宰相の弟子

グレフィアス歴647年   4





 家族って何だろう。

 

 必要なのは、血の繋がり? 血が繋がっていても、家族足りえない人もいる。

 ならば、絆の強さ? それだけでは、補いきれないこともある。

 同じ家に住めば、それは家族か。たとえ互いは他人であっても、一緒にいるならばそれは家族か。

 ・・・家族って、何だ?

 

 

 

 花祭りの後、月が変わった一日目の朝。

「先生。・・・一月ほど、休暇をいただけませんか」

 フィリウスは前触れなくそう切り出す。

「・・・突然ですね。理由を聞きましょうか」

 書類をめくる手を止め、ユリウスはフィリウスを見る。珍しいことにフィリウスはわずかな笑顔すら浮かべず、一度ゆっくりと瞬きをして、それから、

「里帰りを・・・したいと」

 そう、言った。

 

 車輪が石を踏むたび、馬車はがたり、ごとりと大きく音を立て傾く。乗合馬車の幌荷台の中には十数人の人々が乗り合わせて、ある者は親しげに会話をし、ある者は膝を抱えて眠っている。

 その中にフィリウスもいた。右を商人の男性に、左を中年夫婦に挟まれ、ぼろぼろの肩掛け鞄を膝に乗せて、ただ静かに目を閉じている。

 この馬車が向かうのは王都の北にある都市ガンデナ。ガンデナに行くためには王都から山一つ越えてなければならず、馬車でも五日ほどかかる。その山には今はもう廃れた鉱山があり、最盛期にはそこで採れた鉄を使って剣や鎧が作られていた。・・・今から二百年ほど前の、戦時のことである。現在ではもうクズ鉄しか採れないが、街並みはその当時の名残を色濃く残し、別名“要塞都市”とも呼ばれている。

 ガンデナは北のマルカート国に一番近く、東のゼィレム国に通じる街道にも通じる。王都との間に山があることは難点だが、この山道は馬車が通れるほどに整備されていて、今は立派な商人の街となっている。

 フィリウスの故郷カディアに行くには、ここを通過するのが普通だ。カディアは、ガンデナの北、マルカート国との境になっているガエト山の麓にある小さな街で、マルカートに向かう商人達がここを途中の休憩場所としていくこともある。良くも悪くもこれといったものがなく、厳しい冬さえなければ穏やかな田舎だ。

 

 五日後の昼過ぎ、馬車はガンデナに到着した。フィリウスはまず初めに宿をとり、それからすぐ買出しに出かける。数日分の非常食に、山越えのための装備、薬、火打ち石、ナイフなど、必要最低限なものをなるべく荷物が少なくてすむよう選んで買う。それらは何とか鞄に収まった。

 夕方宿屋に戻ると、二階の部屋に荷物を置いて鍵をかけ、一階の食堂に食事をとりに降りる。まだそれほど混んではおらず、二人掛けのテーブルに腰かけて食事を待つ。徐々に混み始めて、ほどなく席はほとんど埋まった。フィリウスは店員から相席を申し出され承諾する。どうせ食べ終わるまでのこと、話しかけられても、適当に話を合わせていればいいのだ。

 けれど、案内されてきた男を見て、驚いた。思わずまじまじと見つめてしまうと、男は白い歯を見せて笑う。

「そんなにこの傷が珍しいかい、お嬢ちゃん」

 フィリウスは自分の不躾に気付き、ごめんなさいと謝る。それでも好奇心を抑えきれずに、訊く。

「その・・・それは、刀傷、ですよね? 山賊か何かに・・・?」

 男の左目のまぶたの上に、横にすっと古傷が走る。ほんの少しずれたら失明していただろう場所だ。

「まあ、そんなもんさ。俺は傭兵だからな。こんな傷、あちこちにあるぜ」

 そう言うと男は、袖をまくって右腕を見せる。手首の上あたりに、だいぶ深い、引き攣れたような傷跡がある。ついで左腕、肩、脇腹と見せていく。・・・フィリウスの背筋に、すっと冷たいものが流れる。

