宰相の弟子

グレフィアス歴646年   6





 ここ数日の季節はずれの熱気に、フィリウスはすっかり参っていた。誰が見ても一目で異常を感じ取れるくらい、血の気が引いて白い顔をしている。

「フィリ、いいから休んでいなさい」

「いえ、先生。大丈夫ですから。お気になさらず」

「気にしますよ。全く、何でそんなに働きたがるのですか? 貴女が一日や二日休んでも、私にはなんの支障もありませんよ。倒れられでもした方が迷惑です。・・・ほら、強情張らないで、休んでいなさい」

「いやです」

「・・・全く」

 ユリウスはすでに万策尽きていた。どうしたらいいんだろうこれ、と投げやりに、しかし放っとくわけにもいかず何度も休むように言い含める。しかしフィリは聞き入れず、頑なに働きたがる。

(・・・働くのが好きとか、任された責任は真っ当するとか、そういう思いだと思っていたのですが、違う、ようですね)

 一年間ほぼ毎日一緒にいて、ようやく気付くようなフィリウスという少女の行動理念。真面目で頑固な少女のそれが、まるで誰かに脅されているかのようであること。さながら、一種の強迫観念だ。

(何か、隠して、いるのでしょうか? それとも、逃げて・・・、いるのでしょうか)

 追い詰めて、ぎりぎりまで追い詰めて追い詰めて、ようやく自分というものを保っているような危うさ。フィリウスの、特徴的な行動。

 書類を受け取ってきますと部屋を出て行く姿をユリウスは無言で見送り、長いため息をつく。と同時に、扉の向こう側で凄い音がして、悲鳴が聞こえた。顔を顰めるより早く立ち上がって扉までの短い距離を走り、勢いよく開ける。

「フィリ?!」

 そして珍しく大声を出す。扉の前で呆然としているのは、フィリウス付の侍女であるシリカ。彼女は大きく目を見開いて、口元にやった手が傍目にわかるほど震えている。

「一体どうしました? フィリは・・・」

 シリカの横に並んで階下を見て、ユリウスもまた目を見開いた。

「フィリっ」

 名を呼んで駆け下りる。踊り場に、フィリウスがうつぶせで倒れていた。そしてその下敷きになっている、青年。頭か腰でも打ったのか、身動きするも起き上がらない。一瞬誰かと思うが、すぐに見当がついた。ユリウスが自分で呼んだ人物だったからだ。

「レガート様、ご無事ですか?」

 青年――レガートはその声に反応して、ようやくゆっくりと半身を起こす。それを手伝いユリウスはレガートの横にしゃがみこむ。同時に素早くフィリウスの様子を見定め、気絶しているだけだとわかりほっとする。

「お怪我は」

「いいえ、大丈夫です。・・・まさか、階段の上から人が落ちてくるなんて、驚きました。ユリウス様、この子は?」

 レガートは自身の腕の中でぐったりしているフィリウスを抱え直し、階上を見上げ、ついでユリウスと視線を合わせる。ユリウスは安堵の苦笑いをして、

「この子が、私の弟子のフィリウス・ラウルです。早速ご迷惑をおかけして、本当に申し訳ありません、レガート様」

 ユリウスの紹介に、レガートは驚いた。この子が? と思わずといったように声を上げて、抱えたままのフィリウスを見つめる。

「こんな・・・話には聞いていましたが、まだ年端もいかない少女ではありませんか」

 若干非難めいた口調に自分でも気付いたのだろう。言い切ってからあっという顔をして、申し訳ありませんと謝る。そんなレガートからフィリウスを受け取り、ユリウスは立ち上がる。ゆっくりと立つレガートから目を離さないまま、ゆるく首を横に振った。

「いえ、気にしませんよ。事実ですから。・・・ただ、この子は逸材です。宰相としての才能は、私のそれを上回るかもしれません。だからこそ、貴方をお呼びいたしました」

 レガートは重々しく頷いて、すっと目を細める。その細い体のどこから醸し出されるものか、うっすらと笑いを浮かべたレガートは、いまやユリウスに勝るとも劣らない威厳を身にまとっていた。

「ええ、そういうお話でしたね。・・・今日はラドアリア家当主として参りました。詳しくお話をうかがいましょうか。宰相様」

 ユリウスは同じく薄笑いで頷き、まだ階上でおろおろしているシリカを呼んだ。

「丁度いいですから、フィリはこのまま休ませておきましょう。シリカ、ミスティア様を呼んできていただけますか? 部屋に寝かせておきますから、診察してもらってください」

 我に返った様子のシリカは、はいと返事をして、二人の横を走って階下へ消えていった。その後をゆっくりと、二人も下りる。二階にあるフィリウスの部屋の扉をレガートが開け、ユリウスがベッドに優しく横たえる。青ざめた頬を触ると、随分と冷たい。

「全く・・・どうしようもない弟子で、困ります」

 独り言のように呟くユリウスを、レガートは背後から静かに見つめていた。




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