魔王の弟子の物語 〜Tales of the Dragon's Pupils〜

六話   探訪・最私色





 ゆるやかな昼下がり。今日もまた、花々の世話に明け暮れる。

 けれどここは、黒の城。花々よりよほど、木々の方が多く生える。土に汚れながら一心に苗を植えつける青い姿は、生き生きとしていた。

「セグレット」

 呼びかけられ、顔を向ける。黒い髪に宝石のごとき翠色をした瞳。黒の四番弟子・ラジィが、外見と同じく子供らしい仕草で、やはり土にまみれた手の平をこちらに向けていた。

「どうしたの? この種に何かあった?」

 かざされた手に載っているのは、三、四粒ほどの黒い種。小指の先ほどの大きさもない、ごく小さな種である。

「これ、どんなのが咲くのかなぁ、って思って。ねえ、見せて?」

 小首を傾げ、お願い、と真摯な目で見つめられ、セグレットは苦笑いをした。

「ラジィ、さっきも見せたよね?」

「うん。でも、さっきのとは違う種でしょ?」

 それはそうだけど・・・と返しつつ、苦笑いを深める。

「ねえ、ラジィ。先がわかってしまったら、つまらなくはない? 咲くのを待つ楽しみもあるんだよ」

 問われたラジィはその翠色の瞳を丸く開いて、なんで?と真顔で問い返す。セグレットはさらに応える言葉が上手く思いつかず、ええと、と言葉をにごらせ、

「よいではないか。どのようなのかわかっていれば、咲いた時に、上手く育てきることが出来たかどうか確認出来ようというもの。私達が貴方と同じように咲かせられるとは限らないのだから」

 挟まれた言葉に小さくため息をつき、振り向く。前髪、横髪、後ろ髪と段をつけてそろえられた黒髪が特に目を惹く少女がそこに立っている。黒の五番弟子・リジィだ。

「リジィ。それは屁理屈じゃないかと思うのだけれど。咲いた花の美しさにそう大差はない。むしろ、咲かせるまでと、咲いた後の方が重要だよ」

「それは育てるのが上手な者の言い分であろう。セグレット、貴方ならば咲いた花は全て同じように美しくなるのだろうな」

「そもそもきちんと育たなかったならば花をつける前に枯れてしまうよ」

 むう、それもそうだな、と眉根を寄せるリジィに、セグレットは微笑を浮かべる。

「花を咲かせたいと思わなければ、リジィ。植物相手でも、親身にならないと。育てることを楽しむのが庭仕事の基本だと、ぼくは思っているよ」

 君は少し、効用とかそうしたものを考えすぎだね、と続ける。そうかもしれぬ、とリジィは難しい表情で頷いた。話に一区切りついたところで、ラジィがじれったそうにまた口を開く。

「ねぇ、ねぇセグレット。でもやっぱり、見たいなぁ・・・」

 だめ? と甘えるようにすがりつくラジィに、セグレットは根負けしたようにため息を漏らした。

「うん・・・じゃあ、これで終わりだよ?」

 わあっ、と歓声をあげるラジィの手から種を受け取り、セグレットはうっすらと微笑みを浮かべた。

 セグレットは、心からこの仕事を愛している。仕事とは名ばかり自分の好きでしているだけだが、植えるのも水をあげるのも花を観賞するのも、愛しているからこそ毎日続く。特に自分で創りだしたものは別格で、咲かせてと言われて悪い気はしない。

 黒い種から、黒い茎が伸びる。黒い葉がつく。それから、ぽんっ、と音を立てそうな勢いで花が開いた。それは薔薇に似た、漆黒の花だった。

「ほう、黒の城に漆黒の薔薇、か? 粋なことをするではないか、セグレット」

 感嘆の声は、黒の二番弟子。

「レジィさん。あちらを放っておいてよろしいんですか?」

「まあ、平気だろう。いつでも私が傍にいないと何も出来ないなんて、それじゃ困るのだからね」

 あ、ひでぇと上がった声の方向には、次元の道に手を突っ込む黒の三番弟子・ロジィの姿。一見すると何もないような、それでいてどこか不自然な空間に肘から先が消え去っている姿は見ていてぞっとするものだが、セグレットもすでに慣れた。

 本来、青の弟子が黒の城にいるのは異例なことであろう。だが、セグレットはこの状況に新鮮味や面白味を持っている。誤解されがちであると自覚もあるのだが、本来異例や特例を気にするような玉ではない。

