グレフィアス歴647年 2
花の園の乙女。一般に“花の乙女と騎士の物語”と呼ばれるそれは、こんな話である。 ――あるところに、一人の乙女がいました。乙女は、美しい花畑に暮らしていました。花々は虹色で、ずっと遠くまで続いているのでした。 毎日が穏やかな花畑に、ある日、一人の巨人が現れました。巨人はその大きな足で花を踏みつけ、踏まれた花はかわいそうに、ぺしゃんこにつぶれてしまいました。乙女は巨人に頼みます。お花を踏まないで。けれど巨人は乙女の頼みをきかず、それどころか、乙女を花畑から無理矢理連れ出してしまいました。それを悲しんだ花々は、たちどころにしおれてしまいました。 そんなある日、一人の青年が花畑を通りがかりました。青年は一面に茶色くなってしまった花々を見て、これは一体どうしたことかとうさぎに尋ねます。うさぎは答えます。乙女が巨人にさらわれて、悲しみで枯れてしまったのです。それを聞いた青年は、乙女を助けるために巨人の下へ向かいました。 巨人の頭は青年の三倍も上にあり、手も足も青年の背丈ほどもありました。青年は傷だらけになりながら、どうにか巨人を倒し、乙女を助けだしました。 乙女が花畑に戻ると、花々はまた元のように美しく咲き誇りました。そして青年は、もう二度と乙女がさらわれることがないよう、乙女の騎士となりました。花の乙女と騎士は、それからずっと、花々に祝福されて、幸せに暮らしましたとさ―― 色とりどりの花が咲く花畑を舞台とするこの物語は、実に春に相応しい話だ。さらにこの物語は、一般に語り継がれていて多くの者が知っている。春の訪れを祝う祭典にしたいというレイの言葉と、この物語に着目したフィリウスの、合体技が今回の祭りを作った。 花の乙女と騎士になる二人は、順位ではなく花の数で決める。人々が、これぞというペアの前に一人一輪、花を置き、その数が五十を超えた全てのペアが代表となるのだ。花は色も種類も様々で、集まれば集まるほど、一層華やかで芳しい。 昼前。初めの一輪が置かれてから、そろそろ一時間も経つ頃。フィリウスとアルゼの前には、すでに二百本近い花が置かれている。すでに選ばれることは明白だが、それでもなお、二人の前に花を置く者が絶えない。・・・そして驚くべきことに、全てのペアの前に、五十本以上の花が山となっていた。全員が花の乙女と騎士に選ばれたのだ。ペアの数は、三十ほど。公平さをもたせるため、またペアを組まなかった者も参加出来るようにと投票形式にしたのだが、やはり選ばれる者と選ばれない者が出るのは嫌なもの。投票者達も気を遣ったのかもしれない。主催者の一人としては、そんな人々の心は嬉しい限りである。 ともあれ、これでようやく、花の乙女と騎士の祭典の一番のメイン、“春告げ”が行われることとなる。 昨日よりも、人々が浮ついている気がする。その空気の中に立って、フィリウスはとても穏やかな心持ちだった。 誰かが、幸せそうに笑っている。それを見ている誰かも、幸せそうに笑う。・・・アルゼがゆったりと微笑んでいる。だから、フィリウスは幸せに思う。 「アルゼ」 意味もなく、名を呼ぶ。それに答えて、何? と首を傾げるアルゼを、もう一度呼ぶ。アルゼは笑う。 「何だよ? フィリ」 アルゼもまた、フィリウスの名を呼ぶ。それが嬉しくて、微笑む。 「アルゼ。・・・私、貴方とペアを組めて、本当に嬉しい」 アルゼは一瞬きょとんとした顔をしてから、破顔する。 「それ、口説き文句? ・・・勿論、俺も嬉しいよ。ありがとう、フィリ」 ――誰かがそばで笑っていてくれることの、なんと幸福なものか。フィリウスは、また一つ幸せを知った。 その想いを伝えるように、春を告げる。寒く厳しい冬を越え、訪れる明日を謳う。ひとが何もしなくとも、季節は巡る。でもひとは、春を祝うもの。フィリウスは、花をまく。人々の頭に降りかかる、虹。花の乙女と騎士達が、祝福の花を人々の上に降らせる。 この花をまく“春告げ”こそが、この祭典の最大の見せ場だ。そして、リアリスとレイはこの時に姿を現すことになっている。花の乙女と騎士達に混ざって、春を告げるのだ。今回はそれを見届けるだけが仕事だと、フィリウスは半ば思っていた。けれど今は、この祭典に参加できてよかったと、機会をくれたレイに感謝の念が積もる。 ・・・そのレイとリアリスが、そろそろ姿を現そうとしていた。 リアリスとレイの警備のためにそのすぐ背後へ控えていたグランは、真ん中に人々を囲う形で一段高く作られた円型の段のグランから見て右の方に、フィリウスを見つけた。いつもは一つにしている髪を下ろしていて、あんなに長かったのかと思う。