宰相の弟子

グレフィアス歴648年   5





 花祭りが終わり、ひと月が経つ頃。フィリウスは軍法を習い始めた。

「これも必要な知識なのですよ。いつ、どこで、何が起こるかなど、誰にもわかりはしませんから」

 ユリウスはそう言って、今までと毛色の違う類の勉強に戸惑うフィリウスを安心させた。

 ――軍法とは、戦時にどのように騎士を動かし、地の利を活かして国を勝利に導くか、そういった内容の勉強に当たる。ここ数百年戦争のなかったグレフィアス国では、もうそれを口伝えで詳しく教えられる者はいない。ただ、書物を漁り、頭をひねるだけしか道はない。

 初めて、ユリウスとオルグがフィリウスの勉強を教えることとなった。軍法は代々の宰相と騎士団長、そして王族のみが習うもの。リアリスはもう学び終わり、ライディアはこれからだ。グランも団長になった暁には、軍法を学ぶことになるという。

 教えるとはいっても、それは一緒に書物を紐解き、争いの状況を考え、最良と思われる戦い方をフィリウスが説明し、その穴をユリウスやオルグが埋めるという方針だ。いくつものパターンを、あるいは実際に起きた事例を通し、あるいは架空の事例で、対談を繰り返す。

 これがグレフィアス国での軍法の学び方である。

 

 

 そうして勉強を始めて、夏の入り。アドレア国へ外交に行く次期文官長候補、エルー・イシカ・メルデナの供として、フィリウスは初めて国外に出ることとなった。

「今度の外交に同行させていただきます。よろしくお願いいたします」

「・・・精々おしとやかに願いますよ、次期宰相様」

 フィリウスよりも茶色に近い赤毛と、春の薄い空色の目をした彼女は、そう刺々しい口調で返す。フィリウスより三歳だけ年上のエルーは、言葉がきつく何でもきっぱり言ってしまう性格のため、たいてい初対面の印象が悪くつく女性だ。フィリウスはどちらかと言えば慇懃無礼なので、初めはいいが後が悪いタイプであり、エルーとは真逆である。

 ・・・そんな二人なので、勿論、互いの第一印象はかなり悪くて。お互いに、この相手とふた月も一緒に過ごすの嫌なんだけど、という表情で挨拶は終わった。

 そして二日後、馬車でアドレア国へ向かう。二人は表面的な・・・それなのに異様に攻撃的な言葉を交わし続け、ひと月後には何と、打ち解け始めていた。元々、同族嫌悪のようなものですらある。否が応でもひと月一緒に過ごせば、互いの良さがわかり認めあうようになるのも当たり前であった。

 

「わあ・・・すごい」

 アドレアの首都シェドに着き、馬車の窓から外を見たフィリウスの第一声がそれだ。

「貴女、子どものような顔をしてるわよ。・・・どうする? 私が交渉をしている間、街に宿でもとって遊んでいる?」

 あまりに目をきらきらさせているので、エルーは苦笑しながら訊いた。フィリウスはそれに照れ笑いを返し、

「ううん、さすがにそれは・・・。今の私は、貴女のお付きだもの。ちゃんと仕事するわ」

 そう言い、視線をもう一度外に注ぐ。その様子にさらに苦笑を深め、エルーは御者に、ここで下ろすように命じた。

「エルー?」

「少し、歩いていきましょう。今日中に着けばいいのだから」

 エルーの計らいにフィリウスは目を丸くし、それから実に嬉しそうに、

「うん。・・・ありがとう」

 と、微笑んだ。

 

 ――色彩鮮やかなアドレアの街。国が違えば文化が違い、そこに暮らす人々もまた違う。飛び交う言葉、売っている食べ物、空気の匂い。グレフィアス国から出たことのないフィリウスは、異国の風景に夢中になりはしゃぐ。それを温かな目で見つめ、苦笑しつつ手を引くエルー。まるで姉妹のように仲睦まじい様子にアドレアの人々も笑っている。

