王と英雄

ジークロア・ラーグの回想





 ノックをし、失礼しますと扉を開けた青年は、実年齢より若く見える。背は低くないが高くもなく、顔は醜くないが特別整ってもおらず、中肉中背でどちらかといえば痩せ気味だ。淡い金の髪は糸のように細く、藍色の瞳だけがこの国では珍しい色合いだ。その左目は、長く伸ばした前髪とその下のガーゼによって隠されている。

「リズ様、お呼びでしょうか?」

 宰相の下にいる文官の中で、上の位にいるわけでもない。しかし彼は、リズカイトに特別目をかけてもらっていた。・・・・・・いや、リズカイトだけではない。彼は、王の庇護すら受けている。この城の中で、彼という存在ほど特別なものはない。

 一文官でありながら王の横に立てる者。そして時に王以上に敬われる者。人々は彼を“英雄”と呼ぶ。

 リズカイトはユルを見て、その冷たい眼差しを少し細めた。

「ああ、お前にやってもらいたい仕事があってな」

 書類を幾枚か渡す。

「王の下へ持っていってくれ。署名が必要なんだ」

 ユルは少し困り気味に眉を下げ、

「・・・・・・俺じゃないといけませんか?」

 そう訊く。リズカイトはさらに目を細め、小さな苦笑とともにユルを射抜く。

「お前、ここ最近、ディルから逃げているだろう。たまには会いに行ってやれ」

 ユルはそれに、いつも通りの反論をする。

「でも、リズ様。俺はただの一文官で、ディル様は王様です」

 リズカイトもまた、いつも通りの言葉を返す。

「関係ない。王が好いているのだから」

 ・・・・・・そして結局いつもの通り、ユルは言われるがままに王の執務室を目指すことになる。しょうがないなと溜息をつきながら。

 

 

 ユルはリズカイトの命に従い、ディルガルドの執務室の前に立つ。一度深呼吸、ノックを二回。

「ディル様、よろしいでしょうか」

 ぴったり一呼吸の後、扉は王自らの手で開かれる。

「ユルっ!」

 切羽詰ったその声に苦笑する。そして抗うことなく、ディルガルドの腕に包まれる。

「ユル・・・・・・元気だな? 怪我や病気はしていないな?」

 まるで抱きしめていないと消えてしまうとでもいうように抱く腕に力を込める、その震えるような声に答える。

「ディル様、大丈夫ですよ。・・・・・・俺はちゃんと、ここにいるでしょう?」

 ユルの言葉に落ち着いたか、ディルガルドはやがて力を緩めた。解放されたユルは安心させるように微笑み執務室の中を覗くと、そこで苦笑を浮かべている体躯の良い青年に苦笑を返す。

「ジーク様、見ていたのならば、止めてくださいよ」

 ジークロアは嫌だねと言って、二人、主にディルガルドへ視線をやる。

「馬に蹴られて死にたくはない。それにそもそも、お前が悪い。ここ最近、ディルを避けてただろう? ディルはお前にぞっこんなんだ。こう何日もお預けされたら、なあ・・・・・・」

 ようやく冷静になったディルガルドは、ユルの持っていた書類を受け取り振り返ると、ジークロアに冷たい目を向ける。

「下世話な言い方をするな、ジーク。私はただ、ユルが心配なだけだ」

 不機嫌なディルガルドの言葉に降参するように両手を挙げ、ジークロアはまた苦笑。しかし薮蛇なので、それ以上は何も言わない。ディルガルドはユルを部屋に招き、扉を閉めると、ほっと息をつく。

「何日ぶりだ、ユル」

 十日ぶりですか、と答え、ユルはジークロアの横に腰掛ける。

「ディル様。……何度も何度も申しておりますけど、俺は一文官で、王様に気にかけてもらうような身分ではないんですが」

「ユル。……お前こそ、何度も何度も言わせるな。本来お前は一文官なんかに甘んじているべき者ではない」

 平行線を辿るいつもの会話。互いに一歩も譲らない。ユルは王たるディルガルドが自分という個人へ向ける想いを説き伏せようとし、ディルガルドはユルへの重すぎる想いを自覚しながらも直さない。二人の中間でそれを傍観しているジークロアは、どちらの正当性も認めつつ、特にユルの頑固さに苦笑を禁じえない。

 ・・・・・・ユルは、王の、この国の庇護を受けるだけの行動をしたのだ。四年前のあの日に。

 

 