 黒の弟子達に助けられ、その礼を述べに言った頃から、ごく自然にセグレットと黒の弟子達の付き合いが始まった。特別な物事などほぼなさず、例えば今のように、黒の城へ花々を植えるようなことをしたりしているのだが、それはそれでいいのだと、セグレットはもちろん、黒の弟子達も感じているようだ。互いに特別扱いはしないし、生活に変化もない。

 セグレットは咲かせた花をまた種の状態へと戻す。きれい、ありがとう、と微笑むラジィに種を渡して、これで最後だよと念を押す。わかったと頷くが、この返事は今日だけですでに四度目だ。次があるだろうと、予想も出来る。セグレットは苦笑するしかない。

「・・・あしらいに馴れているね。ラジィはなかなかに曲者なのだけど」

 一部始終を見つめていたレジィは不思議そうに目を丸くして尋ねる。セグレットはそれにも苦笑をして、素直でいい子ですよと応じる。自分の妹弟子に比べれば扱いやすいものです、と心の中で付け加え、一旦土をいじる手を止める。

「・・・レジィさん。何か用があったのでは?」

 ほぼ確信を込めて尋ねる。レジィは、よくわかったねと目を丸くするが、考えるまでもなくわかること。・・・土いじりをする他色の弟子の下に、弟弟子の修行の付き合いをほったらかしてまで来るはずがない。

「鋭いね、セグレットは。青の弟子は、皆そうかい?」

「さあ・・・どうでしょう? ぼくなど、まだまだ適いませんよ」

 その脳裏に、兄弟子二人を思い浮かべる。張り合うどころか、その横に並ぶのすらおこがましい。

「そうかい?」

「ええ」

 あまりにはっきり応えたせいだろうか、レジィは続く言葉が思いつかなかったというように唐突に黙り込んだ。

「・・・レジィさん」

 黙ったままで話が続かないので、セグレットは苦笑しつつもう一度呼びかける。

「なんだい?」

「何か、御用がおありでしょう?」

 なんですか? セグレットが穏やかに微笑むと、ああそうだったと自身の手の平を打ち合わせる。

「術練習をしようと思ってね。どうかな、セグレット」

 一緒にやらないかい、問われたセグレットは大きく目を見開き、

「でも、ぼくは青の・・・」

「なんだ、そんなこと。他流試合は禁止なんてされていない。青が混じろうと白が混じろうと構わないではないか」

 最も、赤は困るが・・・。その言葉に頷く。

「敵と試合だなんて、本気で殺し合いになっても文句は言えませんからね」

「そうそう。・・・それで、セグレット。どうだい?」

 困ったなと苦笑。とりあえず断ろうかと思うが、セグレットはふと考え直した。

 ――この誘いは、セグレットの要求に応えた誘いなのかと。青の弟子は実力がちぐはぐで、弟子同士の試合など滅多にない、と以前ロジィに語ったのは他ならぬセグレット自身だ。やりたいのか、と問われた時、ええ、と答えたのも自分だ。

 視線をレジィに移すと、気付いた? と言わんばかりに微笑んでいる。そして一言、

「この試合はね、ロジィがやりたいと言ったのだよ」

 驚いて、思わず笑いがこみあげてきた。ううんと背を伸ばし、手の泥をはたき落とすと、

「よろしくお願いいたします」

 丁寧に頭を下げたのだった。

 

 月の儀練地。正式な試合はそこで行われるが、今回はそうではない。セグレットの整えた庭を壊さないようにルジィによって結界が張られ、セグレット含めた弟子六人は現在その結界の内部である。

「規範にのっとって、勝った者は月に礼。儀練地と試合の規則は同じってことで、第一試合始めるぞ」

 す、と向かい合って礼を交わしたのはラジィとリジィだ。はじめ、の合図で同時に地を蹴る。

 ラジィの幼い体が地に深く沈む、と同時に足払い。リジィはなんなく避け、足元の土を蹴り上げ目潰し。ラジィは横に大きく逸れて避けた。一旦距離を取る。

「・・・えっと、術は使わないのでしょうか?」

 魔王の弟子らしからぬ唐突な肉弾戦に、セグレットは言葉が出てこない。誰にともなく尋ねてみたら、きょとんとした顔が三つ返ってくる。

「術でなんでも片付くってもんじゃあ、ないよな?」

「相手を出し抜くのが試合だろ。術も使うけど、あれもありだ」

「青は違うのかい?」

 ロジィ、ルジィ、レジィの順に肉弾戦を容認され、セグレットは軽く文化的衝撃(カルチャーショック)めいたものを感じる。ところ違えば何もかも変わるらしい。私達は術重視です、と答えるので精一杯である。