緩やかに波打つそれはひと際赤く目立ち、簡素な白いドレスと素朴な青い花が、元から美しいフィリウスを一層華やかに飾っている。何より、その輝かんばかりの笑顔。普段よりなお、綺麗に見えた。 さらには、その隣にいる青年。こちらがまた素晴らしい美形だ。フィリウスと同年代に見えるが、短い髪のせいで幼く見えるだけかもしれない。深い青の瞳は思慮深げで、まかり間違ってフィリウスが段から落ちたりしないよう、さりげなく半歩前に出ている。二人の手は緩くつながれ、その体の間は拳一つ分しかない。時々二人顔を見合せて、何事か笑いあったりしている。 (・・・何を、喋ってるんだろうな) グランはしばらく二人を凝視していたが、やがてほんの小さなため息一つ、目を離す。 そして、美しい姫君と王子の登場。二人のお披露目に沸く人々は、リアリスとレイがまいた花を追って右へ左へしていたが、十分も経てばその熱は少し引いた。・・・そんな時。 ワァーーーーー! 突然、キャアともワアともつかない悲鳴が上がった。 「っ?! 二人とも下がれ!」 すかさずリアリスとレイを背後にかばったグランは、周囲に視線を走らせる。人々の半分ほどはグラン同様方々を見やって、悲鳴の出所を探している。後の半分ほどが、皆同じ方向を見ている。そちらに目をやったグランは、目を見開く。 「・・・あら、フィリ!」 同じくそちらを見たレイが、グランの後ろから驚いた声を上げた。 ドレスの裾でも引っかけたのか、フィリウスが段から落っこちている。青年はその下敷きになっている。頭を打った様子の青年の上から慌ててどこうとするのを、青年がぎゅっと抱いて引き止め、何か一言。・・・二人の唇が、軽く、重なった。 キャアーーーーー! 先ほどよりも大きい、黄色い悲鳴が、上がった。 呆然としたフィリウスの頭を青年が撫で、安心させるように微笑み、何か囁く。それに応えるフィリウスは、次の瞬間、満面の笑み。・・・もう一度、自分から、青年とキスをした。 あら、ともう一度上がったレイの驚いた声は、グランの耳を右から左へ素通りした。 ・・・この日一番熱くなった会場に、ひと際響く声が、春を告げる。 「乙女から皆さまに祝福を!」 場の雰囲気にのまれて、非常に恥ずかしいことをしてしまった。フィリウスは赤面してうつむきながら、風見亭女将や周囲にはやされ、アルゼや風見亭主人になぐさめられていた。 まさか、転ぶとは思わなかったのだ。しかもアルゼを下敷きにして。反射的に泣きそうになったのを、アルゼがあんな方法で止めるとも思っていなかった。触れるだけのキスに、自分が応えるとも思わなかった。そしてきわめつけに“私達が花の乙女と騎士に選ばれたのも何かの縁。良い年となるように、乙女から皆さまに祝福を!”なんて軽く演説である。目立つ気自体、さらさらなかったのに。そんな気はなかった、思わなかった、の連発である。もう恥ずかしいやら落ち込むやらでどうしようもない。 「やるじゃないの、フィリ! ほれぼれしちゃったわよ、もう!」 「あんなこと、する気じゃなかったの・・・。お願いだから、忘れて」 「どうして? そんな落ち込む理由、一つもないじゃないの!」 「・・・ケイ。お前同じ女なのに、なんていうか」 「何よ、ジェン。文句でもあるの?」 「・・・図太いっていうか」 「何ですって? もう一度言ってごらん?」 「・・・何でもない」 横で繰り広げられる痴話喧嘩はともかく、ケイと同じように幾人かは恥ずかしがる理由はないと言い、また幾人かはいい仕事をしたよ、大丈夫だよと言う。色々な方向から宥めすかしてみるのだが、フィリウスには効かない。しょうがないから酒でも飲ましてみるが、やけに強くて酔いもしない。 ――あの騒動の後。他の者達と共に花をまき終わったフィリウスは、群衆の誰かに“シアンの乙女”と呼ばれたところではっと我に返って、半狂乱に陥った。顔を真っ赤にしてどこかに走り去ろうとしたフィリウスを捕まえたのはアルゼで、そのパニックぶりに心配になった風見亭の主人が、二人を店まで連れてきて今に至る次第だ。 シアンの乙女。フィリウスには、そんな二つ名ができた。シアン、春になればどこにでも咲く、青い小さな花だ。雑草である。赤髪で見目のよい、はっきり言って目立つフィリウスには似合わないように思えるが、これがどうして、その小さな青はフィリウスの美しさに拍車をかけた。 フィリウス自身、光栄なことだとは思う。シアンの乙女と、笑顔を向けてもらえるのは素直に嬉しい。けれど、自分がしたことがどうしても信じられなくて、嬉しさよりも恥ずかしさが先に立つ。 (ああ、もう・・・どうしよう) 段から落ちて、アルゼに抱きしめられて。キスを、されて。