手の平の金貨の輝きを確かめて、それから、通用口の鍵をフィリウスに手渡して、無言で街の闇へと姿を消していった。鍵をポケットに滑り込ませながら、ちょろいものだとフィリウスは皮肉げな笑みを浮かべる。

(本当に見逃すと、思っているのかしらね)

 思ったのかもしれないし、あるいは捕まっても刑の軽くなる道を選んだのかもしれない。王の右腕である宰相に悪事がバレた時点で、見切りをつけたのかもしれない。

(どちらにしても、これはただの第一関門。大事なのは、これから)

 忍び込むくらい簡単に出来なくては、人身売買の証拠を見つけるなんて夢のまた夢だ。フィリウスは誰にともなく頷いて、物陰に身を隠しながら、広い庭を横切る。ギルファ家といえば、二大貴族に比べれば大したことはないが、それでも貴族の中では上位の家だ。庭も屋敷も無意味に広い。門の警備は一人ないし二人程度のようだが、庭のあちらこちらに警備の者が立って目を光らせているので、屋敷内に進入するだけで一苦労だ。もし見つかったら、先ほどのようにはいかないだろう。交換条件を持ち出す前に捕まるだろうし、下手したら殺される。それを思って、少し身震いした。不安と恐怖がどんどん膨らんでいくのを、それ以外の感情で押さえつけて、進む。

 二階の窓を小さく割って、一時間近くかかってようやく、屋敷内に進入した。ほっと息をつく。

(朝まで、あとどのくらい?)

 思いの他かかってしまった時間に、内心焦りが生まれだす。

 ――命令だからと従ったグランと、フィリウスは一つ約束をしていた。すなわち、もし朝日が昇るまでに証拠を見つけられなければ、諦めるということ。もし失敗して帰ってこられない状況になったら・・・絶対見殺しになんかしない、助ける、と。グランのそれは逆の意味での脅しだった。

(あの人、何をするかわからない。借りを作るなんて、絶対いや)

 折角自分以外には被害がかからないようにしたというのに全く、フィリウスは口の中でもごもご呟いて、それから内側から部屋の戸を開けた。静かな暗闇の中、そっと足を踏み出す。絨毯に吸い込まれて足音は欠片も立たない。それでも足音を、息を殺して進む。無意味に長い廊下。必要ないほど多い部屋。どれが使われていてどれが使われていないのか、わからない。目指すは一階、そしてきっとあるだろう、地下。誰にも見つからずに、おそらく隠されているだろう地下への道を見つける。――屋敷の中に入ってからの行動は、漠然としか定まっていない。ただ、やばいものを隠すなら地下だろうと思っているだけ。周囲の暗闇がいきなり体積を増したかのように感じる。

(・・・大丈夫。見つかりさえしなければ、とりあえずどうにかなる)

 しかし、止まるわけにはいかない。一歩を踏み出さなければ何も始まらないのだから。

 階段を見つけ、下りる。そこもまた長い廊下だ。右か左か、フィリウスは左を選んだ。そちらの方向には玄関がある。より危険な場所だが、

(虎穴に入らずんば・・・ってね)

 フィリウスの勘が、こちらを示すのだ。こういう場合、自分の勘を信じてみる。

 幸いなことに、屋敷の中では誰もが寝静まっているようだった。動いているのは、外の警備をしている者達だけ。これならば、大きな音を立てたりしない限り気付かれはしまい。慎重に歩いていくと、大きなエントランスに出る。フィリウスの勘は、この付近が怪しいと告げていた。

 扉の目の前で、来訪者を威嚇する大きな鳥の像。それは、神の先導をするという赤き鳥をモチーフにしたもので、一般家庭にも広く流通している。玄関先に鳥の置物があるのは別に不思議ではない。これほど大きいものはそうそうないが、何しろ貴族の家である。

(でも・・・)

 何か気になる。近付いて見上げると、赤い宝石を埋め込まれた両目が、玄関の方を見つめている。何かを押さえつけるような形で体より前に出ている右爪は、迂闊に触れば刺さりそうなほど鋭利だ。羽ばたくように少し開いた両の翼には、緑や青といった寒色系の宝石が細かく埋め込まれている。無意味に豪華、フィリウスはそう思った。くるりと周りを回ってみるが、特別あやしいところは見受けられない。違うかと視線を外したところ、暗闇の中ばっちりと、目が合った。

(・・・目が合う?)