 その間にもラジィ、リジィの試合は続く。もう一度互いに駆け寄ったかと思えば、ぱっと手をひらめかせる。ラジィは光を、リジィは闇を、そして相殺。もう一方の手には二人ともが炎。ぱちんっ、といういい音を響かせて炎にまかれた手を打ち付けあい、それは襲いかかるように互いを包む。そしてほぼ同時に炎の膜は破られ、即座に素手での殴りあいが始まる。

「・・・鏡」

 息が合うというよりも、互いに繰り出す技が同じ。鏡のようだ、と呟くセグレットに、ルジィはへえと声を上げた。

「わかるか、さすがだな。ラジィとリジィは、たいてい一緒にいる。しかも、リジィは少しわけありでな、俺たちより、下手したら強い。何もかもからっきしだったラジィを一から鍛えたのは、リジィだ。・・・戦い方が似ていても、何も不思議はない」

 その事情とやらを知りたくなったセグレットだが、訊ねるのは止めておいた。好奇心は猫をも殺すを何度も経験しているくらいには、長く生きている。

 納得とともに視線を戻すと、そろそろ決着がつきそうだった。

 リジィが水の鞭を造りだす。ラジィは防御に転じ、風で目の前に盾を広げた。が、それが勝負を決した。リジィの勝ちだ、とセグレットは我知らず呟いた。ちらりとロジィが目をやったのに、試合に夢中で気付かない。

「上手く避けよ!」

 勝利の叫びとともに、リジィの操る鞭は風にばらばらに切り裂かれて、多くの小刀となりラジィの顔へと降り注いだ。

「や、きゃああんっ!!!」

 叫び声とともにラジィの術一切が途絶える。その隙を逃すことなく、リジィの足かけ、鮮やかな十字固めが決まる。

「はい、リジィの勝ち。月に礼を」

「我が勝利をそなたに捧げる」

 簡素な礼と大層な言葉でリジィは青空の月を仰ぎ、倒れたまま目を回すラジィに手を貸し助け起こした。

「判断が甘いな、精進せよ」

「そう言われても、リジィには勝てないよぉ・・・」

 泣き言を言うでない! と喝を飛ばすリジィには余裕があるように見えるが、ラジィは土にまみれいかにも精一杯だ。くすくすと笑いがこぼれる中、ロジィだけが何やら考え込んでいる。

「なあ、セグレット」

「何?」

「いや、水の鞭に風の盾は、必ず風が不利なのか?」

 時と場合によるけど・・・と前置きした後、セグレットは説明する。

「水を細かく分かれても生きるようにしていた場合、風でばらばらにされた水滴一つ一つが向かってきた力のまま、刃の形をとれる。でも、一度壊れたら復元しないような水ならこれは関係ないし、風だって竜巻のように上に昇るものなら問題にならないと思うよ」

 ほお、そうか、と妙に感心したようなロジィに、いやそんなこともあるかなってだけだよ、とこちらも妙に慌てるセグレット。こちらはこちらで、微笑ましさが笑いを誘う。温かい視線を注ぐルジィ、レジィに気付いて、セグレットはぽっと赤くなった。

「おー、可愛い」

「からかわないでください!」

 ごめんごめん、と謝るルジィは、試合を終えた四番弟子と五番弟子を手招きして呼ぶ。

「ラジィ、残念だったな。まあまあいい線いってたぜ?」

「まだ甘いがな」

「まあそう言わずに、努力は認めてやれよ」

 お前とは年季が違うんだからさ・・・ルジィはリジィの気を収めて、その微笑んだような目を背後の二人に向ける。

「ロジィ、セグレット。次はお前らだ。・・・いい試合を期待してるぜ?」

 お手柔らかに、と苦笑するセグレットは、初めての経験に少し気が高ぶっていた。

 同じ青の弟子の中、その力を競い合うことはままある。だが、ここは黒の城。セグレットの相手となるのは、黒の三番弟子・ロジィだ。ロジィもまた同様、わくわくしているようだ。きらきらと輝く目をセグレットに向け、頑張ろうな!にかっと笑う。

「ええ。・・・手加減はしませんよ?」

 望むところだと、ロジィは拳を握った。

 