「・・・痛く、ないですか」

 男はさもおかしそうに、

「しっかり治ってるからな。痛くねえさ」

 斬られた瞬間はそりゃ痛いけどな、と軽く笑う。

 フィリウスの言葉が途切れると、次は男が質問をする。

「お嬢ちゃん、あんたどこに行くんだ?」

 カディアです、と答えると、男はいぶかしげに眉を寄せる。

「カディアへ、何の用だ。一番危険な時じゃねえか」

 この時分カディア周辺では、動物達は冬眠から覚め餌を探しているし、雪解けのために道はぬかるみ、崖などでは雪崩も起きる。下手をすると、雪が積もっている頃よりも危険な時期だ。

「危険、か。・・・そう、なんですけれどね。事情がありまして」

 親切心からか不審からか、顔を曇らせる男。一人か、と尋ねる。

「はい、そうです」

 訳ありとわかったのだろう。それきり口を閉ざした。

 二人の前に、同時に料理が運ばれてくる。黙々とそれを食べる。男は量がフィリウスの倍あったのに、フィリウスより早く食べ終え、そしてまだ食べているフィリウスに、こう切り出した。

「・・・お嬢ちゃん、俺を雇わねえかい?」

 一瞬動きを止めたフィリウスは、けれどそれに答えず料理を口に運ぶ。男は関せず続ける。

「事情とやらは、聞かねえよ。ここで会ったのも何かの縁だろうし、このまま放っといて怪我されたりすんのも寝覚めが悪いしな。ちょうど今仕事を探してたんだ。格安にしといてやる。・・・どうだ?」

 しばらくして、ようやく料理を食べ終わったフィリウスは、ナプキンで口を拭い、水を一口飲んで・・・すっと、目を細めた。

(おお・・・?)

 男は内心驚いた。それは、年若い少女が発する雰囲気ではない。もっと重厚で、強靭で、ぴんとした張りのあるもの。真っ直ぐ見つめてくる瞳にぞくぞくとする。

「・・・親切心、だけですか?他意は」

「誓って、ねえよ。言質とられるようなまね、傭兵はしない」

「値段は?」

「あんたの好きな額払ってくれりゃいい。ゼロは困るけどな。ちょうど前の仕事で大金稼いで、今は金に余裕があるんだ」

「それ・・・嘘、ですね」

 男の嘘をあっさり看破したフィリウスは、そのまますっと席を立った。

「うわ、待て待て! ちょっと待て!」

 男は慌て無理矢理引き止める。フィリウスは、簡単に嘘をつく人は信じられませんと男を睨む。即座に、悪かった、大金なんてないと謝った男は、言い直す。

「じゃあな・・・往復の分が十エル、その他の雑費で五エル。全部で十五エルでどうだ」

 それが傭兵の相場かどうかわからないが、どうにしろ随分少ない金額なのは明らかだった。ため息吐いて、フィリウスは自分から値段を釣り上げる。

「私をなめているんですか? ・・・日数換算にしましょう。一日に、十エル出します。他雑費については、計算してから揃えて渡します。いかがですか?」

 男は困ったような顔で、まああんたがいいならとぼやく。

「決まりですね。では、よろしくお願いします」

 こちらこそ、と適当に頭を下げた男は、

「お嬢ちゃん、名前は?」

 そう尋ねる。フィリウスは名を答え、貴方は? と問い返す。男はにっと笑い、名乗る。

「俺は、ザギだ。よろしくな、フィリウス」

 ・・・ザギはこうして、フィリウスに雇われた。

 

 踏みしめる雪の感触が、昔を思い出させる。その思い出のどれにもなくした姿があって、自然、歩みはゆっくりになる。

 後ろを歩くザギはフィリウスの歩調に何も言わず合わせている。それに気付いていながらも、足取りが遅くなるのをどうしようもできなかった。

 ――決意は、行動を招く。特にフィリウスの場合、行動するために決意したと言っても過言ではない。今さら、後ろになど戻れるものか。しかし心というのは複雑なもので、迷って悩んだ末に選んだことにすら、後悔は容易く生まれる。