 夜通し絶えないランプの灯りに反射して、猫のように輝く青い目。薄い茶色の、撫でたら気持ち良さそうな髪。フィリウスを見つめる、少年。子ども。

(やばい、見つかった・・・!)

 真白い上等な夜着を着た、まだ十歳にも満たないような子どもが、少し離れたところからあどけない顔でフィリウスを見ていた。事前情報を思い浮かべてみると、この状況で推測されるのはただ一人。ギルファ家の一人息子。

「・・・おねえさん、だぁれ?」

 騒がれたら一環の終わりと硬直したフィリウスは、子どもが眠そうに尋ねる声で少し息をついた。

「・・・こんばんは、はじめまして」

 落ち着けと自分に言い聞かせながら、この場をどうやって切り抜けるか目まぐるしく頭を回転させる。

「こんばんは、おねえさん。・・・だぁれ?」

「私? 私は・・・フェンっていうの。僕、お名前は?」

「ぼく・・・ヒューイットだよ」

 咄嗟に偽名を使ったフィリウスは、子どもの名前を聞いて確信する。ギルファ家の一人息子に間違いない。・・・そうわかって、ふと思いつく。駄目元で聞いてみる。

「・・・ねえ、ヒューイット君。私、弟を探してるの。どこにいるか、知らない?」

「おとー、と?」

 嘘を次々重ねながら、そうなのよと笑顔で頷く。素早く周囲に視線を走らせるが、人の気配はない。言葉を続ける。

「私の弟がね、この立派なお屋敷の中で、この間からお世話になってるの。会ったことないかな? こういうね、ボロボロの服を着ているの。私の仲間も、何人かいるはずなの。・・・何か、知らない?」

 その場にしゃがみこんで視線の高さを合わせる。ヒューイットとの間には二、三メートルほど間があったが、子どもは少し考え込むと、とてとてとフィリウスに近付いて、その手を取った。

「・・・知ってる、の?」

「うん。こっち」

 信じられない思いで小さな手に引かれていく。ヒューイットは階段横の扉を開ける。そこは使用人達が使う食堂のようで、部屋の奥にもう一つ扉がある。手を引かれるままにその扉の内部に入れば、そこは食物の保管庫になっていた。ヒューイットはまだフィリウスの手を引っ張る。保管庫の奥に、調味料がしまわれた戸棚が二つ。その戸棚の隙間が五十センチ弱あって、じゃがいもを詰めた麻袋が二つ、置かれている。

「この下にねー、ひみつの入り口があるの。ぼく、見たよ。ぼくと同じくらいの女の子が、知らないおじさんにつれられて、ここをおりてったの」

 袋をどけてみる。その下には布がひかれていた。それをめくると、床下へ繋がる粗末な蓋が現れる。隠し場所としては大分お粗末だが、だからこそ盲点になるのかもしれない。孤児達の隠し場所が室内のこんな場所であることから、屋敷の使用人達もひっくるめた犯罪である線がやや有力になった。

「・・・ありがとね、ヒューイット君。君はもう部屋に戻って、おやすみなさい。それで、お姉さんのことは、誰にも言わないでね。もし私と会ってたことがばれちゃうとね、弟が怒られちゃうから」

 ヒューイットはこくんと頷いて、眠そうに眼を擦った。

「うん。ぼく、言わないよ。おやすみなさい、フェンおねえさん」

 おやすみと挨拶を交わすと、ヒューイットは部屋を出て行った。それを確認すると同時に、フィリウスは手早く布を剥がす。厚みのある木の蓋を引き上げると、そこには薄暗い階段。入って蓋を閉める。真っ暗な階段を慎重に下りる。