 始めの合図とともに、双方地を蹴った。そして、魔法なしの肉弾戦に持ち込んだ。

 差はなく、互角。二人はしばらく打ち合った後、距離を取った。まずは小手調べ、というところで、二人ともそれで決着をつけるつもりは毛頭なかった。

「・・・行きますよ」

 話しかけて先に動いたセグレット、駆け寄りつつその手に光の球を集めていく。そして、ぽいっと投げる。ころころと転がる。

 球はセグレットより先に、ロジィの前へたどりつき・・・ぱっと拡散。いくつもの球に分裂し、ロジィの視界を染め上げようとする。

「甘い、な!」

 けれど、そんな簡単には引っかからない。闇を幕状に広げ遮断する。そして次に出るのはロジィ。彼は幕の端を掴み、魚獲りの網のようにそれをセグレットに向かい広げた。するすると直径を拡大し、近寄るセグレットを丸呑みしようとする。だが。

「っ?!」

 闇の中心を切り裂いて出現する矢。慌てて顔を背ける。その横を白い矢が通過する。

 穴の開いた幕の向こう側にセグレット。ロジィを見て、わずかに笑う。

「これで、終わりですよ」

 セグレットはもう一度、光で出来た球を放つ。それは幕の中心を真っ直ぐ抜けてロジィの目の前で開き、慌てて逃げようとするその手足を絡めとり、体の自由を奪って、それこそ網そのものとなった。

 セグレットの勝ちかと、思われた。が、そこで発揮されたロジィの底力が形勢を逆転させる。

「まだだ!」

 かろうじて手に握ったままだった闇の切れ端を刃と為して、網を切り裂いていく。そして、驚くセグレット目がけて刃を投げつけた。

 ぴっ、とセグレットの頬に傷をつけて、刃は過ぎた。駆け寄っていたセグレットは勢いを止められずロジィに近付き、網を切ったロジィはセグレットに足をかけ転ばせ、その体を押さえつけた。勝負はそこで、結した。

 肩で息をする二人は、試合の終了を告げるルジィの声を聞くまで動かなかった。

「・・・参りました」

 組敷かれたセグレットは第一声に苦笑い。ロジィはやっと彼を解放し、空に向かって一礼。そして、どこか納得しきっていない表情で首をひねる。

「お前、手、抜いた?」

 いいえと首を横に振るセグレット。そっか、とどこか不満そうながらも納得するロジィ。なるほどね、そうしきりに頷くルジィとレジィに気付いてセグレットが首を傾げると、何でもないよと彼らは鮮やかに微笑んだ。

「・・・強いですね、ロジィ。絶対勝てると思ったのに」

「俺だって。絶対負けると思ったのにさ」

 共に、どこか消化不良な結果となったようだ。

 

 ルジィとレジィの対戦はなかった。彼らいわく、今さらこの二人で競い合っても結末は決まっているのだという。

 すなわち・・・引き分け。延々と決着がつかない。

 この二人の場合、攻守どちらに特化しているかがきっぱり分かれるがために、必ず同じ結果を生む。ルジィは守りに、レジィは攻めに、互いに相手の足りない部分を補うような形でその力を磨いてきたので、いつだって勝敗は決まらない。すなわち、引き分けだ。

 そして、黒の試合はここで終わらなかった。

「じゃあ、修行の成果を見るぞ」

 えっ? とセグレットはロジィを見る。彼は笑って、紋章術のことだと言う。

「・・・や、やらなくてはいけませんかね」

 ぼくもと、少し逃げ腰になりつつ問うセグレットに、

「「当たり前だろう?」」

 何を言ってるんだと黒の一番、二番弟子は首をひねる。

 でもと言い募ろうとするセグレットの前で、ラジィとリジィは二人がかりの大きな紋章を宙に描いた。それはぱっと発行して、形を変えて、一匹の大きな黒豹となった。

「幻術か。強度と時間は」

 それに答えるのはリジィ。

「二人ならば、レジィの攻撃にも耐えられるように計算してある。時間は人界の一時間程度だ」

「一人ならば?」

「大きさ、強度、時間ともに、この三分の一程度」

「弱いな。せめて一人でこの大きさが出せるように、改良しろ。まだ無駄が多いぞ」

「・・・わかった」

 どこか不満そうに頷いた。ルジィの言葉は正確に的を射ているとはセグレットも思ったが、二人の渾身の術なのだろうと考えると、悔しいだろうなと予想がついた。

 黒豹が消され、ロジィが前に出るのと同時に、セグレットははっと我に返る。

「あ、あのルジィさん」

「? 何だ?」

 彼はロジィが真剣な顔して描く紋章から目を離すことなく、返事だけをよこす。ロジィは大地にいびつな円を描いているところだ。

「紋章術、ぼくは人数から抜いてくれませ」

「だめ」

 遮り即答である。どうしようと困っている間にも、ロジィは紋章を描き進めていく。円の中にいくつかの言葉と象徴。何をしようとしているのかは一目瞭然だ。土人形・・・ゴーレムを作ろうとしているのだろう。でも多分、

