グレフィアス歴648年 4
出会った瞬間が特別だったわけではない。むしろ、獲物としては間違いだった。その結果何がしかの関係を築けたのは、怪我の功名というやつだ。 リディエールにとってフィリウスは、文字を授けてくれた恩人のような存在だ。話せない者にとって、文字は何より意思表示をする道具となる。身振り手振りでは伝えきれない気持ちを伝える、そんな道具。文字を知ったことで、世界がぱっと眼の前に広がった。驚くばかりだ。 同時に、フィリウスという存在に憧れた。自分の財布を盗んだ張本人に文字を教える、そんな人間がいるものか? 契約内容に含まないことをする理由はないというのに。 そういう生き方は、すごいと思った。ずっと側にいたい、できるならば横で支えられるようになりたい。・・・そう思ったら、もうじっとしていられなかった。 契約のひと月が過ぎ、フィリウスが来なくなって。自分から行くしかないと思った。兄であり頭である彼にフィリウスの居場所を訊くと、フィリウスに会う気なら二度と俺達とは会えない、それでもいいのかと問われ、一晩悩んだ。その結果今、リディエールはここにいる。 孤児院には、親なしの子が多くいる。それでも貧民区に孤児のグループがあることからわかるように、これらはほんの一部だ。保証人がなければ、孤児院には入れない。それは例えばおじおばであったり、隣の家の裕福で優しい夫婦であったり。・・・この孤児院には一人だけ例外がいるが、その少年ルードについては、何かの事件に巻き込まれたということくらいしか、リディエールは知らない。 フィリウスは、今のリディエールの目標だ。たくさん話したいし、一緒にいたい。だが、なかなか二人は出会えない。その機会は、月に一度ほど。 ・・・先ほど、人込みの向こうにその姿を見た。一目でわかる、赤い髪。ぴんと伸びた背。揃えられた指先。駆け寄ろうとしたけれど、人波に邪魔され、その場に辿りついた時にはもう影も形もなかった。 落ち込みながら孤児院に帰ったリディエールは、院長先生の前に子ども達が輪になっているのを見る。何事かと近付くと、院長先生が気付き声をかけてきた。 「ああ、リディ。どこに行っていたの? ついさっきまで、フィリウスさんがいらっしゃってたのよ」 一瞬、頭が白くなる。先ほどすれ違ったばかりでなく、ここに来たのに会えなかったのだ。ショックを受けるリディエールに、院長先生は手に持った小箱を渡す。 「フィリウスさんから貴方に、贈り物だそうよ。開けてごらんなさい」 促されるまま開ければ、中には高級そうな万年筆が入っていた。そして綺麗な文字で、よく勉強なさい、と書かれたメモ。 「よかったわね、リディ」 リディエールは、黒地に金の飾り文字でリディエールの名前が描かれた万年筆を、大事そうにぎゅっと握りしめる。 さあ皆、今日はお茶菓子にケーキがあるのよ、分けていただきましょう。院長先生がそう言った途端、集まっていた子ども達がわっと歓声を上げる。どうやら皆、そのケーキを食べたくて集まっていたらしい。きっとそのケーキも、フィリウスが持ってきたお土産だ。リディエールは落胆する。ケーキは嬉しい、万年筆も嬉しい、けれど。 ――フィリウスに、会えない。 まるで、遠い遠いところにいるひとのようだ。いや実際、遠い場所にいるのだ。リディエールの知らない世界に、リディエールの知らないフィリウスがいる。・・・フィリウスの隣にいるためには、リディエールはまだまだ幼く、何も知らない。 それでも、いつか、その隣に堂々と立とう。リディエールはそう心に誓った。
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