 ガンデナからカディアまで徒歩ならば通常半日近くかかる。雪ならばその二倍以上だ。そのため、馬二頭がようやく並んで通れるほどの細い道の脇には、時折小さな山小屋がある。ガンデナから金をもらい、カディアの小屋守が管理をしている。人々は自由にそこを使ってよい。丸一日わずかな休憩をとりつつ歩き続けて、それでもやはりカディナにたどりつかなかった二人は、次に見えてきた山小屋で夜を過ごすことにした。

 扉の外で外套や靴の雪を落とし、中に入る。火のない室内は冷たく、どんよりと闇がわだかまる。ザギが鞄からランプを取り出し火をつけると、闇は逃げるように揺らめいた。

 小屋の真ん中に、焚火をできるように四角く切り取られて下に石を詰めた場所がある。隅に置かれていた木を組んで火を点けると間もなく、パチパチと炎の爆ぜる音が響く。それに耳を澄まして、二人はしばらく無言だった。

「寒く、ねえか?」

 それを破ったのは、ザギ。炎を挟んで向かい合ったまま、フィリウスの方を見ずに言う。フィリウスは頷く。また、静寂。

 それぞれ携帯食を取り出して食べ、雪を火にかけ溶かしてお湯を作る。

 ・・・夜がゆっくり更けていく中、ザギがまたぽつりと口を開いた。

「・・・このまま進んで、いいのか?」

 意図を取りかね不思議そうに首を傾げたフィリウスは、思った以上に真剣なザギの瞳をぶつかって、どきりとする。

「・・・勿論です。どういう意味です?」

 ザギは視線を外して、いいならいいんだと呟く。

 それ以上二人の間に会話はなく、夜はゆったりと過ぎていった。

 

 翌日の夕方、カディアに着いた。フィリウスは宿に荷物とザギを置いて、一人、街を行く。

 見慣れた、けれど懐かしい、風景と道。フィリウスに気付いて声をかける知り合い、声をかけない知り合い。如実なその違いをどう思うわけでもなく歩を進め、一軒の家の前に立つ。灯りのない、暗い家。満足に雪も下ろされていない屋根に、つららのできた玄関。誰もいない悲しいそこは・・・フィリウスの生きてきた場所。誰も住むことのない家は、それでもまだ朽ち果てず、その姿を保っている。まるで――何かを守るかのように。今扉を開け中に入れば、懐かしい人がいる気がする。夕食の美味しそうな匂いが、家中を漂っている気がする。おかえりと笑いかける、そんな声を聞ける気がする。

「・・・帰ってきたよ、おじいちゃん」

 けれど、それは夢。たとえ扉を開けてももう会えないことはわかっているから、フィリウスはただそう呟く。

 その場を離れる。そして、きっと顔を上げ、前を向く。

 一歩一歩をしっかり確かめながら進む先にある家は、大叔母の家。フィリウスウは、もう決めたことのために、前に進む。・・・時には、それしかできなくとも。

 

 コンコンと扉を叩く。中でしていた話し声が静かになり、それから誰かが席を立つ音がする。誰だい、と問いかける扉越しの声に、告げる。

「夜分にごめんなさい。・・・フィリウスです」

 途端、椅子が引かれるいくつもの音、ばたばたという駆け足。すぐ、バンッと勢いよく開かれる扉。驚きに見開かれた目と目が合う。

「フィリウス・・・」

 真っ先に扉を開けたジル大叔母に、お久しぶりですと頭を下げる。ほぼ同時に、ジルの背後から三つの叫び声。

「フィリウス!」「フィリっ!」「フィリウスさん!」

 顔を上げると、ジルを押しのけるように顔を出す少女三人。その驚いた顔を見て気が緩み、少し、笑う。

「久し、ぶり」

 少女三人は驚き顔のまま、

「ああ、うん・・・おかえり」

 何気なく出たその言葉を聞けただけで、もういいやと・・・そう、思った。ユーリアに抱きつかれながら、絶句して口をぱくぱくさせるジルに目を向ける。

「・・・話したいことがありまして、来ました。ジル叔母さん」

 ジルは警戒を体中から放ちながら、しばらくフィリウスを睨みつける。けれど無言で頷くと、フィリウスを家に入れた。

 

