宰相の弟子

グレフィアス歴646年   13





 年明けまであとひと月という頃、フィリウスは住居を完璧にラドアリア家へと移した。そのため、手間は確実に増えた。朝早く屋敷を出て、夜遅く帰るのだ。大変だが、これはフィリウス自身が望んだこと。家族とともに住みたいと、住もうと思ったのはフィリウス本人。ラドアリア家の者はフィリウスのそんな行動を好ましく思うと同時に、以前に増して負担の増えた毎日に体調など崩しはしないだろうかと、その様子を気にかけていた。そしてその変化に初めに気付いたのは、ラドアリア家の次男、サジタス・ベク・ラドアリアだった。

 彼は学者である。グレフィアス国内では珍しい神学や植物学を主に研究しつつ、ポピュラーな歴史学などにも手を伸ばす、良く言えばオールマイティーな、悪く言えばちょっと中途半端な研究者である。顔立ちと淡い目の色は兄のそれとまあまあ似ているが、髪は母方の血を強く継いだためやや茶がかった黒である。視力が悪いため目つきが鋭く、眼鏡をかけていてもそれは緩和されていない。傍から見れば神経質そうな表情をしているが、話してみればこちらも兄同様優しく気の利く青年だ。

 その彼がフィリウスの異変に気付いたのは、三日前の朝のこと。植物観測日記などというものをつけているサジタスは、早朝、昨夜の雪が積もった庭を歩いて調査木を調べていた。まだ日は昇ったばかりで、空気はとても冷たい。白い息を吐きながらふと見上げた視界の端に映ったもの。二階のバルコニーにたたずむ義妹の姿。

「・・・?」

 他の者なら、そこで声をかけただろう。けれどサジタスは口を開かず、ただその場で様子をうかがう。

 フィリウスは何をするでもなく、ぼんやりと空を見つめているだけのようだった。それにしても早い時間だ。しばらく観察すると、その顔に落ちる疲労の色がはっきりと読み取れた。薄白い顔色をして、ひどい隈がある。眠れなかったのだろうか、と思う。その時はそう思うだけでさほど気にしなかった。

 それから三日続けて、同じ時間、バルコニーでたたずむフィリウスを目撃した。三度目で、サジタスは思い至った。

(ああ、もう何日も、まともに寝ていないのか)

 そして兄に相談した。

「兄さん、フィリウス、夜眠れていないようなんですが」

 サジタスの説明を聞いて策を考えたレガート、ひとまず三男を引っ張ってきて、

「お前にも協力してもらう」

 中身を説明すらせず、自分の考えた策に強制参加させる。こんなことは慣れっこなので、呆れてため息はつくが文句一つ言わない三男、グレイル・カリカ・ラドアリア。第三騎士隊に所属する、兄弟の中で唯一の肉体派である。とはいっても外見は細っこく、背ばかり高くて痩せぎすだ。切れ長な目とざっくばらんな言動のため冷静沈着に見られがちだが、実際は結構すぐ熱くなる。そしてすぐ冷める。髪色は兄二人の中間をとったような茶色、目は緑味の強い青だ。

「はいはい、やればいいんだろ、やれば。・・・とりあえず、何がどうしてこうなったか、ちゃんと説明してくれよ」

 自他ともに認める苦労性のグレイルは、特に兄達には逆らえない。巻き込まれたら腹を括るしかない。

 兄弟達の朝は、作戦会議で終わっていく。

 

 毎夜、泣きながら目を覚ます。幸せな夢なのに、温かな夢なのに、悲しくてつらくて仕方がない。

 もう二年も前のこと。昨年もこの時期、この夢を見た。夢の中で何回も、自分の過去が過ぎていく。

 ・・・ひとは、忘れる生き物だという。時の流れが、心の傷を回復させるのだという。

 それならば私もきっと、いつか忘れていくのだろう。この優しい、穏やかな夢を、そんな気持ちで見ることができるのだろう。

 けれど今は、無理だ。夢が怖くて眠れないで、今日も一日、暮れていく。

 

 夕刻早い時間に、グレイルがフィリウスを迎えに来た。大いに困惑しながらも二人で帰途につく。グレイルが歩きながら説明することには、今日はフィリウスの歓迎会をやるから、という本人にも初耳な話だった。しかも、歓迎会を催す時期としてはラドアリア家にフィリウスが養子に来た頃が適当で、それはとうの昔に過ぎている。今さら別にという感じだ。そう言えば、グレイルは苦笑する。

「兄さんは、今この時期に、開きたいみたいだぜ」

 それを聞いたフィリウスは少し顔を赤らめて、嬉しそうに笑った。

「・・・詳しい事情を、お聞きになりました?」

「・・・まあな。俺は歓迎する。よろしくな、フィリウス」

「こちらこそ。・・・グレイル兄様?」

 グレイルは、兄様いらねえ、と渋い顔になる。

「呼び捨てでいい」

 フィリウスは頷いて、ではグレイルさんとお呼びいたします、と答えた。

 二人は互いの歩調に合わせて、ゆっくり家路を行く。

 

 歓迎会にはラドアリア家前当主ゼイレン・リタリナ・ラドアリアとその妻サマリア・ヤータ・ラドアリアも同席した。夕食混みの会は始終和やかに終わった。ゼイレンとサマリアは彼らの住む離れに帰り、残った四人は兄弟同士の談笑の場を設けた。

 夜が更け、酒が進む。ほんのりと赤い顔をしたフィリは、今は何を話すでもなくその緩やかな空気に浸っている。対してその兄達は、どことなく雰囲気が硬い。

 ――レガートが弟二人に提案したのは、フィリウスをとにかく酔わせるというものだった。人間、酒が入ると、心や体を守るガードが弱くなる。何を思い悩んでいるのか、それを話してもらうための策であり、同時に寝酒のような意味合いもあった。

