何かが変わると思った

三章 “蔵書室の主”   3





 その夜、十織はイルクが渡してきた本を、何とはなしにぱらりと開く。一番初めのページには、たった一文、こう書かれていた。

「時は過ぎる……?」

 何のことだろうと思いながら、ぱらり、ページをめくった十織は……途端白く弾けた視界に、一瞬の、夢を見た。

 

 

**********

 

 兄ちゃん、見て、テストで百点取ったの。すごいでしょ? 頑張ったんだよ、とーる。

 おおそっか、すごいな。兄ちゃんはやばかったよ、赤点だぜ、赤点。

 赤点ってなぁに?

 赤点っていうのはな……百点の反対だよ。兄ちゃんは、ダメなんだ。トオルみたいに、頭良くないんだ。トオル、お前はちゃんと勉強して、母さんを喜ばしてやれよ。お前ならできるさ。

 うん、兄ちゃん。とーる、頑張るよ。いい点取れば、母さんも父さんも笑ってくれるもん。

 

**********

 

 トオル、ちゃんと勉強してるの? あなたはいい高校行って、いい大学行って、ちゃんとした職に就かなきゃ駄目よ。そうじゃなくちゃ、サトルみたいに……、

 わかってるよ、やってるよ。

 トオル、サトルみたいにならないでね。全くあの子も、ミュージシャンだなんて馬鹿な夢、早く諦めてくれればいいのに。ただでさえ今は不況で、うちだって、

 わかってる、大丈夫だよ、母さん。あたしは兄ちゃんみたいにはならないんだから。

 そう……? そうね、あなたは、そんなことしないわよね。サトルと違って頭もいいし、努力家だし、わがままも言わないし。

 そうだよ、母さん。だから……、

 

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 あなたがそんなだから、サトルがああなるのよ!

 キミエ、落ち着いて……。

 落ち着けると思う?! サトルはたいした職にも就いてないのに、子どもなんか生まれて、育てていけるわけないでしょう!

 サトルだって父親になるんだ。ちゃんと頑張るさ。相手の子もいい子そうだし……。

 あんな若者夫婦が、ちゃんと子どもを育てられるはずないでしょう! ……そうよ、あなたにはわからないわよね! 私がどれだけ苦労して、サトルとトオルを育ててきたか! あなたはいつも寝てばかり、嫌なことは知らんぷり、面倒くさい疲れてるって、子どものことは全部私に任せっきりだったんだから!

 キミエ、

 あなたはいつもそう! トオルの大学のことだって、何の相談にも乗ろうとしなかったわ!

 金は出すって、言っただろう。

 お金のことは感謝してますよ?! でもね、あなた、あの子が遠くの大学に行きたいって言っても、説得一つしなかったじゃないの! 女の子が一人で、危ないと思わないの?

 トオルが決めたことなら、俺達が口出しすることじゃないだろう。

 そう、いつもそう! そうやって、子どものこともほっぽり放し!

 キミエ、俺だって、俺のやり方で子どもと関わってきたんだ。それをお前にどうこう指図される理由はない!

 俺のやり方? ……そんな都合のいい言葉で片付けないで!

 

**********

 

 

 十織は、自分の叫び声で目を開けた。動悸がひどい。体中に汗をかいている。浅く息を吐き、震える手の甲で額の汗を拭う。

「何……?」

 何を見たのか、一瞬理解できなかった。周囲を見回す。暗く狭い部屋、十織は部屋の真ん中にぺったりと座り込んでいる。

「……トール? トール! どうしたの、何かあった?!」

 そこに、扉をノックする音。十織は咄嗟に、転んだだけだと嘘をつく。

「ごめん、セレフェール、大丈夫だから」

 隣の部屋の住人であるセレフェールはその返答を聞き、ならいいけれど、気を付けてね、と声をかけ、しばらくして扉から離れる。じっとしたままセレフェールが隣の部屋に入っていく音を聞いていた十織は、ほっと息をつくと、窓の外に視線をやる。大きな月が、地平線へと傾き始めている。

「何だった、の」

 月は先ほど見た時とほぼ同じ場所にいる。時間にして、五分も経っていないだろう。

「……夢?」

 

 ――見たくもない、夢だった。

 

 

 ふと見れば、右手にはあの本を握っている。反射的にそれを壁へ向かって投げつけた十織は、ぐっと唇を噛み、虚空を睨んだ。




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