宰相の弟子

グレフィアス歴646年   5





 背後から腰に回される手。それに反応して素早く肘打ちを叩き込む。怯んだらその腕を掴んで、肩を入れるようにしてひねる。仕上げに足払い。相手が倒れたらすぐ逃げる。

「・・・よし、完璧だな」

 一連の動作を見ていたグランは、そう声を上げて起き上がろうとしている部下のところに近付いた。

「ちゃんと受身とったな? ネオ」

「それはもちろん。・・・結構手加減なしですね」

 ひねられて少し赤くなった腕をさすりながら、ネオはフィリウスを見る。少女は苦笑して、ごめんなさいねと謝る。大丈夫ですよと首を横に振って、ネオはグランを見上げる。

「試験終了・・・ですか?」

 ああと頷いたグランは、真面目な騎士の表情をしてフィリウスを見やる。

「フィリ、俺が教えられるのはここまでだ。いざその時に慌てず対処できるよう、ちゃんと復習はしろよ」

 フィリウスは、ありがとうございますと笑った。グランの指南はひとまず終了である。

 ――護身術を教えろとユリウスがグランに命じて、フィリウスがそれを習い始めて約二ヶ月。フィリウスはどこに行っても良い生徒であり続け、護身術程度ならもう完璧だ。これで剣を使うとかいうことになったら話は別だろうが、あくまで宰相の弟子であるフィリウスが騎士に混ざる予定は、今も未来にもない。

 諸々の成り行き上フィリウスの相手・・・つまりは痴漢とか強盗とかの役をしていたネオは、フィリウスと何か二言三言交わすと去っていった。それを見送って、二人は見合う。

「では・・・やりましょうか?」

「ああ、そうだな。やろう」

 好戦的に口角を上げる二人を誰かが目撃したら、一体何事かと思うだろう。基本猫かぶりなフィリウスはともかく、グランも第一騎士隊隊長としての肩書きがあるため、職務には忠実だ。その二人が、これからいたずらをする子どものような顔をしている。

 ちゃんと話してみればなかなか気の合う二人は、出会いの悪さなどすでに帳消しにして、今から、馬に乗りに行く。

 

 事の起こりは三日前。厩にいるところをグランに発見された。その時フィリウスは先日買った鹿毛の馬――バルと名付けた――の世話をしていた。

「なんでこんな所に? ・・・って、お前その馬、自分のか? え、乗れるのか?」

「あらグラン様、こんにちは。・・・私、カディアの出身ですよ? 忘れていませんか?」

 ・・・そんなこんなで会話が弾み、数日後の護身術の試験終了後、早駆けの勝負をしようと、まあそんなことになったのである。

 騎士団寮の裏手に、広大な空き地がある。申し訳程度の手入れしかされておらず、雑草がぼうぼうと茂っている。樹木はなく、見通しは良い。騎士団全体で総合演習をする場合などに使われ、普段は使われていない。馬を走らせるには丁度いい空間だ。

 グランは自らの愛馬である赤毛の大きな雌馬――アリデシアを、フィリウスはバルを連れて、そこに来た。

「アリデシア! そう興奮すんなって」

 アリデシアは気性の荒い馬らしく、早く乗れ、早く走らせろといった様子で足踏みをする。対してバルは、フィリウスの胸にその面を押し付けて、機嫌良さそうに鼻をひくひくさせ空気を嗅いでいる。

「その子はすごく、せっかちみたいですね?」

「お前の馬がのんびりしすぎてんだよ。というか、こんだけ近くに他の馬がいるってのに、全然怯えないんだな」

 怯える要素がないのでしょうと答えて、フィリウスはバルの鼻を撫でる。やはり思った通り、賢い馬なのだと実感する。敵意をちゃんと見分けられるらしい。

(本当、良い買い物をしたわね)

 長年馬と暮らして培った審美眼は、一年やそこらでは曇らないようだ。

 風が足元を揺らして過ぎる。わずかに髪がたなびく。少し空に目をやる。気持ち良い、からっとして暖かな日射し。バルに乗って、行けるところ走ってみたい気持ちになった。

「・・・始めますか?」

 そうだなと返事をするグランに微笑みかけ、フィリウスはバルの背に乗った。

 この荒地の、端から端へ。折り返して往復で勝負する。

「1、2、3・・・はいっ!」

 掛け声とともに両者馬を走らせる。――走る、走る。風を切って走る。

 行き、アリデシアはバルより少し手前を走る。そのまま折り返し、瞬く間に近付くゴール。小回りがきくバルはターンの時にアリデシアと並び、なおかつ荷が軽いために徐々に先行していく。後押しするように、フィリウスがぐっと身を屈めて速度を上げる。

(速いっ・・・! 負けるか?!)

 拮抗状態の中ほんの少し前に出たフィリウスに負けを覚悟したグランは、ゴール直後に思わず声を上げる。

「え・・・、何だ?」

 ――先行したのはフィリウスなのに、勝ちは、グランのものだった。

「おい?」

 何が起きたか説明を求めてフィリウスを振り返ったグランは、その顔を一目見て事情を把握し、怒りを露わにする。

「お前・・・わざとか!」

「残念、負けてしまいました。あれだけ声援をもらっていれば必ず勝てると思いましたのに」

 大声を張り上げようとしたグランに冷水を被せるような声音で、フィリウスは笑いかける。その視線はグランの背後を見ている。振り返り、あからさまに顔をしかめる。

「あいつら・・・いつからだ」

 騎士団寮の窓から、二十人ほどの人間が顔をのぞかせていた。

「はじめからいたようですね。・・・迂闊でした」

 悔しそうな言葉に驚きフィリウスへと視線を戻せば、珍しくぱっと見わかるほどに残念そうな表情。グランは一気に冷静になる。何故手を抜いたと怒りそうになったが、好きで負けたわけではないのだ、と。

(そう、だよな。俺の立場を考えれば、部下の前で、宰相の弟子ごときに負けるわけにはいかない。だから・・・)

 フィリウスは、負けてくれたのだ。第一騎士隊隊長としてのグランのために。

(ってことは・・・全面的に、俺が悪いのか)

 手を抜かせてしまったのは、グランの実力不足のせいだ。

「・・・悪い」

 申し訳なくなって謝ると、フィリウスはため息をついた。

「仕方ないことですから。でも・・・」

そこで言葉を止める。グランは少し首を傾げて先を促す。フィリウスは茶目っ気たっぷりに微笑みながら、

「・・・今度は負けませんよ。自分の威厳を守りたかったら、努力してくださいね。隊長様」

 こちらに負い目を感じさせない軽い口調でウインクした。耳に痛い言葉をグランは、

「・・・精々精進する」

 苦笑いで受け止め、大きくため息をついた。

(まさか、騎士が、年下の少女に負けて、その上気遣われるなんて・・・本当に落ち込むな)

 それ以前の問題として、男としての尊厳が揺るがされたようで、しばらく立ち直れない気分になるグランだった。




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