宰相の弟子

グレフィアス歴646年   4





 花祭りも今日で終わりの、三日目。この祭りの間に関係を深めたのであろう甘い男女の横を、フィリウスはため息をつきながら通り過ぎる。笑顔のユリウスにまたしても暇を出されてしまったのだった。ため息が出るのは、時間を持て余してしまうから。何もしないでただぼんやりするいわゆる休日に、どうしても慣れることが出来ないでいる。幼い頃から。

 二歳三歳・・・さすがにそのくらいになると覚えていないが、四歳あたりからは微妙に記憶がある。もう両親はいなかった。フィリウスがまだ赤ん坊だった時に両親は死んだので思い出も残っていなくて、彼らの存在を示すのは、いくつかの形見だけ。ずっと祖父母に育てられた。そして、祖母が死んだ歳になれば記憶はすでにはっきりしている。七歳だった。沢山いた友達と遊ばなくなったのもこの時分だ。祖父が金を工面して通わせてくれた学校で必要最低限なことだけ学んで、その後は家事をしたり、顔見知りのおじさんの仕事場で小遣い程度だが手伝いをしたりしていた。つまり“遊ぶ暇がなかった”のだ。

「困ったな・・・」

 普通に考えれば、人間は適度に休みをとる。だからユリウスがこうしてフィリウスに暇をとらせるのはごく普通なことで、疑いようもなく善意の行動だ。祭りの日に合わせて休みをくれたのは、十分楽しんで羽を伸ばしてきなさい、ということなのだろう。

「・・・困った」

 どうしようと空を見上げる。すっきり晴れた、抜群の青空だ。

「・・・」

 前を見る。道が長く続いて、両脇にずらりと出店が並ぶ。人が溢れている。様々な色彩、音、肌に直接感じる活気。

「・・・うん、そうだな。ちょっと遠出、してみようかな」

 その光景を見ていて湧いてきた、天邪鬼的な考え。沢山人がいるから、あえていない方へ。活気に満ち溢れているから、あえて静かな場所へ。

 ――首都の境界の外へ。

 まずは馬を買おうと、フィリウスは目の前の道を歩き出す。この道の奥に馬屋があったのを覚えていた。買った馬は王宮内の厩を借りて世話しようと考える。お金は多めに持っていたので十分足りる。

「馬か・・・久しぶりだな」

 生活の手段として大事にしていた馬。その高い背中から見る世界も、走らせた時に顔にあたる心地よい風も、好きなものだった。思い出して笑みがこぼれる。

 暇つぶしとしては、上等だ。

 

 並足だから、ゆったりとした揺れ具合。生き物の体温とややごわついた毛並み。随分と久方ぶりな馬の背の感触に、知らず穏やかな微笑みが浮かぶ。春の日射しと花の香を含んだ風がまた、なんとも麗らかなものだった。

 馬屋には十数匹の馬がいた。フィリウスは一匹一匹を見て、やや小さめな鹿毛の雄を選んだ。それは扱いが難しいと店主は反対したが、こうして乗ってみると意味がわかる。

「お前、人に自分を合わせるつもり、ないのね」

 馬に乗るのが下手な人間は適当に振り落としていきそうだ。しかし走るのは好きなようだし、乗り手のやりたい事をちゃんと実行してくれる馬でもある。扱いが難しいというほどのものではない。ようは、

「私が、馬の扱いが下手と思われたか・・・。いい馬だから売りたくなかったか・・・」

 どちらかだと判断する。けれど別に、だからどうということもない。

 風が気持ちよくて、少し走らせてみる。馬はのびのびと道を進んだ。その規則正しいひづめの音を聞きながら、どこまでも走っていきたい思いに駆られた。しかし理性は遠くまで行くことに反対して、約三十分後、フィリウスは適当なところで道を逸れた。先ほどまでは畑が続いていたが、今は横手に広々と草原が広がっている。その草原に分け入る。

 ――薄桃、黄、白。そして青。色とりどりの花々が、ひっそりと咲いている。誰に世話をされているわけでもない雑草だが、その誇張しないたたずまいをフィリウスは気に入っている。派手派手しく飾らなくても、誰かに見られなくても、確かにそこにあり毎年花をつける。自然の摂理だ。フィリウスがどれだけ頑張っても、自然には何一つ敵わない。尊敬する人は数えるほどしかいないが、自然だけは無条件で尊敬できると思う。

「・・・気持ちいい」

 馬から下りて手綱と鞍を外す。逃げる心配はしていなかった。人に育てられた馬は人から逃げようとしないものだ。特に賢い馬は、野生で生きる厳しさがわかっているから。

「お前も、好きに遊んでおいで。しばらく休もう」

 そう語りかけると、まるで言葉がわかっているように馬は軽く嘶き、少し離れたところで草を食み始めた。

 のどかだ。実にのどかな光景だ。フィリウスはその場にごろんと寝転んだ。そうすると下草の中に完全に埋もれてしまって、視界は緑と青に染まる。今日も快晴だ。青い、青い空。・・・カディアのことを思い出す。この時期ならば、故郷の空はまだ灰色だ。雪が積もり、冷たい風が山から下りてくる。遠くに来たものだと、ふと思う。

