<鈍感七題> 2.平気でそんなことを云う
マエストロの一言でかっと頭に血が上ったサーラは、机をバンと叩き、もういいわ!と大声を上げて、店を飛び出した。 「・・・またかい、マエストロ」 常連の一人がそう呆れるほどには、よくあることだ。 マエストロはよくサーラの気に障ることを言う。急がしそうな時手伝おうかと問えば、こっちはいいから掃除でもしててくれ。初めてのお客さんが明らかにマエストロ目当ての女で邪険に追っ払えば、客商売なのに客を粗末にするな。 他にも色々、マエストロはサーラの気も知らないで、いつもいつもムカつくことばかり口にする。何であんな人がいいんだろうと、あまりの鈍さにそう思うこともあるが、そのたびにマエストロへの愛を余計に深く感じてしまう。 ――そう、サーラばかりが、マエストロを愛している。 報われない、あまりに報われない。愛情という深い迷路の中、一人でさ迷うのはつらいことだ。 「マエストロの・・・馬鹿」 言葉を零して空を見れば、ぬけるような青空。まだ昼も過ぎ、客が増える夕前には、帰らなければ。 「・・・帰りたく、ないなあ」 帰ったら、マエストロはまるで何事もなかったかのように、勘定を頼む、そう言うのだ。 「私は・・・私は、マエストロの奥さんだよね?」 マエストロが好きで、だから嫉妬して心配して、気持ちが伝わらなくて怒って逃げて。 「私は、ただの従業員じゃないのに・・・」 サーラはただ、マエストロの隣で、彼を助けていたいのだ。 しばらくして、いつまでもこうしていても仕方ない、とサーラは重い腰を上げる。戻らなければ。マエストロのところに。 「・・・サーラ」 と、名を呼ばれ、一瞬息を止める。低くて甘ったるい、背筋がぞくぞくするようなその声。 「ここにいたのか、サーラ」 どうしてマエストロが、と振り返り、睨み上げる。 「マエストロ・・・お店は?」 訊けば、ほんの少しの間、お客に番を頼んだらしい。そんな無責任なことを! と声を上げれば、マエストロは深いため息をつき、サーラの目の前に近付く。頭二つ分は高いところにあるマエストロの目が呆れたように見てくる。 「そう言うなら・・・一々、店を飛び出さないでくれ」 お前がいないと困るとそう言われ、嬉しさとともに、やはり従業員扱いなのでは、と不安も募る。しかしサーラも大人、そこはぐっと堪え、今から帰ろうと思ってたところよ、と地面を睨む。 二人、微妙な距離感で並んで戻る。まだ昼が過ぎて少し。日は高いのに、サーラは下ばかり見ている。 店が近付く。と、マエストロは急にサーラの肩に手を置き、大きな図体を屈め、耳元を掠めるように、 「おかえり、サーラ」 そう言うものだから、サーラは結局、怒れない。 マエストロは、少なくとも、サーラを認め、求めてくれている。その事実だけでも、サーラにとってはこれ以上ない喜びなのだから。
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