「・・・! ・・・――?」

「・・・、・・・!」

 何か話しかけられてはエルーが答える。公用語しか知らないフィリウスには、街で普通に使われるアドレア独自の言語はわからない。不思議そうな顔のフィリウスに、そのたびエルーが通訳する。二人はそして、揃って微笑みを返す。

 アドレア国には赤毛も多い。けれど、緑や青といった目の色は珍しい。声をかける者の多くは屋台の店主だが、その容姿を褒める若者などもいる。それを適当にいなしながら、ようやく落ち着きを取り戻してきたフィリウスはエルーに話しかける。

「ねえ、エルー。そういえば今回の外交、何を話すの?」

 エルーは、今さら訊く? と呆れた顔をする。

「そういうことは、初めのうちに訊いておくべきことでしょう」

「うん、その・・・ごめん。思いつかなかった」

 エルーはため息つきつつ、答える。

「アドレアから硝子を輸入しているでしょう? その価格調整よ。それと、アドレアの第二王子がグレフィアスに留学に来るという話が出ているの。その話し合いもするわ」

 硝子はともかく王子の留学については初耳だったフィリウスは、驚き声を高くする。

「留学って、それ本当? 聞いてないわ」

「まだ水面下の状況だもの。それに・・・グレフィアスとしては、留学してほしくないのよ」

 どうして、と尋ねたフィリウスの前にずいと顔を突き出し、エルーは低い声で囁く。

「一つ目の理由は、今まで留学生なんて受け入れた事がないから。二つ目は・・・」

 もったいつけるように言葉を溜め、それから複雑そうに眉をしかめる。

「その第二王子・・・女癖が悪いらしいの」

 二人はやや黙り込んでから、

「噂の真偽を、ちゃんと確かめないと」

「ええ、そうね」

 頷き合い、早足でアドレアの王宮を目指した。

 

 アドレアの王宮はグレフィアスと違い、より頑強で高い壁がある。壁の中には広い敷地と白亜の城、そして後宮がある。アドレアは、一夫多妻制の国だ。

 グレフィアス国の使者として受け入れられた二人には、それぞれ一部屋ずつが与えられた。最上階三階の角部屋で、隣同士だ。今日はゆっくりと休み、明日交渉をすることになった。侍女が一人付き食事などの世話を焼いてくれたが、今回フィリウスは身分をエルーの侍女と偽っているので適度にそれらしく振舞ってもみたが、エルー本人からは不評を買った。いわく、何故かすさまじい違和感があるらしい。

「貴女本当に、ひとの下に就く仕事は似合わないのね」

 その日寝る直後、振舞いで出されたワインによってやや火照った顔をしたエルーは、苦笑混じりにそうしめた。

 そして次の日、エルーが交渉に出向く。さすがにフィリウスはついていかなかった。ただの付き人が大事な交渉の場にまで踏み込むわけにはいかない。街に出ようかと思ったが、もし何か起きると困るので自重する。というのも、城下に行くと何かしら問題を起こす、という傾向があるのを自覚しているからだ。

 そんなこんなでフィリウスは今、この城で働く侍女達の仕事を手伝ってみている。本職には劣れども、フィリウスは侍女の仕事の一通りはできる。手際の悪さは慣れない環境のせいにし、邪魔にならない程度で侍女達と喋っていれば、自然フィリウス中心に輪ができる。

「ねえ、貴女の国にはそういう目や金の髪色をした人がいっぱいいるんでしょう? グレフィアス国ってどう? いい国?」

「貴女、彼氏とかいないの?」

「うわ、腰細い! ちょっとこっちの侍女服着てみましょう、きっと似合うわ!」

 特に会話の中心になっているのは、実に“女の子”なお話。あのひとがかっこいいとかつまらないとか、城下の何番通りに可愛い雑貨屋があるだとか、この頃太っちゃった太ってなんかないじゃないだとか、フィリウスにはあまり馴染みのないちょっとしたことが話題で、よくこうもきゃらきゃらと喧しく盛り上がれるものだと勢いに呑まれる。けれど、何だか楽しい。いつの間にか時間は経ち、昼が過ぎた頃、エルーの交渉が終わったと聞き部屋へ戻る。