 フィリウスはジルと向き合っている。そこは、ジルの三人娘――シーディア、ユーリア、モリアはおろか、ジルの夫ですら普段は立ち入らない部屋で、昔ジルの兄・・・フィリウスの祖父が使用していた部屋だ。

 ジルと彼女の兄エディの兄妹は、九歳も年が離れていた。そのためか、ジルは大層エディに懐き、エディもまた妹を可愛がった。エディは優しく真面目な少年で、ラウル家を継ぐ者としての意識も高く、将来を期待されていた。

 そんな彼が道を・・・あらかじめ敷かれていた道を踏み外したのは、十九の時だ。エディはある女性と恋に落ちて、子をもうけた。当時のラウル家当主は、結婚もしていない女性を孕ませた責任をとれと、エディをカディアから追放した。

 それから数年後のこと、妻と男の子を一人連れて、エディはラウル家の門を叩いた。

『妻が病気で体が悪く、私も仕事がありません。仕事を見つけるまででいいので、この子を預かってください。かかったお金は必ずお返しします。せめてこの子だけは』

 いくら不義の子とはいえ孫は可愛かったし、いまだ息子への情もあった。エディと妻とその子アウルは、こうしてカディアに戻った。

 アウルはすくすくと育った。その間にラウル家当主はジルへと代替わりしたが、ジルは当主の責任を放棄したエディを憎んで、親子にきつく当たった。狭い街なので、時にはばったり会ってしまうこともあり、そのたびにジルは一方的にエディを罵倒し、エディは甘んじてそれを受けた。

 アウルは彼の父と同じように、結婚せず子を作った。相手の女は出自も定かでない酒場の女で、その時アウルは十七歳だった。生まれた子は娘で――フィリウスと、名付けられた。

 アウルとその妻は、働いて娘を育てた。けれど、一年後、二人は、ガエト山の中腹にある崖から、身を投げた。フィリウス一人を残して。

 ・・・そうして、今に至るのだ。

「・・・で、何の用だい」

 ジルに声をかけられはっとする。ゆるゆると頭を振って過去を頭から追い出し、大叔母と向き合う。

「・・・お久しぶりです、ジル叔母さん」

「それは、さっきも聞いたよ。・・・用件をいいな」

 ジルはそっけない。そして、射殺してやるとでもいうように目付きだけが鋭い。

(当たり前、だよね。こんな状況なら、誰だって警戒する)

 ただでさえ、フィリウスは嫌われているから。でも今は、その普段通りな対応すら愛おしく思える。

(だって・・・)

「私は・・・」

 躊躇、する。言ってしまったら、もう戻れない。

「私、は・・・」

 ・・・いいのだろうか、これを告げて。後悔を、するのではないか?

 フィリウスは、怖くなる。けれど、結局はやや震える声で、言う。

「さよならを・・・言いに、来たんです」

 ジルの驚き見開かれる目を見ながら、ああ、言ってしまった、と。そう思った。

 

 フィリウスが裏口からひっそりと出て行った後。居間に戻ったジルは四対の目から一斉に見つめられ、ほんの一瞬たじろぐ。

「母様、フィリウスは?」

「・・・帰ったよ」

 開口一番尋ねたシーディアに硬い声で答えたジルは、椅子に腰かける。その間にも、ユーリアとモリアが戸惑った声を上げる。

「帰った? どうして、何でそのまま帰してしまったの! お母さん」

「第一、どこに帰ったっていうの? あの家? でももう、あそこには・・・」

「・・・黙りなさい。三人とも、フィリウスのことは、もう忘れなさい! いいね、もうあの子とうちは、なんの関わりもない」

「・・・どういうこと?」

「母さん、本気で言ってるの? ・・・父さん、何とか言ってよ!」

 次女と三女が両親に声を荒げるのに対し、長女は至って静かな声音で、ただ目を細めて、自らの母を見る。その視線が父親に走り、また母親へと戻る。すっと、目が据わる。

「・・・母様。フィリウスを、追い出したね?」

 シーディアの言葉に息を呑んだユーリアとモリアは、二人揃って椅子を立ち、玄関へと走る。その背とシーディア、ジルとを忙しく見比べ、おどおどする父親。ジルが目で促すと、彼は娘二人の後を追っていった。