屈託なく、怪我はない?と笑うから、応えて、つい・・・キスを。 さらりとした前髪とか、震える長い睫毛とか。柔らかな唇の感触や、抱きしめる腕の強さ。ふとした瞬間に思い出して、もうどうしようとしか考えられない。落ち着けと差し出されるお酒に手を伸ばして、どうにか落ち着こうとしているけれど。 (無理。絶対無理) ・・・男性とのキスは、初めてではない。でも、自分からしたのは、初めてだった。 星が瞬いている。夜気には早くも春の気配があり、月の光をのせた風が街を駆け抜ける。こんな時間になっても街には活気が溢れている。花祭りは明日まであるが、夜まで騒いでいられるのは実質今日で最後だ。その後は、単調だが幸せな、普段の日々に戻っていく。 夜道を、青年が一人歩いている。その足取りに淀みはなく、しばらく歩いて、一軒の食堂の前で立ち止まる。中からは人々が陽気に騒ぐ声がする。青年は扉を開く。酔っぱらいのただなかに足を一歩踏み入れて、早速足元に絡んでくるおじさんを無視して店内を見渡す。目当ての者を右奥のカウンターに見つけて、無造作にそちらに歩み寄る。その途中、ようやく青年の来店に気付いた女将が声をかけた。 「お客さん、いつ来たんだい? すまないね。この状況で、気付かなかったよ」 「いや、飲みに来たわけじゃない。・・・迎えに来ただけだ」 「迎え?」 「ああ」 青年・・・グレイルは、カウンターに辿り着いた。カウンターに突っ伏しているフィリウスの横に座るアルゼに、話しかける。 「俺、そいつの兄、なんだけど。連れて帰っていいか?」 声に応じたアルゼは、はいともいいえとも言わないで、微笑する。 「・・・兄、か。似てないね?」 「血は繋がってないからな」 「ふぅん。・・・俺、アルゼ・クルス。君、名前は?」 「グレイル・ラド」 「グレイル・・・ラド、か。なあ、少し飲んでかないか?」 「・・・ちょっとだけな」 グレイルは少し離れたところで様子をうかがっていた女将に一杯注文し、フィリウスを挟む形で腰かける。女将はすぐ酒を持ってきて、それに一口つけるとすぐ、グレイルは話を切り出した。 「アルゼ。こいつ、楽しくやってたか?」 「きっと楽しんでもらえたと思うよ。俺も楽しかったし。・・・ちょっと手を出しちゃったけど、怒らないでくれよ? グレイル」 「手を出したって・・・何やったんだ?」 途端剣呑になるグレイルに苦笑を向け、キス、と短く答える。 「きす? ・・・って、お前! 無理強いしたんじゃ」 「無理強いはしてない! 命かけるよ。・・・途中でフィリ、段から落ちてさ。俺、支えきれずに下敷きになって、それで泣きそうだったから思わずキスしちゃって。その直後にフィリも返してくれたんだけど、どうも反射に近いものだったみたいだ。そのせいで随分混乱させちゃってね。この通り、潰れてるわけ」 アルゼの視線の先に、突っ伏し寝ているフィリウス。グレイルは呆れてため息ついた。それを不機嫌の表れととって、アルゼもまたため息をつく。 「悪かったって。俺としては、安心させたかっただけなんだ。・・・もちろんフィリが可愛かったから衝動的に、ってのも否定しないけどさ」 ウインク一つ、茶化してみせるアルゼ。グレイルは苦笑いして、怪我は、と訊く。たんこぶ一つ、と返したアルゼの前に銀貨を一つ投げる。 「治療代。釣りはいらないから」 「気前いいね」 「給料いいからな。俺、騎士だし」 「へぇ・・・そうは見えないけど」 もう一度苦笑いしたグレイルは一気に酒を呷り、カウンターの上に酒代の銅貨を一枚置き、完璧に意識を失っているフィリウスの体を難なく背に担いだ。 「もう帰るのか?」 「悪いな。・・・心配症の保護者が、こいつの帰りを待ってるんだ」 それを聞いたアルゼは、優しく笑う。 「じゃあ、しょうがないか。早く帰ってやらないとね。・・・また会おうって、フィリが起きたら伝えといてくれるか?」 ああ必ず、とグレイルは頷く。そして、じゃあなと扉の向こうに去っていった。 ドアまで送ったアルゼは、しばらくその背を見つめていた。 「・・・グレイル・ラド、ね」 うっすらと微笑みながら。 帰ってきたフィリウスがグレイルの背で寝こけているのを見て、レガートとサジタスは苦笑する。レガートにいたっては頬をつんつんと突っついたりもしたが、フィリウスは起きない。結局そのままベッドに寝かされた。 三兄弟はまだしばらく起きているが、とっくに眠りの世界のフィリウスは、夢の中でどのように過ごすだろう。どのようなものであるにしろ、きっと幸せな夢であるには違いない。
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