「この、臭い・・・?」

 長い階段を下るにつれ、鼻につく臭いが強くなる。汗や汚物、腐った水、ネズミの死骸などの臭いが混ざったもろう。知らず眉を顰めながらじっとり湿って冷たい階段を両手両足使って下りきれば、そこには・・・。

「・・・ああ」

 思わず、吐息が漏れた。暗闇に慣れた目に映る、・・・そこに、牢屋があった。通路を挟んで向かい合った二つの牢屋の中に、ぎゅうっと人影が詰め込まれている。

「・・・ひどい」

 囁くような微かな声が、地下の壁を反響する。閉じ込められている者達の数人がその声で目を覚まして、フィリウスに顔を向ける。しばらく呆然としてしまったフィリウスははっと正気を取り戻すと、牢屋の中に声をかけた。

「あなた達、この家に買われた孤児ね?」

 孤児達は警戒してお互いに身を寄せ合ったまま、フィリウスを見ている。視線を感じる。呼吸すら殺して、全く音を立てようとしない。獣のようですらある。まずは警戒を解くのが先かと、フィリウスは布を巻いて隠していた手首の身分証――銀のブレスレットをさらし、マッチに火をつけて一瞬だけ照らす。装飾性もあるそのブレスレットには現国王の花押が彫刻されている。とはいえ、孤児達がそれを知っているとは思えないが。

「私は、フィリウス。フィリウス・ラドアリア。現宰相ユリウス・ルカ・オルフェレアの弟子です。この腕輪が証拠です。孤児の人身売買がこの屋敷でされていると告発がありました。私はあなた達を救いに来たのです。信じてください」

 孤児達にはこちらを信じてもらいたい。協力してもらうのが、この後の予定の中では一番楽な方法だ。

「・・・わかった、信じる」

 孤児の一人が代表してそう言ったので、フィリウスはほっとして息をついた。

「ありがとう。それで確認しますが、あなた達は・・・」

「ああ。この辺の孤児だ。この家の貴族に買われて、人身売買されてる話も本当。それより、あんた一人なのか? 騎士とかは?」

 さくさくと話を進めるのは、青年の声だ。彼を孤児達のリーダーと思って会話する。

「屋敷の外に待機しています。確実な証拠がなかったので、私が先に動きました。これから合図を出して、屋敷を制圧させます。でもその前に、あなた達にもやってもらいたいことが」

 声の主は、あんた無茶するなと溜息をついた後、もちろん何でもやるさと真剣な顔を牢屋越しに近付ける。フィリウスと同じ年くらいの、強い光を宿す濃い緑の目をした青年だった。

「一体、何をすればいい?」

 青年の問いに、フィリウスは考えてきた計画を述べる。

「この牢屋の中に、できるだけ長く、籠城してください」

「? ・・・逃げるんじゃなくてか?」

 訝しむ青年に、フィリウスは頷く。

「決して、逃げようとしないでください。これだけの多人数でこの屋敷の中から無事に逃げだすのは、まず不可能です。騎士の助けをここで待ってください。・・・警備のために雇われた者のほとんどは傭兵。人質に取られたり、証拠隠滅を図られたりする可能性があります。絶対に、捕まらないでください」

 なるほどなと大きく頷いた青年を見て、ここは彼に任せておけば安心だと思う。よろしくお願いしますと軽く頭を下げると、一歩下がる。

「地下入口の蓋は、できるだけ時間が稼げるように物で塞いでおきますので」

 そしてその場を去ろうとすると、その服の端を引かれてつんのめった。驚いて振り返ると、狭い格子の間から手首を出して、青年がフィリウスの服をしっかり掴んでいる。

「ちょっと待て。あんた一人じゃ危ない。俺も行く」

「え・・・でも、鍵が」

 青年は強く服を引っ張った。フィリウスは踏ん張り切れずその場に尻もちをつく。何をするんだと抗議の声を上げようとすると、彼の指がフィリウスの頭に伸びた。

「ピン。貰うな」

 邪魔な髪をまとめていたピンの一つを抜き取られる。そしてそれを青年の後ろにやってきた子供に渡した。

「俺が出たら、もう一度閉めとけよ」

「うん、鍵穴も詰めとく」

「ああ。あっちの牢屋の鍵も頼む」

「わかった。・・・兄ちゃん、無事で戻ってきてよ」

「もちろん」

 青年の弟らしき少年は、自身の首にかけていた皮紐の粗末なネックレスを青年に手渡した。青年もまた、自身のものを弟に渡した。弟はそれから、たいした手間もなく鍵を開けた。