 残った二人は、互いによく似たその厳しい視線で、相手を見やる。

「・・・前々からフィリウスを嫌っているとは思っていたけど、そんなに冷たいことをするとは、思ってなかった。母様、最低だよっ! 今はもう、あの子と血のつながりがあるのは、私達だけなのに!」

 ジルがフィリウスを嫌うから、フィリウスはジルを、しいてはこの家族を避けていた。特別仲が良かったのは、フィリウスの心を開かせるのに成功したユーリアだけだ。だから二年前この家を出て行ったフィリウスを、誰が責められよう、とシーディアは思っていた。

 長女のシーディアと子どもだったモリアは、ユーリアのように親の意向に逆らってまでフィリウスと親しくはなれなかった。それだけではない。この街の中でも、フィリウスは特殊な立場にある。物心つく頃から差別されて、それでもこの街でフィリウスが暮らしていたのは、大切な家族がいたからだ。・・・その家族がいなくなれば、フィリウスがここで生き続けていく意味は、なくなっても当然で。

「ねえ、母様。フィリウスのじい様や父様が何をしたか、私は聞いてるよ。知ってる。でもそれは、フィリウスのせいじゃないよ。・・・可哀想だよ」

 ジルは唇を噛んでその言葉を聞いていたが、沈黙の後、声を絞り出す。

「・・・お前は若いから、そうなんだろうね。でも、人生ってものは。そんな綺麗ごとじゃ、済まないんだ」

 反論しようと口を開いたシーディアを遮り、ジルは言葉を続ける。

「シーディア。お前は、私がフィリウスを追い出したというけどね。それは違う」

 ――フィリウスは自分から、私達を見限った。縁を切ったのは、あの子自身だ。

 ジルはそして、皮肉るように笑みを浮かべる。

「・・・嘘」

 シーディアは目を見開く。嘘だと叫んで否定するように頭を振るが、ジルは憐れむように、苦いものを噛んでしまったかのように、そんなシーディアを見つめるばかり。

「う、そ・・・だ」

 嘘だと、言ってほしかった。

 

 残雪の残る山。切り立った崖の向こうには空が広がり、星と、月がぽっかりと浮かんでいる。わずかにある、斜面を吹き下りる風。それに揺れる、枝ばかりの梢。そして、目の前にたたずむ影は、十字の形をして、月明かりに照らされている。

「・・・帰り、ました」

 誰が答えるわけでもない。ここに挨拶することをフィリウスに教え込んだのは、エディだ。

「お父さん、お母さん・・・フィリウスが、帰りました」

 今まで何度も、こうして墓に参った。年が明けた、“今年も良い年でありますように”。春が来た、“作物がよく実りますように”。夏の台風の後、“しばらく晴れが続きますように”。秋実りの季節、“今年の冬も越せますように”。雪崩で村人が死んだ、“ガエトの神に無事召されるように”。

(まるで、神様みたいにね)

 滑稽に思う。神に祈るように、父母の墓に参る娘。そして祖父。エディはきっと、フィリウスが両親の存在を忘れないようにしたかった。そして、エディ自身も忘れたくはなかった。

 ――ひとは、いつか心臓が止まって、呼吸も止まって、死んでしまうけれど。・・・誰もに忘れ去られた時、もう一度、死が訪れる。

「一度目は、痛くて、怖くて、つらくて、しょうがないだろうな・・・」

 でも二度目は、と微笑する。

「・・・きっと、寂しくて、悲しいんだ」

 魂という概念を、信じているわけではない。しかし、死んだらそこで終わりと、決めつけているわけでもない。

 フィリウスは崖の突端に座り込み、中空に足をぶらぶらさせながら、ただ、夜空を見上げ続ける。・・・どれほどの時間、そこにいただろうか。背後の足音にも気付かずにいたフィリウスは、突如肩にかかった重みに、背後を振り返る。

