グレフィアス歴647年 10
静寂の夜に向けて、年明けの鐘が鳴った。 闇を照らすカンデラの火が、反響する音につられて揺らめく。今年も、静かに明ける年。一人行く夜道の先には、帰るべき家。 孤児院からの帰りの道だ。・・・多すぎる額の金を院長への手土産に、リディエールと会った。友達ができたと嬉しそうなその表情に子どもの順応性の高さを知り、ほっとした。夕頃に着いたのだが夜になるまですっかり話し込んでしまい、結局夕飯まで同席し、年が明ける前にと孤児院を出て、今はラドアリア家への道である。 しんしんと冷え込む冬の夜。かじかむ指に息を吐きかける。深夜には雪でも降るかもしれない、そんな空模様だ。 一人の道は、夜をさらに暗く重く思わせ、鐘の音を聞きながら色々考えてしまう。――明日のこととか、昨日のこととか、ずっと先の未来のこととか、ずっと遠い過去のこととか。考えても何も起きない、変わらないことはわかっているが、自分が生きてきた分だけの蓄積が、それらを見せる。 カンデラの灯が、フィリウスの周りを照らしている。と、前方に、同じような明かりが二つ揺れ、近付いてくるのに気付いた。 「・・・フィリウス?」 明かりが名を呼ぶ。はい、と答えて早足で寄れば、二人の男がそこにいる。 「先生、ハイレン様。どうなさったのです?」 ユリウスは微笑を、オルグは渋面をもってフィリウスを迎える。訊けば、貴女を迎えに来たのですと、ユリウスが答える。 「迎えに?」 「ええ。貴女のような少女が夜道を一人では危ないと、オルグ様に言われまして。ちょうど私も、今日くらいは帰ろうと思ったところでしたし」 そう言われ目を丸くしてオルグを見れば、頬をやや赤くして明後日の方向を見ている。からかってやろうかと思わなかったわけではないが、口から出たのは、 「別に、いつものことですから、大丈夫ではあるのですけど・・・心配なさってくれて、ありがとうございます。ハイレン様」 純粋な感謝の言葉。オルグは、うむと一言唸っただけだが、その頬はさらに赤みを増したようだった。 三人、連れだって歩く。一番家に近いのはオルグ、次いでユリウス、そしてフィリウス。歩調を落とし、ゆっくりと進む。三人の間に言葉はなく、ただ静かな時がたゆたっている。 「・・・孤児を一人、引き取ったらしいな」 その静寂を破ったのは、オルグだ。質問はフィリウスに向けて。はいと答える。オルグは続けて、 「どうだ」 そう何とも答え難い問いを投げる。フィリウスは困惑顔で、 「どうだと言われましても・・・その孤児についてでしたら、全く寂しくないわけではないようですが、院内で友達もできて、順応しているようですが」 そう答えたフィリウスを、厳つい顔が睨む。 「違う。・・・お前のことだ」 フィリウスはさらに困惑の度合いを深めた表情で、私ですか、と首をひねる。 「私は・・・特に何の変化もなく、普通ですが」 オルグの表情はさらに厳しくなる。本気で何を聞きたいのかわからないために、さらに首をひねってみる。しかしわからないものはわからない。困った様子のフィリウスを見て、オルグは睨むのを止める。そして、言いにくそうに、低い声で、 「お前のような若い娘が、子ども一人保護するのは、楽ではなかろう。それに・・・その孤児院には、あの青年の、弟が、いるのだろう」 フィリウスの表情が、一瞬固まった。 「・・・」 ほんの一瞬で顔の硬直は戻ったが、言葉が出てこない。色々な感情が喉につかえて、言うべき言葉が言えない。“大丈夫ですよ”。一言そう言えばいいだけなのに、口を開いても言葉が出ない。 「・・・すまん。思いださせたか」 オルグは視線をユリウスにやり、ユリウスは無言で頷くと、フィリウスの背をぽんぽんと叩く。 「フィリ」 ただ、名を呼ばれる。それだけで、いつの間にか強く握りしめていた拳から力が抜ける。 ――ちょうど一年ほど前の事件で、フィリウスを守って死んだ青年。その弟は今、リディエールと同じ孤児院で暮らしている。フィリウスは、その子の保証人にはならなかった。いや、なれなかった。弟は現在、保証人のいない孤児として、特例で孤児院にいる。 「フィリ」 もう一度ユリウスに名を呼ばれ、フィリウスはようやく一言口にする。 「・・・いじわるです、ハイレン様」 オルグは何も答えず、痛ましい者を見るような目で、フィリウスを見やる。 「・・・騎士は、守るべき者のために命をかける。あの青年も、そうであったのだろう」 慰めのつもりかそう言ったオルグに、フィリウスは表情がわからないように下向き、小さな声で言う。 「ハイレン様は、騎士ですから、そう、お思いでしょう。・・・でも、守られた者には、その命は、重いのですよ」 オルグは、口を開いて閉じ、ため息の後、声を絞り出す。 「それでも騎士は、守る。・・・その命をとしてでも、守るべき、者がおるのだ」 フィリウスはうつむいたまま、なお小さな声で、呟くように言う。 「でも。あの人は、守るべき人を・・・きっと、間違った」 それに何がしか反論しかけたオルグを、ユリウスは首を横に振り止める。 ・・・それからは、もう誰も口を開かなかった。 それから三人は終始無言で、帰途につく。オルグと別れる際、フィリウスは頭を下げる。 「ハイレン様。・・・ありがとうございます」 そして微笑む。オルグはその頭を軽く叩いて、叩かれたことに驚き視線を上げるフィリウスに、柔らかな苦笑を浮かべる。 「・・・たまには、想いを外に出してやるといい。何もかも抱えたまま頑張る必要は、どこにもないだろう」 きょとんとしていたフィリウスは、その言葉に息を呑む。オルグはそれ以上フィリウスの様子を目に入れることなく、ではな、と去っていった。 ユリウスは、言葉もないフィリウスの肩を押し、各々の家に向かってさらに歩く。 二人の間に言葉はなかった。夜道を二つ分の明かりで照らしながら進み、やがてそれが一つずつに分かたれる。 「ああ、そうだ、フィリ」 ユリウスはふと思いついたかのように、声を上げる。いまだ混乱したままの視線を向けたフィリウスに、ふわりと微笑む。 「年が明けましたね。・・・今年も、よろしくお願いします」 フィリウスはややあって、同じように優しく笑う。 「ええ、先生。・・・今年も、よろしくお願いします」
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