「じゃ、行くか」

「あ・・・、はい」

 ごく自然にフィリウスの前を行く青年。その後についていくフィリウスの背で、鍵のかけられる重い音がした。

「俺達、泥棒なんだ。あれくらいの錠前破りなら、朝飯前さ」

 潜めた声で言う青年の背を見ながら、フィリウスは硬い声を出した。

「今は助かりましたけど・・・それは犯罪ですよ」

 知ってるさ、と青年は笑った。

「犯罪でも何でもな、そうしなきゃ生きられなかった。・・・しょうがないとは言わないけど、悪いとも思ってない。必要な分、富んでる人から貰ってるのさ」

 そうしなければ生きていけない環境にある人間がいるのだと暗に示す青年の言葉に、フィリウスはうつむいた。富める者貧しい者、成功する者失敗する者・・・明るい側面と暗い側面、両方合わせて国というものになる。それが、これからフィリウスが支えていかなければいけないものなのだ。こうして指摘されると、改めて不安が湧き上がる。

「・・・あんた、宰相の弟子だって言ったよな。しかも、あの大貴族の娘。そんな偉い奴が、どうしてわざわざこんなところに来たりしたんだ?」

 階段を上りつつ、青年が訊いてくる。フィリウスはごく短く、私の独断ですと答えた。

「独断?」

「はい。私の先生・・・宰相は、証拠がないから、動かないつもりだったんです。でも私はそんなの納得出来なくて、騎士を独断で動かし、証拠を見つけるためにここへ」

「へえ。それで、一人でか。・・・あんまり感心出来ることじゃないな」

 返す言葉に、一瞬詰まる。

「そう・・・ですか」

「この件に関しては、叩けばボロが出るくらい情報管理は甘かっただろ。今あんたが一人意気込まなくても、すぐに証拠が挙がったはずだ。それに、きっと、あんたについてきてくれる奴だっていた。一人で危険を冒すのは、絶対勇気なんかじゃない」

 責める口調に、黙り込む。階段の一番上まで到着した青年は、蓋をわずかに開けて外を見る。誰もいないのを確認してから、開け放つ。夜とはいえ、地下よりもやや明るい。先に出てフィリウスを振り返った青年は、そこでにこりと笑った。

「でも、助けに来てくれてありがと、フィリウス。俺、ロイドってんだ。・・・最後まで、頑張ろうな」

 伸ばされた手を、フィリウスは徐々に笑みを浮かべながら、握った。

 

 合図の光球が破裂音とともに響き渡り、第一騎士隊がギルファ家をあっという間に制圧したのが、今から約二十分前。グランはギルファ家当主とその家族を数人で囲むようにして佇みながら、苛々と足を踏み鳴らしていた。

 フィリウスは姿を現さないでいる。数人の騎士に屋敷の中を探させているが、まだ戻っていない。

(何やってる。無事なら、早く出て来い)

 グランは鋭い目つきで玄関付近を睨んでいた。

 ・・・と、屋敷の中から一名の騎士が猛然と駆け出てきた。

「フィ、フィリウス様、見つかりましたっ! お怪我もなく、ご無事です。ただ・・・」

 騎士はどもりながら報告を上げる。けれど言葉に詰まる。怪我がないという一言には安堵の表情を浮かべたグランだが、続きを言わない騎士を訝しんで先を促す。

「続きは。ただ、なんだ?」

「え、ええ・・・なんと言えばよいのか。その、フィリウス様は、襲われたようで、二階の東端の部屋に、死体が二つ。私が見つけた時には、その死体に挟まれるような形で、部屋の真ん中に、血塗れで座っておられました」