「よう、風邪引く気か?」

「・・・ザギさん」

 肩にかかった重みの正体はザギのまとっていたマントだ。ザギはフィリウスの横に腰を下ろしながら、

「何時間も帰らねえから、探しに来たぜ。何やってんだ、こんなとこで」

 探すの大変だったじゃねえかと呆れたように笑う、黒に緑の紗をかけたような目が、フィリウスをじっと見てくる。同じ色合いした髪が夜風にわずかに吹かれて揺れ、それを見て今さら、自分の両腕に鳥肌が立ち全身が震えていることに気付く。

「寒い・・・ですね」

「ああ? ・・・そんな寒いところにずっといたのは、どこの誰だよ」

 私ですねと答え、フィリウスはマントを体に巻きつける。埃っぽくやや湿っていて、かすかに汗臭かったが、まだ残っている人肌の温もりが心地よい。

 二人の間に言葉はなかった。マントを手放してザギも寒いだろうに、フィリウスが動かないから何も言わないでそこにいる。

「・・・綺麗だな」

「・・・ええ」

 ただ、夜空を見つめながら。

 

 そうこうしているうちに、空が明らんできた。ほどよい太さの月は沈みかけ、星々の瞬きも弱い。ザギは驚き時間を確かめる。いつの間にと思いながら横を見ると、フィリウスが大きな欠伸をして、立ち上がる。

「朝ですね。・・・じゃあザギさん。宿に戻って、荷物を持って、ガンデナに戻りましょうか。もうここには、何の用もありませんから」

 微笑む横顔は、昇りゆく朝の光に向かっている。作り笑顔では、ない。朝の訪れを喜べるのは、紛れもないフィリウスの強さ。

 ザギは何も訊くことなく、わかったと頷いた。

 

 朝日が昇ると同時にカディアを去り歩く。昼前に季節外れの雪が降り始め、それは勢いを増していく。二人はガンデナ手前にして、早めにその日の行程を切り上げた。

「よく降るな、こんな時期に。今年最後の雪か?」

「きっとそうでしょうね。・・・困ったな、積もるかな。本格的な雪支度はしてないのに」

「まあ、平気さ。止むまで待てばいいだろ。どうせすぐ止むさ」

 けれど、雪はなかなか止まなかった。夜を山小屋で明かす。

 ・・・次の朝、まだ雪は降り続いている。ザギは寝ていて、フィリウスが先に目を覚ました。そして起きると同時に、体の異常に気付く。熱い。

(・・・風邪? こんな時に)

 舌打ちをすると、もう一度目を閉じる。薬も暖炉もない場所でできるのは、体力を温存し少しでも回復することだけだ。昼近くに、フィリウスはもう一度目を覚ます。

「お、やっと起きたか」

「・・・ザギさん?」

「おう、どうした?」

「・・・何でも、ありません」

 努めて平静を装ったが、風邪は着実にひどくなっていた。体が重く、だるい。悪寒もする。

「雪・・・まだ止みませんか?」

 ぼんやりしたまま、訊く。ザギは扉を薄く開け、

「まだだな・・・まあ、ちらつく程度になったが」

 フィリウスは、ちらつく程度なら歩ける、体調がこれ以上悪化しないうちに進もうと立ち上がる。

「・・・先に進みましょう。ガンデナまではあと少しです。夕刻前には着けるでしょうから」

 ザギは特に反対もせず、すでに詰め込んであった自分の荷物を手に取る。

「ああ、そうだな。どうせ休むなら、やっぱベッドがいいしな」

 フィリウスもまたさっさと荷物を詰め手に持ち、火の始末をして小屋を出る。二人は小雪の降る中、雪に二人分の足跡をつけながら、ガンデナへと足を速めた。

 

 夜の帳が下りる寸前ガンデナに辿り着いたフィリウスとザギは、彼らが出会った宿へと足を向ける。カディア側の入口、正面を王都とするとガンデナの裏手の通りにある宿屋で、カディアへの旅人がよく利用する。余っているし料金も安く済むので、二人部屋を取った。フィリウスは少し休んでから食事を取りに行くと言って、ザギを部屋から出す。途端、倒れるようにベッドに横たわる。

(・・・気持ち悪い)

