宰相の弟子

グレフィアス歴646年   12





 曇り空の冬初め、夜の暗い道を急ぐフィリウス。灯りは手元のカンデラ一つ。影がその背に大きく伸びる。

「ああもう・・・あと少し早く帰るつもりだったのに」

 フィリウスはラドアリア家へ足を向けている。ある用があってのことだ。思い立ったが吉日というがユリウスに急かされたのがもっぱらの理由で、とはいえ、この時間に帰ったとしても、肝心のラドアリア家面々がまだ起きているかどうか。起きていなければ、今日は見送るしかなかろう。

 何事もなく屋敷の門に辿り着いた時には、もう深夜も深まっていた。寝ずの番をする警備兵に門を開けてもらい、広く美しい、落ち着いた雰囲気の庭に足を踏み入れる。真っ直ぐ玄関まで向かいそっと開き、扉の隙間から中を見て少々気遅れする。ここは一応フィリウスの家になるのだが、何しろ二大貴族の家である。どこもかしこも広いし美しく整えられて、赤絨毯なんかがずっとひかれていたりする。王宮も同じようなものなのだが、仕事場と、完璧に個人の宅である場所では勝手が違う。

「お邪魔いたします・・・」

 小さい声で言って玄関をくぐる。夜中なので侍女も出迎えに出てこない。・・・静かだ。フィリウスは一歩一歩を踏みしめるように歩いて、二階にあるラドアリア家当主の部屋へと向かう。現当主はレガート・ラフィ・ラドアリア。三人兄弟の長男で、まだ三十にも満たないが当主として立派にラドアリア家を治めている。金がかった淡い髪に、春の空のようにうっすらとした青色の目。優しげな印象の、すらりと背の高い美青年だ。

 扉の下のわずかな隙間からは光一つこぼれていない。もう寝ているだろうかと思いながら、本当に小さな音で、ノックする。

「レガート様、フィリウスです。起きていらっしゃいますか?」

 囁き声で呼びかける。しばらく待つが、誰も出てこない。

「・・・やっぱり、もう寝てるよね」

 諦めようと踵を返す。三歩ほど歩いたところで、背後の扉が開いた。

「・・・フィリウス?」

 通りのいい声で名を呼ばれて、振り返る。扉を開けてこちらを見ていたのは、黒い夜着に白い上着を羽織って、胸元までの髪を緩く一本に束ねた姿の、レガート。

「帰っていたのか、おかえり。・・・どうしたんだい? こんな時間に」

 そして、扉を大きく開けて室内に招く。ソファを指し、

「そこに座っておいで。ワインしかないけど、飲むかい?」

「あ、お構いなく・・・」

 断ったが、ワインは出てきた。礼を言ってちらりと室内に視線を走らせると、書き物机に開かれたままの本がある。その本を照らす灯りが、そこかしこに影を揺らす。

「本を・・・読んでいらしたのですか?」

 レガートは頷き、自身のワインを一口含む。

「フィリウスは、今帰ってきたところかい? こんな遅くまで・・・夜道を女子が一人では危ないだろう」

 気をつけなさいと言われ、頷く。ワインを飲む。ほのかに甘く、口当たりのいい味だ。

「・・・それで、どうしたんだい?」

 問われて、フィリウスは視線を上げる。自然な微笑を浮かべるレガートを見て、何を言うべきかをもう一度心の中で反復する。それから、音にする。

「お願いが、ありまして。・・・私を、家族として、認めていただけませんか」

 レガートはわずかに目を見開いた。

 

 その日の朝のことである。用意を整えいつも通りユリウスの下に行ったフィリウスは、挨拶の直後、

「フィリウス。もう今年も終わりますし、そろそろラドアリア家での貴女の立場、振舞い方を、はっきりしておきなさい」

 唐突にそう命じられた。は? と発したきり言葉が出てこないフィリウスに、

「私は、オルフェレア家の権威を利用するためだけにその養子になりましたけれど、貴女にそう割り切ることができますか? ここらでしっかり、ラドアリア家とどのように付き合っていくか、考えてみなさい」

「え、あの、」

「三男のグレイル様が第三騎士隊に所属なさっているのですけれどね、貴女のことを何やら愚痴っていたという報告が、私のところまで上がってきているのですよ。・・・困りますね。そういう私的な用件一つ、自分で解決できないようでは」

 狼狽している間に痛いところを突かれて、フィリウスは何の反論も浮かばなかった。

 

 それから半日も考えて、一度はユリウスと同じようにすることを考えた。しかし、

「フィリ、ラドアリア家の方々のこと、嫌いなの? そうではないわよね。なら、養子になった事情が事情だから、気遅れしているのかしら。それとも、家族になることに、何か不安があるのかしら。・・・優しい家族ができることに、抵抗でもあるの?」

 レイに、そう諫められてしまった。

 現在ラドアリア家面々は、まるで本当の娘や妹のようにフィリウスに接してくれている。それは間違いなく彼らの好意であり、フィリウスにとってそれはとても心地いいものである。だが、負い目があるのだ。宰相の弟子、いや次代の宰相だからこそラドアリア家に受け入れられ、その名を利用しているのだということに。そして、

(家族、か)

 ・・・そう、家族、というものに。

 フィリウスは、恐れている。けれど同時に、それが本当は温かくて、優しくて、大事なものだと知っている。そして、ラドアリア家は惜しみなくフィリウスに愛を与えてくれるだろうことも、わかっている。

 自分には分不相応な宝物を、果たしてこの腕で抱えきれるのか。・・・前から悩んでいたが、ユリウスに後押しされて、フィリウスはこの日最後の一歩を踏み出した。

「そんなこと言われなくても・・・もう家族のつもりなのだけれど」

 困った様子のレガートは、微笑を苦笑に変えた。

「ええ、そうおっしゃってくれると思っていました」

 対するフィリウスは、その言葉を受けて笑う。

「・・・ではどうして、それを今さら望むんだ?」

 不思議そうに問われ返す言葉は、

「私の想いを、伝えていなかったと思いまして」

 レガートは少し考え込むふりをして、確かにと頷いた。それから、悪戯を企む子どもみたいな顔して、

「つまり・・・フィリウスは、私達の義妹になるって改めて宣言してくれたってことか」

「・・・そうですね。そうなりますね」

 レガートこの言葉に、実に華やかに笑う。

「ありがとう、フィリウス。私はこの場で、ラドアリアに関わる全ての者を代表して、その決意に誠実を立てる。・・・改めて、今後よろしく。私達の可愛い妹」

 フィリウスはその言い様にはにかみながら、

「よろしくお願いします。・・・レガート兄様?」

 頬をうっすら赤くして恥ずかしそうに、そう言った。




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