 報告を聞いた一同の顔が強張る。その時、件のフィリウスが屋敷の玄関に姿を現した。その姿を見て、グランは唸るようにその名を呟く。

「・・・フィリウス」

 何があったのか、少女は腕や足、顔を血で赤く染めた状態で、ゆっくりとこちらに近付いてくる。姿だけでなく雰囲気も尋常でない。能面のように無表情なのが、とても恐ろしい。

 誰も言葉を発せられないで緊張する空気の中、フィリウスはギルファ家当主の前で立ち止まった。

「・・・宰相の弟子としての権限で、貴方を拘束させていただきました。異論は聞きません」

 ギルファ家当主は、元より異論を言うつもりはなかったようだ。頷くでもなくフィリウスを睨みつけたまま、低く言う。

「好きにするがよい。・・・だが、妻と息子には関係ないことだ。この屋敷もまた、差し押さえられる理由はない。私の家族は、今すぐに自由にしていただきたい」

 怯え震える、妻。事態を把握せずに母に抱かれている息子。その息子と、目が合う。

「フェン、おねえさん・・・?」

 ヒューイットは、不安げに声を上げる。フィリウスはそれを無視した。

「貴方の要求が受け入れられるかどうかは、今後の捜査次第です。・・・そんなことよりも、貴方が攫って、あげく殺してきた子ども達に、何か一言、言うべきことは?」

 ギルファ家当主は即座に、ない、と言い切った。・・・瞬間、風を切って彼の頬辺りを通り過ぎた何か。一瞬後、その頬から生暖かいものがつうっと流れ出す。鈍い痛みもある。恐る恐る振り向いた彼が見たのは、息子の足元から一メートルほどの地面に突き刺さった、手の平ほどの大きさの投げナイフ。知らず、唾を呑む。

「・・・自分が斬られる痛みも、大事な人の死ぬ痛みもわからない者に、赦免など与えないと、覚悟してくださいね」

 フィリウスは無表情のまま、言い切った。

 そのまま一足先に城に戻っていく。騎士を一人供にして遠ざかるフィリウスの背は、ひどく真っ直ぐ伸びていた。

 

 日が昇りきってすぐ。フィリウスがギルファ家当主に拘束の意を伝えてから二時間ほど後。後処理を終えたグランは部下と罪人を連れて城に戻り、罪人を牢屋に押し込んでから、すぐにフィリウスの下へ向かった。傭兵などの尋問はこのまま第一騎士団が担当するが、ギルファ家当主の尋問は第三騎士団が担当することになっている。そして第一騎士隊と入れ替わりに、第二騎士隊がギルファ家屋敷に向かった。その中を調査するのは彼らの仕事だ。どうにせよ、グランの出る幕はもう終わったのだ。

「あ・・・ルーク様」

 と、一階と二階の間の踊り場にいたシリカに出会う。

「シリカ、フィリは上か?」「あの、フィリウス様を見かけておりませんか?」

 二人は同時に言葉を発して、少し黙った。もう一度切り出したのはシリカが先で、

「いえ、あの・・・騎士の方が宰相様に報告にいらして。フィリウス様は湯殿にいるから着替えをと言われ、着替えを持っていきました。扉のところから声をかけましたらお返事がありましたので、着替えを置いて、それから、お部屋の前で待っていたのですけれど・・・」

 途中三十分ほど経過した時に様子を見に行くとすでに湯殿にはおらず、さらに三十分経っても帰ってこないという。

「一体どうしたらいいのか・・・。宰相様には放っておけと言われましたけれど、でも、そんなこと・・・」

 心配でしょうがなかったのだろう。一晩寝ていない様子のシリカの目は赤く、えもいわれぬ不安からか、かすかに震えている。そんな一途な侍女をかわいそうに思って、グランは慰めと労りの言葉をかけた。

