セリオールの手記

塔の書斎





 潮の塔は、ルーナリアから東、海際の崖の上にある塔。昔は誰かが住んでいて、何かを研究していたそうだけど、今はすっかり朽ち果てて、海風で石が削られるばかりだ。

「こんな場所に……セリオールが?」

 訝しげに、おじさんが呟く。ぼくもそう思う。町で訊いた話以上に朽ちて、大きな衝撃があったら呆気なく崩れてしまいそうだ。

「いるかどうかなんて、中に入ればわかるさ。行こう」

 剣士の息子が早く早くと促すから、ぼくとおじさんは躊躇を押し隠して、その背に続く。

 中は外見と同じくぼろぼろで、本棚や机、カーテンらしき布などが、昔はここにちゃんと人が暮らしていたことを教えてくれる。……どこへ行ってしまったのだろう、この塔の住人は。人が住まなくなった建物は、こうして朽ちてしまうのだ。

「……セリオール?」

 それとも、セリオールが暮らしていたのだろうか。あの手記がいつ書かれたのか、日付けがないから、わからない。もしかしてもう、セリオールはここからいなくなってしまったのだろうか。

「セリオール……貴方の手記を読んで、ここまで来たよ」

 ――会いたい。ぼくも会いたいよ、セリオール。ねえ、どこにいるの?

 

 

 階段を上る。きっとセリオールは、いる。

 塔の最上階は、書斎だった。部屋中に本棚があり本が詰まっている。埃をかぶっていて、可哀想だ。一冊二冊と取り出して手で払うも、量が多すぎるからと諦める。セリオールや他の書記者達が折角書いたのに。読む者がいない本は、必要ないと言われたようなものだ。勿体ないと思う。

 本棚の間を進む。薄暗い室内の奥から光が差し込んでいて、そちらへ向かえば、立派な机と、その背後に飾り枠のついた大きな丸窓。中でインクが固まってしまったインク壺と、羽ペン。どきりとする。……確かにここには、書記者がいたのだ。

 近付いて、羽ペンを手に取る。すると、もうすっかりぼろぼろだったペンは、ぽきりと壊れてしまう。それで、わかる。ここにはもう、誰もいないのだということが。

 ぼくは項垂れて、丸窓から空を見る。この光を背に浴びて、ここにいた誰かの姿を想像する。遠い存在、神の書記者。セリオール、ぼく達は、会えるのだろうか。

 その時、ぼくの目が、何かを見つける。椅子の上、そこに置かれた本、いや、

「……手記、だ」

 ぼくが持っている二冊の手記。全く同じ装丁の手記が、無造作に、まるで、どこかへ出かける時その場に忘れていってしまったかのように、あった。

 ぼくはそっとそれを手に取り、優しく埃を払い、表紙を開ける。見慣れた細く繊細な文字がある。手記は、こう始まっていた。

 

『この窓から見える空は、遠い。こんなに高い場所にいるのに、私は大地からも空からも、ただ見守られるばかりの一人ぼっちだ』

 

 文字を目で追う。紙をめくる。

 

『誰か、私を見てくれないだろうか。私は、セリオール。セリオールだ。誰か、私を、呼んでくれ』

 

 

 

 

 ぼくは無心で先を読む。この手記には、セリオールという人間の想いが、沢山沢山詰まっている。天気のことも日常のことも書かれていない。この中には、神もいない。

 そして、最後は、やや荒れた文字でこう記されている。

 

『お願いだ、来てくれ。惑いの森で、待っているから』

 

 ぼくはそれを見て、静かに一度、頷いた。




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