 吐くかもしれない。むしろ一旦吐いた方が楽かと、フィリウスはよろめきながら部屋を出る。廊下の突き当たりにあるトイレに入るとすぐ、耐えがたいほどの吐き気が突如襲ってきて、吐いた。ろくに食べてもいないから、ほとんどは胃液だ。喉から胃までつながっている一本の管が、胃酸で傷ついていくのがわかる。熱くて、痛い。苦しい息の下、ひとまず吐き気が治まるまで吐く。

 便器の水を流すと、フィリウスは手と口を水道の冷たい水で洗う。吐き気はひとまず治まったが、気分は変わらず悪い。部屋に戻って寝ようと思い、知らず震えてきた足に力を入れ、廊下を進む。部屋までのたった数歩が、やけに長い。一歩、二歩、三歩・・・目を踏み出した時、視界がぐわんと歪み、

(あ・・・)

 あっと思った時にはもう遅い。フィリウスは廊下にうつぶせで倒れ込んだ。そしてぱっと目の前が暗くなって、意識が途絶えた。

 

 ――誰かが、髪を撫でてくれている。ぎこちなく、優しく、穏やかに。

 ふっと意識が暗闇から上昇した。

「・・・気が付いたか?」

 髪を梳く手の延長線に、緩慢な速度で視線をやる。

「ザギ、さん・・・」

 かすれた声で名を呼ぶ。喉が痛い。

 ザギはフィリウスの頬に手をやりその熱さを確かめると、額に乗っていた布を取り冷たい水で濡らし絞って、首筋と顔を拭ってやる。

「ありがとう、ございます・・・」

「・・・気分はどうだ? 何か少し、食えそうか?」

 布をもう一度絞りながら訊ねられる。フィリウスは首を横に振る。そうかと言って、次に水差しを手に取る。フィリウスの上体をゆっくり起こして支えてやりながら、水を飲ませる。

 ・・・フィリウスは水をちょっとずつ飲みながら、何があったか思い出していた。

「私、倒れて・・・」

「ああ、そうだ。悪かった。体調悪いの、気付いてやれないで」

 フィリウスは小さく首を横に振り、ごめんなさいと視線を落とす。

「ご迷惑を・・・」

「迷惑なんて、かけてねえよ。・・・風邪と疲労らしいから、ゆっくり休め」

 支えた体を枕に戻し毛布を整え、ザギは笑う。その武骨な手でもう一度髪を撫で、瞼を閉じさせる。フィリウスはなされるがまま、眠りについた。

 

 

 

 ――夢現、何度か泣いた気がする。ただ悲しくて寂しくて、怖くて、子どもみたいに泣いた気がする。

 ――誰かが頭を撫でて、抱いてくれた気がする。大丈夫だとあやしてくれた気がする。

 

 

 

 一時は高熱でうなされたりもしたようだが、今はちょっと高めの微熱で、喉や体の節々の痛みも起き上がれないほどではない。倒れてから丸一日意識なく、二日目はほとんど寝ていて、三日目の夕頃、ようやくしっかり覚醒した。ザギはベッドの脇で小さな椅子に窮屈そうに座り、ナイフで器用に林檎など剥いている。フィリウスは上半身を起こして背中にクッションを置き、それに寄りかかってザギの手元を見ている。

「ほら、食え」

「お上手ですね・・・」

「おう。傭兵は、何でもできるんだぜ」

 手渡された一口大に切られた林檎を口に放り込む。しゃくっと音がして、甘酸っぱい味が広がる。

「・・・食えるか?」

 美味しいですと答えれば、ザギはほっとしたように笑う。

 林檎うさぎを二つ作ると、一つを自分で、もう一つをフィリウスに渡す。しゃくしゃくとそれを食べる。一口で食べてしまったザギは、三口に分けてゆっくり食べるフィリウスをじっと見つめる。

「・・・何か?」

 その視線がいやに居心地悪く感じ、尋ねる。何でもないと首を横に振ったザギは、一拍置いてから、いやちょっとな、と言い直す。フィリウスは小首を傾げて、言葉を促す。

「・・・あのな、ちょっと真剣な話があるんだけど、聞いてくれるか」

 促されて覚悟を決めたザギは、居住まいを正し、気圧されるほど真剣な眼差しをフィリウスに向ける。

「・・・はい。何でしょうか」

 自然、答える声も硬くなる。ザギはしばらくフィリウスの目を見たまま言葉を発さなかったが、ゆっくり瞬きを一回すると、こう言った。

「俺は、あんたが気に入った。・・・生涯契約を、結ばせてもらう」

 