「おかえりなさい、フィリ。どこに行っていたの?」

「お疲れ様、エルー。・・・ちょっと侍女の中に混じって、仕事を手伝っていたの」

 エルーは目を丸くし、物好きね、と不思議そうな顔で言う。折角仕事しないでいいのだから遊んでいたらよかったのに、そんな思いが顔に出ている。

「好きで手伝ったのよ。楽しかったわ」

 からっとした笑み一つ、フィリウスはすっと表情を引き締める。

「・・・それで、交渉は? 上手くいった?」

 エルーはふんと鼻を鳴らし、誰に言っているのと唇の端を上げる。

「上手くいくに決まっているじゃない。硝子の件も、第二王子の件も。ちゃんとこちらの要求を呑ませたわ。・・・まあ第二王子については、本人が乗り気らしいから、私から少し説得させてもらうことになったけれど」

 そこでエルーはふと笑顔を深め、

「そう、その第二王子なのだけれど。昼食の後、お茶の席に招待されているの。貴女もいらっしゃい」

 フィリウスは勿論と頷いて、運ばれてきた昼食を食した。

 それから約一時間ほど後、侍女に先導されついた先の中庭には、優雅に午後のお茶を嗜む青年が二人、少女が一人、護衛が数人。エルーは彼らの中に、気後れもせず入っていく。

「遅くなりまして申し訳ありません。本日もお招き頂き、ありがとうございます。ディーン様、ラグロア様、リディア様」

 名を呼ばれた三人が、笑顔でエルーを迎える。全員揃って輝くような黒髪黒目、そして目元の優しい、よく似た雰囲気の三人兄妹、王族だ。

 アドレア国の王族は上から、ディーン、ラグロア、リディア。フィリウスはそっと三人を観察しながら、エルーよりもだいぶ背後で立ち止まる。社交辞令を繰るエルーは、今まで何度かアドレアに来ている。そうして見事彼らから信頼を得て、こうして機会がある度互いの国について情報を交換しているらしい。エルーの外交手腕は確かなものであるようだ。

「・・・あちらは?」

 そうこうしていると、ディーンがフィリウスを見た。フィリウスは深く頭を下げる。

「あの子は、今回私と一緒にグレフィアス国から参りました、私の付き人です。挨拶なさい」

 エルーの言葉とともに、ゆっくりと頭を上げる。こちらを見る三対の黒に、微笑を浮かべ口を開く。

「はじめまして、皆々様。フィリウスと申します」

 何かをあらためるように目を細めるディーンは、フィリウスが侍女ではないと見抜いたのだろうか。ラグロアはあまり関心のなさそうな顔で、すぐ視線を戻す。リディアはといえば、純粋そうににっこりと笑う。三者三様な対応を受けてもフィリウスは動じない。