「・・・おじいちゃん」

 ぽつと無意識に呟いてから、ああ、と思う。

 ――ああ、思い出してしまった。

 懐かしい日々。たった一年前までは暮らしていた場所、今はもう会えない笑顔。まだ心の中から消えない、思い出。・・・そう、思い出。

「思い出、なんて・・・」

 大切に大切に守っても、二度と戻らないもの。忘れられないから愛しくて、思い出すたびに胸が苦しくなる。

 熱くなる目を、ぎゅっと閉じる。まるで、蘇った記憶を覆い隠すかのように。

 ・・・結局、一人きりでそこにいるフィリウスに、誰かが気付くことはなかった。どこか泣きそうな顔をして、夕日を沈むまで見つめていても。

 

 夜の帳が完全に下りる前、そろそろ帰らなくてはと立ち上がる。少し離れたところで眠っていた馬に近付くと、耳をぴくりと反応させて起き上がる。もう帰るのかという目でフィリウスをうかがうので、優しく笑いかけて、そのたてがみを撫でてやる。鞍と手綱をつけてその背に乗る、その前に、フィリウスは足元の花をつと視界に入れる。青い五弁のよく見慣れた、シアンの花。

 優しく手折り、鞍についたポケットに入れる。左手に手綱を引いて、道へ向かって歩き出す。多少遅くなってもいいかと、馬に乗らず道をしばらく進む。

 前方からやってくる人影に通り過ぎざま挨拶をする。人影は遠くから挨拶を返したが、間近にフィリウスを見ると驚いた。

「お嬢ちゃん、こんな時間に若い子が一人で、危ないだろう! どうしたんだい!」

 背中に籠を背負った商人だった。暗くて性別までわからなかったようだ。

「ええ、ちょっと・・・。もう少し早くに帰るつもりだったんですけど」

 微笑んで答えを濁す。商人のおじさんは心配そうな顔をして、自分の背後をちらと見る。

「首都に向かうのかい? まあ馬なら、そう遠くはないし、平気だろうが・・・。乗れるのかい?」

 はいと頷いて、フィリウスは歩き出す。その背におじさんの声がかかる。

「ああっ! ちょっと待ちな!」

 なんですかと振り向けば、目の前に大きな袋が差し出されている。

「は?」

「持っていきな、どうせ売れ残りだ。折角の花祭りに用事とは、残念だったなぁ」

 いいように解釈されたようだ。フィリウスは困って、でもと渋るが、おじさんは聞き入れない。

「遠慮しないで、持ってきな。果物や菓子ばかりで、家に持ち帰っても腐らせちまうのが関の山なんだから」

 半ば強引に手渡し、おじさんは笑顔で去っていった。

「・・・まあ、いいけどね」

 困った半分、嬉しさ半分。フィリウスは苦笑して、馬の背に袋を置いた。危なげなく鞍に上り、早足程度で走り出す。

 結構落ち込んでいたのだが、なんだか元気になってしまった。

「・・・うん、帰ろう」

 故郷ではない。待っている人もいないかもしれない。けれど今の居場所は、間違いなくそこだと思う。

 ――そう、私は、宰相の弟子。

 今までしっくりこなかったものが、急に手に慣れた時のように。フィリウスの中で初めて、自分が宰相の弟子であることが強く意識された。

 

 今帰りましたとユリウスに知らせに行くと、どこに行っていたのか尋ねられた。時刻は夜七時過ぎ。空には月が昇っている。

「ちょっと首都の外へ行ってみました」

「外へ? わざわざ?」

「ええ。久しぶりに遠出したくなったので・・・」

 そうですかと、ユリウスは柔和な笑みを浮かべる。その前に貰い物の果物を置いて、お土産ですと微笑み返す。

「ありがとうございます、フィリ」

「あと、これも」

 ユリウスの背後に回って、少しその髪をいじる。柔らかくてつやつやした髪の感触を楽しみながら手早く済ます。

「何をしたのです?」

 不思議そうなユリウスは、自分でやるより上手に三つ編みされた髪を前に持ってきて、その毛先を束ねるものに目を丸くした。茶色と灰色の格子柄の、地味なリボンだ。

「そういう色なら、男の方でもあまり気にならないでしょう? 貰ったものなのですけれど、私にはあまり合いそうにありませんし」

 お嫌でなければつけてください、と無邪気に笑う。機嫌がいいのか、滅多にないことだが作り笑顔ではない。

「・・・ありがとう、フィリ。大切にしますね」

 心から感謝をすると、その笑みはさらに深くなった。ではと部屋を出ていく背中を見送った後、ユリウスは感嘆のため息とともに椅子に沈み込んだ。

「何か・・・オルグ様がどうしてああなったか、わかる気がしますよ」

 ユリウスに子どもはないが、それでも心からの笑顔に一瞬思考が停止した。あんまり無防備に喜びや嬉しさを表現するものだから。普段とのギャップが激しいのだ。

「何気に・・・魔性の女、ってやつかもしれませんね」

 もしくは母性本能・・・いや父性本能をくすぐるというか。そう呟いて、ユリウスは苦笑した。

 ――どうにせよ、あらゆる意味で目の離せない弟子であることは確かである。

 

 貰った果物やお菓子、わずかにあるアクセサリなどを、フィリウスは配って回った。貰った者は大体驚いた顔をしたが、ありがとうと笑顔を返した。笑顔を向けてくれることが嬉しくて、フィリウスも笑顔を返す。すると相手は仰天するのだが、何故かはわからない。

 世話になっている人々に小さなことでもできたのが嬉しくて、その夜はとても安らかに眠れた。・・・その枕元には、シアンの花。自分のための土産は、数日青く咲いていた。




前へ   目次へ   次へ