 倒れてから五日目の昼、乗合馬車はごとごとと進む。その荷台の中に客は七人。青年一人、三十代くらいの夫婦、商人が二人。そして、フィリウスとザギ。

 昨日一日で熱は下がったが、まだ本調子ではない。それでもフィリウスはできるだけ早く王都へ帰ろうとして、多少無茶をして馬車に揺られ、せめて体力を減らさないようにと極力眠っている。数分前からザギの肩に寄りかかるかのように傾いた体はやや熱い。ぶり返してるな、とザギは内心舌打ちをする。

(しょうがねえな、全く)

 少しでも寝やすいように、フィリウスの体を背後から抱き自分の胸に寄りかからせ、洗濯しておいたマントでくるむ。起きた瞬間嫌な顔をされそうだが、これから少なくとも五日はかかる行程を考慮すると、できるだけ無理はさせられない。

 眠るフィリウスの頭をぽんぽんと撫でながら、ザギは思い返す。・・・生涯契約について、二日かけて口八丁手八丁を駆使して説得した。フィリウスはまだ是とは言わないが、ザギの本気を受け止めて、そちらの方向に傾き始めている。

 傭兵は通常、一人の人間にはつかない。けれど、一人の人間についてはいけないわけではない。“生涯契約”と安直に呼ばれているこれは、傭兵でありながら一人の人間につくことを認める代わりに、決してその人物を裏切ったり見捨てたりしてはいけないことを条件とした契約だ。条件を破った傭兵は、他の傭兵によって制約が加えられる。とはいえ、傭兵ギルドにでも入っていない限り、この契約はなんら効力を果たさない。ギルドに所属する傭兵は、実際は少数だ。ザギも所属していない。ならば何故、生涯契約を結ぶのか。・・・裏切らない、見捨てない、守り切る。自らの傭兵である誇りに対する、誓いの表れなのだ。

 短い付き合いだが、ザギは、フィリウスの強さを、弱さを、知った。・・・それは得難いものだと、守るべき価値のあるものだと、感じた。

 ――何が何でも契約させてやると、ザギは不敵に笑う。

 そして、乗合馬車はやや遅れて六日かけて王都に着いた。三日目にはフィリウスの体調もほぼ完璧に戻り・・・“生涯契約”も、無事に成立した。

 フィリウスは契約を結ぶにあたり、いくつか条件を付けた。もし何かあっても絶対死なないこと。給料は出すが自分でも働き口を見つけること。主扱いはしないこと。子ども扱いもしないこと、など。その条件を呑んだザギは、フィリウスの望む生涯契約の形があまりにわかりやすくて噴いた。

 ――個々の人間として互いに対等であるということ。

 当たり前なことを当たり前に求められ、ザギはさらにフィリウスが気に入った。

 

 王都に入ったフィリウスがザギを連れて向かったのは、王宮だった。フィリウスが帰省の挨拶をした青年の名に聞き覚えがあり、ザギは驚く。・・・ユリウス・ルカ・オルフェレア。グレフィアス国の宰相の名。そして、部屋に乱入してきたリアリスという金髪の青年と、同じく金髪の美少女。信じられない思いで、二人を見やる。・・・最近、第一王子リアリスにゼィレム国の第二王女が嫁いだというが。

 ザギを彼らに紹介したフィリウスは、今さら自分が何者なのか、ザギに明かす。

「言っていませんでしたね、ザギさん。・・・私、この国の宰相ユリウスの、弟子です」

 思ってもいなかった立場に、ザギは一瞬思考を停止させた。けれどすぐに回復すると、面白じゃねえかと、様子をうかがう目で見てくるフィリウスに、にやりとする。

「じゃあ、将来宰相様だ。俺も見る目があるな。なあ・・・フィリウス?」

 フィリウスはええと答え、改めてよろしくと、ザギに向かって笑みを浮かべた。




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