「こんな時間まで起きて、働いてくれて、ありがとうな、シリカ。フィリウスは俺が探して休ませるから、お前も少し休め。な? それで、笑って、おかえりって言ってやってくれ」

 シリカは嫌々するように首を緩く横に振ったが、きゅっと唇を引くと、

「ルーク様・・・フィリウス様を、よろしくお願いいたします」

 そう頭を下げた。任せとけとグランは笑った。

 

 目撃証言を集めてフィリウスを発見するまでに、それから二十分近くかかった。

 フィリウスは、賓客があった時に使う部屋の一室、見晴らしのいい三階の大きなバルコニーにぺったりと座り込んで、食堂からかっさらったワインを開けて飲んでいた。徹夜明けには痛い朝日の光をぼんやりと見つめている。部屋に入ってきたグランにも気付かない。

「フィリウス」

 呼びかけてもグランを見ない。全く気付いていないのか、故意に無視しているのか。

「フィリウス。・・・フィリ」

 三度呼んで、ようやく視線を動かした。

「・・・」

 けれど、何も言わない。また視線を戻した。グランはフィリウスの横に無造作に腰を下ろすと、自身で持ってきたワインを一本手にとり栓を開け、そのまま口づけて飲む。フィリウスも同じように直で飲んでいたので、それに倣った。

 無言。双方かなりの時間言葉を交わさない。その静寂を破ったのはフィリウスだ。ワインを二本空けて、三本目に手を伸ばしながら、まるで一人言のように呟く。

「・・・自分の手の中で、命が消えていくのを感じたことがありますか?」

 グランは動きを止めて、フィリウスから視線をずらしたまま、

「ある」

 短く、答えた。

 膝を抱え込んだフィリウスは、その腕の間に顔を伏せる。きっと、ごちゃごちゃになった感情を必死でまとめているのだ。腕が、体が震えている。何があったのか・・・聞かなくとも見当はついていた。

 青い空を見上げながら、グランは一人ワインをあおる。どこかで鳥が鳴いている。頬を撫でるように風が過ぎる。冬の朝は清々しくて、静かだ。

 そのうちに、フィリウスは顔を起こした。体はまだ震えている。見ると髪が湿っていて、本当に寒いのかもしれないと思う。室内のベッドからシーツを引っ剥がして渡してやると、大人しくそれにくるまった。

「・・・ありがとう、ございます」

 フィリウスは言って、そっと、隣に座るグランの肩に、頭を預ける。

「・・・どうした。甘えて、いいのか?」

 グランの意地悪な言葉に、フィリウスはほんの少し微笑んで、静かに涙を流した。

 

 フィリウスは夢を見た。温かな夢だ。悲しい・・・夢だ。

 もう二度と会えない人が、いつものように頭を撫でて、額にキスをくれた。

 愛しい子、優しい子。大切な大切な、私達みんなの子。

 ――どうか幸せになっておくれと、おじいちゃんはそう笑って。おばあちゃんと手をつないで、私の行けない場所へ、私の会いたい人達がみんないるその場所へ、ゆっくりと歩いていってしまう。

 そして、行かないでと泣くフィリウスを、誰かがそっと、抱きしめてくれている。

 ・・・そんな、夢だった。

 

 目覚めると、ベッドの中だった。シリカがほっとした顔をしている。少し熱が出ているんです、今日はおやすみください、そう言われて、目を閉じる。何だかひどく、気だるかった。

 次に目覚めた時、ユリウスが横に立っていた。なんだか呆れた顔をして、もう熱はないでしょう、そろそろ起きなさい、と言われる。時間を聞くと、昼を過ぎている。フィリウスは慌てて起き上がると、扉を開けて執務室へ上っていく背中を、一分後には用意を済ませて追っていた。

 

 ――何事もなかったように、フィリウスの日常が回る。

 

 ふとすれば浮かぶ夢の残滓を振り払い、手に重くこびりついてしまったような死の気配を削ぎ落として、フィリウスは毅然と立つ。・・・時には、それしかできなくても。




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