 ――それは突然の蹂躙であった。

 街が燃え、城が燃え、血が流れ、ひとが死に、国が亡びかけた。気紛れで残酷な魔王の手によって。

 魔王はひとと同じ姿をしていた。黒い髪、赤い瞳、十代後半ほどの青年の姿。子どものような稚気に溢れたその全身は、血の色に染まっていた。ただ一点ひとではないと示す獣の尾が、ぱたりぱたりと地を打つ。

 魔王はアーシェルトの国を征服しようとした。理由は、ない。ただ欲しいと思ったから。

 城の中では騎士達から死んでいった。ある者は胴体を、喉を裂かれ、またある者は燃え盛る炎に焼かれた。騎士達があらかた倒れると、次は侍女や侍従、下働きの若い娘、文官の青年、貴族の重鎮、果てには王までもが殺された。

 どこを見ても、赤、赤、赤。全てを焼き尽くさんと天へ向かって伸びる炎と、ごろごろ転がる血塗れの死体。硝子の割れる音。焼けた壁が崩れる音。甲高い悲鳴。呻き声。一方的な力の前で消える定めの無数の命。……その時、魔王の手はついに王子へと伸びる。「国を頂戴」。そう魔王に微笑まれたディルガルドは、死を覚悟した。

 国を渡せば国が亡びる、しかし渡さずとも亡びる。いずれにしろ亡びるのだ。魔王を前にした彼は、圧倒的な力の前でただ死を待つだけの存在だった。それはその場にいた誰しも同じで、当時文官長補佐であったリズカイトも、ディルガルドの護衛騎士であったジークロアも、他の何人かの人間全て、ただ恐怖と絶望のまま目を怯えるだけ。

 ついにディルガルドが殺される、その瞬間。魔王に向かって声を上げたのは、縮こまっていたうちの一人。……それが、ユルであった。

「魔王様。この国には幸せな人達が暮らしているのです。その穏やかな暮らしを壊さないでください。代わりに、俺を差し上げましょう。珍しい目を持っているのですよ」

 ユルの言葉に興味を惹かれた魔王は、その珍しい藍色の瞳を近くでじっと見つめそれから、ああこれは本当に珍しい、こんな国よりもよっぽど価値がある、とそう言い、無造作に、実に自然に……ユルの左目に指を突っ込んだ。

 ユルの左目に魔王の指が埋まり、ごぽ、と泡が弾けるような音がした。その指が奥に進むたび、赤黒い血が溢れる。あっという間にユルの顔は真っ赤に染まり、首筋を伝って床へ血が溜まった。そして、眼球が引き抜かれ、視神経が引きちぎられるぶちぶちという音が小さく響く。ユルの側にいた者の顔や手に、血が跳ねた。

 時間にすれば、ほんの数秒だったろう。しかし周囲の者の脳はその数秒を克明に映し、悲鳴一つ上げずにユルが崩折れるまで、誰も瞬き一つ出来なかった。

 数拍の後、絶叫が上がる。それを皮切りに、人々は動きを取り戻した。ある者は喉が裂けそうなほどの金切り声を上げ、ある者は嘔吐する。実に……凄惨な、光景だった。血だらけの目玉を手に持ち笑う血濡れた魔王と、小さな呻き声を上げ倒伏すユル。真っ白な顔色で硬直する王子が、どうにかユルに寄る前に、満足した魔王はその場から消えていた。

 そう。全てのアーシェルトの民は、ユルの犠牲の上に生き長らえている。

 

 

 ――ジークロアは回想する。悲鳴一つ上げなかったユルの下へと駆けつけて、紙よりも白い脂汗の浮いた顔と、流れ続ける赤黒い血、そして息も絶え絶えな様子に、ぞっとした。痙攣する手は冷たく、このままでは死んでしまうと、そう思った。すぐさま治療が施されて、どうにか一命は取り留めたが……。

 その時のことを思い出すと、今でも背筋が凍る。それはジークロアに限ったことでなく、リズカイトやディルガルド、他その場にいた者達全員が、あの場面を忘れられない。魔王に取引を持ちかけ、自らを犠牲に国を救った英雄ユル。当時はまだ十代であった。

 ふうと息を吐き、ジークロアは目の前のに意識を戻す。ユルとディルガルドは常に平行線で終わる問答を、今日もしている。平和だ。そう、一度亡びかけたとは思えないほど、この国は平和に育った。……それに最も貢献しているのが年若いこの二人とは、本当にひとの人生は安穏とはいかないものである。




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