「あ」

 描き終えたところで、ロジィは声を上げた。紋章に従ってむくむくと起き上がったゴーレムは、形を留めることができずにすぐにつぶれてしまったからだ。

「・・・失敗した」

 ルジィは失敗を非難するでもなく、訊く。

「どこで失敗したか、わかっているか?」

「・・・途中の紋章、向きが逆」

 他にはと問うルジィにロジィは落ち込みながら、円がいびつ、順番間違えた、インクがかすれたと失敗を上げていく。するとルジィはよしと言って、

「じゃ、課題な。次は完璧に仕上げてくるように」

 そうしめた。そして、セグレットに目を向ける。

「・・・セグレット」

 逃げられないぞと見つめられ、セグレットは諦めた。

「・・・わかりました」

 渋々と前に出る。怒られるなと、ため息をつきながら。

 

 元の位置に戻ったロジィは、黒の弟子に囲まれる青の三番弟子にじっと視線をやった。

 セグレットはしばらく宙に目をやったまま止まっていた。何を描くか考えているのだろう。射抜くように見つめるルジィやレジィの視線にも、全く臆することはない。すごいと思う。

 ルジィとレジィの視線は、ロジィを落ち着かなくさせる。ラジィはともかくリジィすらもそれは同じようで、本来紋章術を完璧に仕上げることのできる黒の五番弟子は、その視線だけで集中力を維持できなくなって些細な部分を失敗したりする。

 全員に見つめられながらも自然に立っていられるということだけで、素直に賞賛を贈りたい。セグレットはようやく意思が決まったのか深く息を吐き、そして、

「え・・・っ」

 その指を、噛み切った。

 右手の親指から、血がぽとりと滴る。赤黒いそれを使って、セグレットは宙に紋章を描いていく。肩幅ほどの、小さく綺麗な円。その中に描きこまれる、いくつかの象徴と流麗な文字。それは古代語か、ロジィには読めない文字が、円の内側にもう一つの丸を描くようにさらさらと書き込まれる。そして最後、二重円の真ん中に短い単語。

「アル」

 呟いた言葉が、その意味なのだろう。

 徐々に、紋章が光に食べられていく。それと同時に、何かが姿を現し始める。

「・・・ごめんね、アル。突然呼んで」

 召喚によって呼ばれたそれは、蒼い猫。差し出された手のひらをわざわざ避けて、地面にとんと着地した。苦笑いしつつ、セグレットは黒の弟子達に目をやる。

「何を言われるか・・・わかっていますけど、どうぞ、ルジィさん」

 ルジィは大きくため息吐いて、顔を覆った。

「・・・あのさぁ」

「はい」

「そういう理由なら、言ってくれよ」

 どうして渋ったのか、その理由ははっきりしている。

 ――すなわち、インクの有無。血液は本来、禁忌にも近い最後の手段なのだ。

 

 セグレットは、いつぞやぶりのインク試し書き会を実行中である。

「これもだめなのか」

「うん・・・ごめんね」

 驚いた顔をするリジィにしゅんとなって謝れば、少女は憮然とした顔で、セグレットは悪くないと言う。

「そもそも、貴方一人でどうにもならなかったのならば、兄弟子がいかようにかする義務がある。それを怠ったのならば、非は青の一番弟子と二番弟子にあるのだ」

 やや怒っているらしいリジィは、だめだったインクを棚に閉まった。

 黒の弟子達が持っていたインクは、全部で三十数個。そのことごとくが、セグレットには合わなかった。

 あるものは色がつかず、あるものはかすれて文字が読めない。またあるものは触れると蒸発したりする。

「・・・セグレット、お前って、何」

「何と聞かれましても・・・」

 材料にことかくことない墨水が性に合っていたりするロジィは、対照的にインクの合わないセグレットに信じられない思いで目を向けた。

「だってさ、こんだけあって一つも合いそうにないなんて、おかしいじゃんか」

 そうですねと悲しそうに視線を下にやるセグレットを弁護し、リジィが大きく首を振る。

「おかしくなどないぞ、ロジィ。術を使うためのインクなのだから、合う合わないがあるのは当然だ。インクがこれほどに合わないならば、セグレット。貴方は・・・」

 そして、その黒い目が底なしのような色をたたえて、セグレットを見る。

「特別なのかもしれない、な」

 現実感のない言葉は、通り過ぎた風のよう。セグレットは不思議そうな目でリジィを見つめ返す。

「・・・ねぇ?」

 そこに、ようやく口を挟んだラジィ。翠の瞳をきらきらさせて、

「じゃあ、探せばいいよ! セグレットにぴったりな、最高のインク!」

 全員目からうろこが落ちたみたいに、ああそっかと納得した。

 