 誤算はある。フィリウスが酒に強いことを、誰も知らなかったのだ。けれどそれは少し考えれば解決した。フィリウスと見合って酒を飲むのは一人でいい。後の二人は、ワインと色の似た飲み物でも飲んでいればいい。兄弟三人は自然に役割を交換して、フィリウスに酒を空けさせていく。いくら酒に強いとはいってもフィリウスは完璧なざるではない。ハイペースで飲み続けていれば、限界もくる。

 ソファの上で行儀悪く膝を抱えながら、顔を赤くしぼんやりとするフィリウスを見て、そろそろいいか、とレガートは切り出した。

「ところで、フィリウス。・・・この頃よく眠れていないのでは?」

 空気がにわかに緊張した。フィリウスはしばらく間を置いてから、いいえと答える。けれどサジタスが、

「早朝疲れた顔で庭を眺めているのを、ここ最近何度か見かけました。本当のことを言ってくれませんか?」

 そう軽く問い詰めれば、早くも黙り込んだ。もう少し粘るかと思っていたレガートは拍子抜けして、ワインを机に置いた。

「フィリウス・・・?」

 うつむいた表情が気になって名を呼ぶ。フィリウスは掠れた声で、

「・・・め、を・・・」

「え?」

「・・・夢を、見るんです」

 言葉を零す。

 

 ――夢を見るんです。夢を。幸せな夢を。

 おばあちゃんがいておじいちゃんがいて、私がいる。おばあちゃん特製のシチューを食べながらたくさんお話するんです。二人とも笑って聞いてくれて、私とっても幸せなんです。お父さんとお母さんもいて、私の頭を撫でてくれる。すごく、幸せなんです。何でもないような夢だけど、みんなが私の周りにいてくれる。それだけで本当に幸せなんです――

 

「でも、もう誰もいないって、わかっていて」

 微笑んだ拍子に、ほろりと涙が流れる。

「・・・お父さんとお母さんは、本当は顔も覚えてないんです。おばあちゃんは私が七歳の時亡くなったし、おじいちゃんだってもういない。みんな、私の周りからどんどんいなくなって、私を一人っきりにする」

 あふれだした言葉と想いは止まらない。フィリウスは堰を切ったように泣き始める。

「こないだだってそうだ。あの人は、私を助けようとして、死んじゃった。弟がいたのに、残して、私のせいで」

「・・・フィリウス」

「誰にも、死んでなんか、ほしく、ないのに。なんで、いつも」

 一人なのは、自分のせい?

「っ・・・!」

 ・・・それきり言葉を途切れさせたフィリウスに、誰も近寄れない。

「フィリウス・・・」

 名を呼ぶ。フィリウスは泣き顔を上げて、焦点の定まらない視線でレガートを見る。それでようやく、体が動いた。

「フィリ」

 レガートは優しく、けれど強く、フィリウスを抱きしめた。

「!」

「フィリ、覚えておいで。私はお前より先には絶対死なない。そしてフィリも、私より先には絶対死なせない。勿論、サジタスとグレイルもだ。全員だ。・・・私の周りからは、誰もいなくなったりしない。だからお前の周りからも、もう誰もいなくなったりはしない」

 ――それは、矛盾を含んだ言葉。

「約束する。だからフィリ、安心して、眠りなさい。・・・大丈夫だ」

 フィリウスは泣いて、泣いて、いつしかレガートにすがりつくようにして、眠りについた。

 

 レガートは静かに、長いため息をついた。

「寝た、か・・・」

 至近距離でのぞきこんだ寝顔は涙でぐしゃぐしゃだったが、驚くほど安心しきっている。レガートの背後に寄ったサジタスとグレイルは同じくその寝顔を見て、ほっと息をついた。

「よかったですね、寝てくれて・・・」

「お疲れ、レガート兄さん。・・・こいつもあんな思いを一人で抱えてたら、つらいはずだよな」

グレイルはレガートの腕から弛緩した少女の体を受け取って、ソファに横たえた。濡れたタオルで顔を拭いてやりながら、親が病気の子にするように、ずっと手を握っている。

「さすがに焦ったのではないですか、兄さん」

 サジタスが尋ねれば、勿論と苦笑するレガート。

「しかし・・・よかった。フィリは、ちゃんと泣けるようだね」

 ・・・泣くことは、大切だ。彼らは、よかったと頷きあった。

 

 翌朝目覚めたフィリウスは、羞恥で顔を真っ赤に染めながら兄達に謝った。酒を飲んで記憶が飛んでしまえばいいのに、何故かフィリウスは、二日酔いにならない代わりに記憶も飛ばなかった。

 レガートは謝るフィリウスの頭をぺちんと叩いて、家族ならつらいことは相談すること、一人で悩まないこと、と叱る。サジタスはそんな兄とフィリウスの間に入り、まだ家族になって日も浅いし、家族だからって言えないこと、家族だから言えないことだってありますよ、とレガートをたしなめ、私達が駄目なら他の誰でもいい、貴女は自分で思っているよりもっと多くの人に思われていますよ、とフィリウスに忠言する。フィリウスはその言葉に頷いて、ありがとうございますと頭を下げる。レガートとサジタスは、こちらこそと微笑んだ。

 ――王宮までの道をグレイルと行く。二人とも無言のまま、門に着き、分かれる、その時。

 グレイルは掠めるようにフィリウスの頭を一度撫でて、

「じゃあ、いってこい」

 そう言った。フィリウスはグレイルの行動とかけられた言葉に驚いて喉をつまらせたが、一瞬後満面の笑みを浮かべると、

「・・・いってきます」

 そう、返した。




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