「エルー、今まで侍女なんて連れてこなかったわ。いたのね」

 リディアが興味津々に訊けば、エルーは首を横に振る。

「いいえ、リディア様。今回は、仮にも一国の使者である者に侍女も護衛もなしというのは、としつこく言われ、仕方なく」

「それは・・・そうね。でも、それ以前にエルー、貴女は可愛らしいのだから、この国に来る時といわず、普段から気を付けていなくてはいけないわ」

「もったいないお言葉です、リディア様。私はあくまで文官の端くれ、リディア様にお気をかけて頂くほどの者ではありません」

「もう、エルー! そういうのは私、嫌いよ! それに、話がずれているわ」

 エルーに食ってかかるリディアを止めたのは、ディーンの苦笑だ。

「リディア、そのくらいにしておきなさい。エルーが困っているよ。それに、お前のいう意味では、その侍女は役に立たないだろう」

 視線を向けられ、フィリウスは失礼に当たらない程度に見返す。ディーンに手招きされおずおずした様子で近付く。

「あの、何か・・・?」

 小さく首を傾げるフィリウスの顔を、ディーンは手の平でリディアへと示す。

「ほら、リディア。見てごらん。これだけ華やかな子が側にいたら、余計にエルーの身が危ないだろう」

 リディアはじっとフィリウスを見つめる。薄っすら目を細めているので、どうやら少し目が悪いようだ。見つめられながらそわそわすれば、ようやくリディアが視線を外す。

「・・・確かに、ディー兄様の仰る通りですわ。貴女、エルーの妹?」

 フィリウスは首を横に振り、違いますと答える。そして困ったようにエルーを見やる。それを受け止めエルーは苦笑。この場の代表であるディーンに、恐れながら、と口をきく。

「ディーン様。私の侍女が困っておりますので、その辺りで放してあげてくださいますか?」

 ディーンは一瞬フィリウスを射抜くように見てから、ああ申し訳ない、とエルーに視線を向ける。

「驚かせてしまったかな。・・・下がっていいよ」

 ディーンの命をエルーが復唱し、ようやくフィリウスはその場を離れることができた。元いた場所まで戻り、微動だにせず王族とエルーの会話に耳を傾ける。途中エルーは宣言通り、ラグロア本人を説得し留学を諦めさせた。・・・そんなこんなで、午後のお茶会が終わる。

 いとまするエルーの背後につき、与えられた部屋へと戻る、その背中にディーンは声をかけた。

「また会いましょう、エルー。・・・フィリウス」

 二人は揃って振り向き、深く頭を下げ、その場を後にした。

 

 その夜、エルーの部屋で。

「ねえ、エルー。・・・ディーン様、私を疑ってるね」

 確認のために問うフィリウスに、エルーは大きく頷く。

「ええ、疑われているわ。やっぱり、貴方が侍女というのは無理があるわね」

 どうして? と首を傾げるフィリウスに、エルーは難しげな顔をする。

「昨日も言ったけれど、貴女、ひとの下に就いて働く人間ではないわ。これはもう、間違いなく。・・・宰相の地位、本当に向いているのね。きっと、天性の職よ。貴女にとっての」

 フィリウスはよくわからなそうな表情をし、何か言い返そうと開いた口を、けれどすぐに閉じる。それからもう一度口を開き、

「うん、ありがとう。・・・誠心誠意、努力するわ」

 そう、微笑む。エルーは苦笑し、ほどほどにね、と優しく諭した。

 

 次の日、二人はグレフィアス国への帰途に着く。二人を送りに、ラグロアとリディアが馬車小屋まで来た。まあこのようなところに申し訳ありません、いいえエルー私達が来たくて来たのよ、それはご丁寧にありがとうございます、今度はいつ来るのかしら、また機会があればすぐにでも。・・・そう会話を交わすエルーとリディアをじっと見守るラグロアは、どうもエルーの言うような好色な人物には、見えなかった。

(昨日も、この国の侍女達は誰もそんな話題は出さなかった)

 情報に齟齬がある気がする。フィリウスは横目でずっとラグロアを観察する。その視線が注がれる先に、華奢なリディアの背、エルーの横顔・・・。

「・・・あ」

 唐突に、フィリウスはわかった。思わず小さく声を上げれば、ラグロアはフィリウスに目をやる。

「・・・何だ?」

 咄嗟に謝り、何でもありませんと頭を下げれば、ラグロアはそれ以上追及してこなかった。ほっとする。

 ――そして、フィリウスとエルーは二人の王族に見送られ、アドレアの国を出た。

 

 

 気付いていない、多分、考えたこともない。

 フィリウスは、そう確信しつつ、一応エルーに訊いてみる。

「ねえ。・・・ラグロア様の噂、どこで聞いたの?」

 するとエルーは、言葉を濁らせる。

「それは、あの・・・その、あの方、以前私に」

 ・・・告白したことがあるの、と困惑した表情で言い、そんなご冗談言われるくらい、女性が好きなのよ、きっと、とそう続ける。

「・・・やっぱり、ね」

 何がやっぱり? と不思議そうなエルーの鈍さに、フィリウスはため息をつく。

「・・・エルー。貴女もうちょっと、仕事以外のことを考えた方が、いいかも」

 そう、苦笑いで忠告をしつつ。




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