 何処かへと飛び去っていく弟子達を見たリジィは、振り返った。

「あの子達も、少し変わったかな。情けないことを、この頃言わなくなった」

 満面の笑みを向けるのは兄弟子であるルジィだ。ルジィはこちらも満面の笑みで、

「まあ、セグレットの影響だろう。お互いに感化しあうのは、いいことだ。俺やお前じゃ相談相手にはなれないからな」

「セグレットもな。オネとトウが相手では、苦労してきたことだろうよ」

「そうだな」

 くっくっと笑いあう。

 ・・・一緒に腕を磨いてきた二人の実力は、三番以降の黒の弟子とはあまりにかけ離れすぎていた。それがいいのだということも、中にはあるだろう。しかし、

「まあ、うちの弟妹達に、いい競争相手が見つかって、よかったよね」

「・・・そうだな」

 近しいからこそ切磋琢磨する。そんな者の存在も、やはり必要なのだ。

 

 飛んだ先にあったのは、清らかな水をなみなみと湛える小さな泉。そこまで案内したのはリジィである。

「私も、少々特殊でな・・・。このように澄んだ水が育てる植物のみしか、使えないんだ」

 リジィは泉の周りや中に生えるいくつかの植物から一枚ずつ葉を摘んで、それらを二つのグループに分ける。左手に持った葉をセグレットに渡し、右手を自分のものとする。

「私と同じインクは駄目だったのだから、これらの材料は多分、貴方には合わないだろう。こちらの中からは、どうだろうか?」

 そうして、インクの材料探しは続く・・・。

 

 夜が訪れた。結果、一枚の葉が候補に上がった。しかし、そこまでだった。日はとうに暮れて、セグレットは喜び半分、失意半分の状態で、青の城に向けてゆっくり空を漂っていた。

「・・・」

「・・・」

 送ると言ってついてきたロジィが喋らないものだから、セグレットももちろん一言も発しない。風だけが緩く鳴いていた。

「・・・あのさ」

 ようやくロジィが言葉を発したのは、青の領域に入ってからしばらくしてのことだった。

「・・・何ですか?」

 答えて振り向くセグレットの髪に月光が射してきらりと反射する。その隙間からのぞく目もまた、淡い光を含んで光っていた。その様を、ああ綺麗だなと思ったロジィ。東を司る青に祝福されたような姿に、覚悟が決まった。

「あのな。さっきの葉っぱ、月光草だろ? 俺、月光草の葉の色を定着させる方法・・・つまり、あれを素にインクを作る秘訣、知ってるんだ」

 空中でぴたりと静止して、セグレットは驚いた顔でロジィを見た。本当ですか? と問えば、本当と返る。

「・・・俺はさ、墨水なんてすぐに手に入るもので足りちゃうからさ、ある時期は、こんな平凡なの嫌だ! ってインクを試してみたり、古代術に挑戦してみたり、本当に色々やったんだ。その時に、見つけた方法なんだけどさ」

 ・・・自分一人の秘密にしておきたかったけど、やっぱり教える、とロジィは笑う。

 セグレットは不可解げに表情を歪めて、

「・・・ぼくに教えて、いいんですか? 別に、無理にとは・・・」

 いいんだと、笑みを深くするロジィ。

「俺はさ、俺の友達の困って落ち込んでる姿は見ていたくないし、どうせなら俺と一緒に強くなってほしいんだ。・・・な、セグレット」

「・・・ロジィ」

 思いもよらない言葉にそれ以上言葉が出てこなかったセグレットは、やがて満面の笑みを浮かべることでロジィに応えた。

 

 ――その翌日、セグレットは最も自らに合ったインクを見つけた。紋章術に長けたセグレットにとっては、最大の武器にもなり得るもの。その大きな助けとなったロジィへの恩は、互いに強くなることで果たすと、約束を交わした。




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