魔王の弟子の物語 〜Tales of the Dragon's Pupils〜

八話   幻花・夢想





 月光が最も多く照る、満月の夜。庭の片隅でひっそりと、花を綻ばせたものがいる。六弁の白の花びらは薄く透けて、大気に溶けてしまいそうなほど儚く見える。これに名はなく、セグレットは定義的にルセと呼んでいる。五年に一度、こうした夜の月光を浴びて、たった一夜だけ花をつける。

 開いた花びらの奥から湧き上がるように滴ってくる蜜を、ルセの葉でつくった器にうける。この蜜は同じ植物でないものは何でも溶かしてしまう、強酸のような性質を持っているため、このようにするのだ。

 透明な、月の雫のごとき蜜を集める。この蜜はオネのインクにも使うので、一滴たりと無駄には出来ない。重要な作業だ。

 そんな折、セグレットの視界の端に、誰かがすっと横切った。夜遅くのことである。弟子の誰もが眠りについている時間。一体誰が?と視線を向ける。すると、長い髪が、木々の間に消えていくところだった。

「・・・え、誰っ?」

 声を上げると、人影はびくっとして振り返った。その瞳は、青・・・いや、蒼い。目を覆うほどに伸びた長い髪も、蒼。線の細い、女性のようだった。

 女性はさっと身を翻して、木々の隙間に逃げていく。あっと思ったセグレットは追おうと気を逸らしてしまい、手で持っていた葉を傾けてしまった。

「っあ・・・!」

 傾いた葉から零れ落ちた雫は、両手と右足に降りかかる。じゅっと肉の焦げる音と臭いがして、激痛が走った。このままでは溶かされてしまうと慌てて水を探す。幸い近くに小さな池があり、すぐに洗い流せば、蜜を直に被った両手も右足も酷い火傷程度で済んだ。

 治癒術をかける時間ももどかしく、すぐに周囲を歩いて先ほどの人影を探す。けれど人影はもう消え去って、存在した気配一つ残っていなかった。

 

 昨夜のことを報告しにオネの下へ行く途中、巡回帰りのトウに会った。トウは真っ先にセグレットの両手に目を止めて、どうしたんだと尋ねる。・・・治癒術はかけたのだが、非常に特殊な蜜で負った火傷であるため、完全には治しきれなかった。

 その旨を告げて、昨日の出来事について手短に話す。トウは難しい顔をして、俺もついていくとセグレットと一緒にオネの下へ向かった。

 常のようにオネは薄暗い室内に一人でいて、セグレットが集めた蜜を手渡すと、その両手にやはり目を止めて、零れたのかと尋ねた。それに頷き、トウに話したのと同じように事情を説明する。オネはその間に蜜を何かの容器に移し替えていたが、セグレットが話し終えると、その手をとって薬を塗りつけ、それから二人に背を向けた。

「放っておけばいい。昨日、城には誰も入っていない。・・・それは幻だ」

 確かにこの城には、時折何らかの幻が出現することがある。セグレットはトウと顔を見合わせ、わかりましたと頷く。オネの言うことに間違いはない。・・・しかしそう納得しつつも、セグレットは何故か心の底から湧く想いを抑えきれずにいた。だからそれから毎夜、開花後のルセの世話をすると理由をつけて、庭をそぞろ歩いた。

 三日、夜は静寂を闇に横たわらせているばかりで、何も起きることはない。五日、ルセの世話をするという理由では説明がつかなくなってきた。何も起きない。そして八日後、セグレットは夜の庭を歩き回るのをやめることにした。きりがないと思ったからだ。

 最後の夜、何の異常もない庭を確かめて、部屋に戻ろうと踵を返したセグレットの目の前に、ふっと、青い衣がよぎる。驚いたセグレットは思わず大声で叫んだ。

「魔王様っ! 何故ここに」

 青の魔王はくすくすとその慌てようを笑う。

『ここは青の城で、私はその主、お前は弟子。・・・私がここにいたって、なんの不思議もないだろう?』

 言われてみればもっともで、セグレットは大声を出したことを恥じる。ごめんなさいと顔を赤くしながら謝る。魔王はまた、くすくすと笑った。

『可愛いね、セグレット。・・・そうそう、今日は少し、話があってきたのだよ』

 魔王はそう前置いて、セグレットが返事をする前に話し始める。

『お前、ルセの毒気に当てられたね? その時、何を見たのだろう。・・・蒼い髪と目をした、あの美しい、女性かな?』

 言い当てられたセグレットはびっくりして、目を丸くして魔王を見る。

『・・・あの綺麗な子にはね、セグレット。生身では会えないよ。あれは幻だ。今はもう、あの姿では存在しえないのだよ』

 裏を返せば、それは“昔あの姿で存在したもの”。

「・・・ならば魔王様。あの幻は、今はどのような姿で存在しているのでしょう。・・・いえ、もっと根本的なことですが、あれは、誰、なのでしょうか?」

 セグレットの問いに、青の魔王は答えない。ただ、微笑を浮かべている気配のみが、セグレットに伝わる。

『それは・・・私が言うべきことではないよ。いつか、自分の力で、知りえればよい』

 魔王はそう言って、その場からぱっと消えた。唐突だった。

 何をしに来たのだろう、と考える。そしてわかる。青の魔王は、幻を追いかけ求めるセグレットを見て、引きとめに来たのだろう。

 ――幻という届かない夢を追い続けていたら、そのうち命は壊れてしまう。

 

 幻の残滓を魔王によって断ち切られたセグレットは、やや呆然としたまま部屋に戻る。ここ最近使われるようになった小さな寝床の中では、アルが静かに胸を上下させている。その蒼い・・・あの幻のごとき色を見て、心はまだ、小さく動いた。




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